2014年10月22日水曜日

ベーチェチョルさんの歌

 日本のキリスト教会では少し前から韓国人オペラ歌手のベー・チェチョルさんのことが話題になっていました。ヨーロッパで活躍している最中に甲状腺がんを患い、一時は声を失った。しかし、今、奇跡的に回復の途上にあり、神の恵みを証しする信仰の歌を歌っているとのこと。
 私は初めて伺った時には、まず、オペラに興味がないということ、また、回復した歌声が痛々しいものだったら、聴きたくないな、そんな思いで、チェチョルさんのことをそれ以上知りたいとは願っていませんでした。
 そんなおり、チェチョルさんの経験の実話の映画が完成したので、試写会を見ませんかとの誘いを受け、この夏、映画を見させていただきました。
 現在は、一般公開もされているので、是非、ご覧頂きたいと思います。
 まず驚いたのは、癌を患う前の声が、本当に魅力的なテノール・リリコ・スピントであったということ。彼と共に仕事をすることになったプロデューサーの言葉の通り、私は、初めてといってよいくらい、オペラのすばらしい世界に目を開かれました。
 映画は彼の与えられた才能、賜物のすばらしさを伝えていました。また韓国人歌手として、ギリギリの努力の中で、栄光を勝ち得ていたこと。それが病によって絶望の底に突き落とされる様、痛いほど伝わってきました。類い稀なる才能を持つ人が、それを奪われることはどれほど恐ろしいことでしょうか。
 周囲の人も、絶望しつつ、しかし、叱咤激励しあいながら、未来を模索します。
 試練の中で複雑な心境を吐露するチェチョルさんのお母さんの言葉が印象的でした。チェチョルさんが子供の頃コンテストで優勝したことが、嫌だったと。あの時以来、チェチョルさんが気楽に、楽しげに歌わなくなったと。
 そんな言葉が、チェチョルさんに、記憶を呼びさましたのかと思いました。彼は子供の頃は教会の聖歌隊で歌っていたそうです。教会では神様が私たちの讃美の歌声を喜んでくださるので、歌う理由があります。上手に歌えれば良いでしょうけど、上手に歌うだけが教会の歌ではありません。ですから老若男女誰でも、自分らしく、神様に向かって歌うのです。
 チェチョルさんが手術した後に、最初に歌を歌うことを求められると彼が歌ったのは「輝く日を仰ぐ時」という讃美歌でした。彼が誰に聴かせるでもなく、神様に向かって歌う歌声に涙が出ました。かつてのテノール・リリコ・スピントではありませんでしたが、彼の喜び、悲しみ、感謝が伝わって来る、深い歌声を、歌心を彼は獲得したのだと確信しました。
 その後も、減ってしまった肺活量を回復するためのリハビリ、闘いと苦悩がありました。ためらいがありましたが、最後に彼はステージでアメージンググレースを歌います。「驚くばかりの恵みなりき」かつては盲目だった私は今見えるようになった、と歌う讃美歌。病気の前に見えていなかった神様の恵みが、今、チェチョルさんにははっきりと見えるようになり、そして、それを音にして私たちに届けてくださいました。
 途中で歌えなくなるチェチョルさんを、聴衆が一緒に歌って助けます。音楽とはなんとすばらしいものでしょう。歌手が歌えなければ、聴衆が歌えばいいのです。そしてもう一度チェチョルさんは真心からの感謝を込めて讃美歌を歌いきります。
 チェチョルさんの歌声は、今も、回復途上にあるということです。しかし、聞こえる歌声には、チェチョルさんが「あたらしい歌」を獲得したということがはっきりと聞こえてきます。
 人生の苦しみには意味があるということ、これをチェチョルさんは身をもって証ししてくださいました。
 詩篇119篇71節
 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 人は苦しみを意味ある体験に変えることができます。そして、人生の中で、恵みの神様に出会うことができるのです。
 映画のトレーラーはこちら。
 https://www.youtube.com/watch?v=O8D6e4fhs88

私は暁を呼びさましたい

 キリスト教会ではもちろん伝統的なキリスト教の立場に従って、旧約聖書新約聖書を読むのですが、そのためには、色々な書物を学びます。伝統的でない立場の学者の本も読むことがありますし、ユダヤ教徒やイスラム教徒がどのように聖書を理解しているかも興味深く、教えられることもあります。
 ある書物を読んでいたら、ユダヤ教にとって旧約聖書は、歴史に現れる神の記録であって、単に誰か一個人の教えではない、という言葉がありました。アブラハムしかりモーセしかり。聖書は彼らの教えではありません。神の民は預言者、聖書は神の言葉を聴き続けた人々の歴史。そのような表現もありました。
 今日学んだ詩篇108篇にも、詩人が聴いた神の約束の言葉が記されており、その約束の言葉があるから、詩人の祈りにも保証が与えられます。
 暁を呼びさましたい、という言葉は、この祈りによって、朝明けを早く見させていただきたいという願いといっても良いでしょう。そして、人は朝明けの来るのを早まらせることはできないけれど、それを願う思いを、願いを聞いてくださる神様に告げることができる、そして神様は信じる民の祈りに応えてくだっさるという信仰でもあるでしょう。
 またそれらはこれまでの歴史を通して民の祈りに応えてくださった神様がおられるから無意味でない祈りと言えるのです。
 かつて歴史に介入されご自身の栄光を現された神が、今の私たちの祈りにも応えてくださり、ご自身の真実のゆえに、正義と平和を実現してくださること、信じて祈るものとさせていただきたいものです。
 またこの詩篇は、神に拒否されている信仰者という自覚もあるから傾聴に値します。信仰者は過ちを犯さない存在ではありません。間違い、神の祝福と守りを失う存在でもあるのです。そのような時には神に立ち返り、自分の正しさではなく、神の正しさによって神の働きをなすものに、軌道修正していただかなくてはならないのです。曇りない鏡としての聖書の言葉に自分を照らして歩むものとさせていただきたいことです。

2014年10月8日水曜日

背きと赦しの繰り返し

 今日は詩篇106篇を学びました。この詩篇は105篇と同様の歴史を回顧する詩篇ですが、違いがあります。105篇は神様のすばらしさが歌われているのに対して、106篇は、民の繰り返す背きを、これでもかというように、歌い込み、織り込んでいるからです。
 しかし、それゆえに、赦す神、契約を変えない神様の真実が浮き彫りになるのです。1節「ハレルヤ。主に感謝せよ、主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」45節「主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みのゆえに彼らをあわれまれた。」新約聖書の神の義に通じる、旧約聖書の神様の真実の愛、契約の愛を覚えさせられます。神様こそほめたたえらるべきお方であることが、一層明らかになって、詩篇は第4巻を終え、最終巻、第5巻へ進んでいきます。

2014年10月6日月曜日

マルタとマリヤ

 私の大好きなピアニストに、マリア・マルタ・アルゲリッチという女性演奏家がいます。私が学生の頃には、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルと楽しげな競演を聞かせてくれていました。チャイコフスキーのコンチェルトも、素晴らしい録音がありました。マリア・マルタ、、、という名前、聖書には対照的な二人の姉妹として登場します。アルゲリッチの中では、二人の姉妹の両方の特徴がせめぎあっているのでしょうか。
 聖書に登場するマルタとマリヤは、ベタニヤという村の二人の姉妹。他にラザロという兄弟もいますが。イエス様と交わりのあった友人たちです。
 マルタはイエス様の訪問を知ると、いちはやくもてなしのために行動し始めます。ところがマリヤはイエス様のそばに座って、イエス様の語られる言葉にじっと耳を傾けている。もてなしに心奪われているマルタは、マリヤにも手伝うように言ってください、とイエス様に願うのですが、イエス様は、マリヤが、必要なこと、良い方を選んだのだとマルタに返答します。
 マルタの行動からは、彼女なりにイエス様の存在を喜び、歓迎したい、気持ちがあふれているのを汲み取ることができます。しかし、それはイエス様に対する適切な向き合い方ではありませんでした。
 私たちは、人の良かれと思って行動しているのに、空回りに終わることはないでしょうか。向き合っている人の言葉にじっくり耳を傾けず、こちらの思いで行動して、的外れなことがよくあるのです。
 それに対して、マリヤは、じっくりイエス様の言葉に耳を傾けていました。イエス様が何を望んでおられるのか、彼女は理解しようと時間をかけ、おそらくは、それを聞いてから行動したのではないかと思います。
 人と向き合う時に、その人が何を本当のところ求めているのか、じっくりと耳を傾け、理解して行動したいものです。
 また神様の御心をなすということも同じでしょう。神様の御声、聖書の言葉をじっくりと聞く、これがあってこそ、神様の御心にかなう行動ができるというものです。
 御言葉に聴きいる。そして、その神の言葉が、わたしたちの心の中で、からだの中で、息づき、行動をうながすようになる。そのような行いを持つものでありたいと思います。

2014年10月4日土曜日

変奏曲

 私たちの教会では、マナの聖書日課に従って聖書通読をしている。現在は箴言。箴言は知恵の書。興味深い訓戒の言葉の宝庫。しかし繰り返しもとても多い。なぜだろう。

 同じような言葉繰り返される。しかし、微妙な言い回しの違い。前後関係。こちらが注意を注ぐなら、巧妙なバリエーションになっていることは間違いない。

 先日、バッハのシャコンヌを聴く機会を得た。これも繰り返しの芸術。一定の和声進行が何度も繰り返されるが、それが見事なバリエーションとなって、注意深く聴くものの耳を楽しませる。

 優れた音楽家が優れていることの一つの特徴は、一つの素材を使ってどれだけのバリエーションを創作できるかということだ。そして、そのバリエーションは一つの事柄に沢山の角度から光をあてる。

 聖書を読むこともそういうことだろう。主題が沢山あるわけではない。しかし、一つの主題に色々な角度から光をあてる。日々読み進める中で、その主題が、自分の中に、血となり肉となっていく。

 ああ、もうそのことはわかった、と言って、日々、向き合うことをやめてしまうと、深みに到達することなく、終わってしまう。

 なぜ同じ話題が繰り返されているのか。それがわかるまで読み続けることだ。同じことが繰り返されている中で、何が違うのか。

2014年10月1日水曜日

聖書は自虐史観?

 本日は詩篇105篇を学んだ。「主に感謝して、御名を呼び求めよ。」との言葉で始まるこの詩篇は歴史に介入し働かれる主なる神様のみわざを覚えて感謝し、主のおきてを守れと教えるが、他の詩篇と同様に、古代イスラエルの最大救済事件出エジプトを覚える。しかし、それはモーセの時代のことのみならず、アブラハムから始まり、ヤコブの息子ヨセフの時代にも多く筆を割いている。この歴史の中には、古代イスラエルにとって苦難と思われる出来事が、幾つもあったが、全て神の民の成長のために必要な神様のご計画であったことがわかる。
 出エジプトの年代を確認しようと改めて調べてみたが、諸説ある。そして有力説について、エジプト側での文献、証言が見つからないという疑義が呈示されていることが記されていたが、興味深い発言に出会った。古代エジプトでは、国に不利な証言は残されなかったという例が多いとのこと。いつの時代も変わらないことを逆に歴史の証言不足が証拠づけていると思われた。
 こういうことと比較すると、聖書の歴史記録は真逆であることに頷かされる。北イスラエル王国、南ユダ王国の滅亡。真の神を崇めると言っている神の国の滅亡。これほどスキャンダラスなことがあるだろうか。いや、それを文に刻み、心に刻み、戒めとした人々がユダヤ教徒なのだ。
 筆者は現代のイスラエルが、聖書を遵守するユダヤ教徒とイコールでないと考えるが、歴史を生き抜くユダヤの知恵は、自らの汚点をも包み隠さず伝え学ぶ、聖書的な歴史観に支えられているものではないかと思う。それを自虐史観と呼んでもよいかもしれないが、うそを隠し、臭いものにはふたをする、そのような態度よりも、真実を伝え学ぶ態度の方が賢く、時代を生き抜く知恵を与えてくれるのは当然と思う。

2014年9月22日月曜日

彼岸花の美しい季節ですね。

 昨日のハレルヤタイムでは、サイコーサイコーを歌いました。サムエル君が最近覚えた讃美で、みんなで楽しく歌いました。
 ハレルヤタイムのメッセージは「バベルの塔」でした。世界が諸民族諸国語に分かれることになったいきさつ。とても大切なメッセージでした。人間が高慢の罪を犯さないために、世界は色々な国々、色々な言語で彩られています。私たちは、互いの違いを認め合い、謙遜にならなくてはなりません。自分と異なる人を見下すことしかできないなら、これほど愚かなことはないでしょう。
 そして、礼拝説教はルカ10章より「天に名の記されていることを」(喜びなさい。)でした。働きの成果が上がったことではなく、神様が私たちを天の御国に受け入れてくださることこそ、私たちの喜びとすべきことなのです。それは恵みによること、信仰によることなのです。
 午後は近隣の習志野台キリスト教会30周年記念の集会がありました。30年前に始まった開拓伝道の働きが今日まで守られ導かれ、この日も新しいメンバー、小さな子供たちが大勢集って、次の時代を担ってくれる。宣教は神様の働きなのだとつくづく実感させられたことでした。このリレーのバトンを、担わせていただけること、本当に感謝なことです。
 行き帰りは自転車で挑戦してみました。7キロ。帰りは成田街道を通りますと、起伏も少なく、あっというまに船橋に帰り着きました。
 秋の過ごし易い季節になりましたね。

2014年8月11日月曜日

小さい者が偉い

 昨日はルカの福音書9章から変貌山の翌日の出来事を学びました。悪霊に苦しむ少年を助けることのできない弟子たち。イエス様が十字架に向かおうというときに、誰が一番偉いかを論じ合う弟子たち。しかしイエス様は小さい子どもを示されて、一番小さい者が一番偉いのです。と教えられ、また小さい者を愛する者が、イエス様を愛する者であり、父なる神様を愛する者だと教えられました。
 この場合の小さい者とは、子どものように可愛いというような意味ではありません。今、役に立たない、大人に迷惑をかけるばかりの存在ということです。
 わたしたちは自分の得になる人、益をもたらす人ばかりを愛していないでしょうか。イエス様は自分に迷惑をもたらすような人を愛することが、神様を愛する道だと教えられたのです。
 そして実際、イエス様は不信仰な弟子たちのことを、忍耐強く導いておられたのでした。神様の目には、ひとりひとりのその存在が尊いものだからです。
 ところで英語では大臣のことをミニスターと言います。ミニという言葉がついているところから分かるように、そもそもは小さい人、自分を低くして仕えることを意味していました。これが日本語になると「大」臣。言葉って面白いですね。

2014年7月24日木曜日

讃美への招きと警告

 昨日は詩篇95篇を学びました。詩篇95篇からは、神讃美の詩篇が続きます。キリスト教会はよく歌う教会、よく歌う宗教ですが、それは旧約聖書の昔からの事実でした。そして、それは、いにしえから神に向き合って歩んで来た神の民が、繰り返し、神様の救いを経験したことに対する、神様への応答でした。

 1節「救いの岩」神様は、暴虐に満ちた地からノアを救い出されました。アブラハムには約束の地を与え、息子イサクを与え、ヤコブの時代には、ヨセフを通して、イスラエルの家族をききんから救い、モーセの時代には、イスラエルの民をエジプトから救い出されました。

 イスラエルの民が、再び約束の地に帰る時にも、戦いを挑む異邦人に勝利を与え、ダビデ、ソロモンの時代にイスラエルは空前絶後の繁栄を迎えます。南北王国は、悪王の悪政によって滅びますが、しかし、ダビデの家系はとだえることなく、ペルシャ王クロスによって帰還命令が発せられ、エルサレムの神殿は再建されます。真の神は救いの神、この神に向き合って、神の民は、今日に至るまで、祝福と守りを受けているのです。私たちも、この神様をほめたたえることをやめてはならない。讃美は、讃美されるべき神様にふさわしいことであり、神様の救いを受けた私たちにふさわしい、神様と向き合う姿勢なのです。

 神様が救いをなしてくださったから、その歌は感謝の歌です。その救いは、すばらしい救いですから、私たちは神様を讃美します。聖書は人の罪深さ、この世のはかなさを鋭く見つめますが、それに終わりません。罪深い私たちを救って、永遠のいのちに入れてくださる恵みの神様の恵み深さを覚える。神様がおられ、私たちを救ってくださることを知っている私たちは、喜び歌う理由があるのです。そして今日も私たちは、沢山の恵みに囲まれて、幸いな人生を生かされているではありませんか。それを当たり前と思うのではなく、神様に感謝することを忘れないものでありたいのです。

 世の中には、様々な宗教があり、人々は様々な神々をまつっている。しかし、聖書の神様は、全てのものを造られた創造主なる唯一の神様でした。他のいかなるものに置き換えることのできない、目に見えない、天におられる神様でした。すべての神々にまさって、大いなる王。私たちは、この天の神様を、他のものと同じように見てはならないのです。

 現在知られている海溝で最も深い地点は、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵と呼ばれる場所です。最新の計測では、水面下1万9百11メートル。エベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さを持った海溝が、日本の南、フィリピンの東側に存在していることがわかっています。しかし、このような深海は、大水圧に阻まれて、21世紀の今日でも、深海探査は容易ではなく、深海のほとんどは未踏の領域のまま、存在しています。人知の及ばざる場所。しかし、天の神様は、すべてを支配しておられる。

 その主なる神様が、地上の住み良い場所に、私たちを生かしてくださっているということは何という不思議でしょうか。そして、それは恵み深いことなのです。ですから、私たちは、創造主なる神様、私たちを生かしておられる神様の御前にひれ伏すことがふさわしいのです。

 この途方もなく偉大な神様が、しかし、私たちに向き合ってくださる。羊飼いのように優しく、力強く導いてくださる。驚くべきことです。私たちは、恐るべき神様に畏敬の念を覚えつつも、その愛のゆえに、親しくよびかけることができる。しかし、それゆえに、詩篇は、讃美から警告へ進みます。途方もなく、偉大な神様が、私たちを愛をもって導いてくださるなら、私たちは心をかたくなにしてはならない、のです。神様の前に、柔からな心をもって、歩まなくてはならないのです。

 メリバでの出来事は、出エジプト記17章、民数記20章に記されています。イスラエルの民は、出エジプトという神様の偉大なみわざを体験し、目撃したにも関わらず、荒野の旅路が始まると、飲み水をくださいと言って、モーセに食ってかかった。人間の愚かさが剥き出しにされました。大いなる救いを体験しても、次の瞬間には別の試練の中で、すぐに不信仰に陥ってしまう。こういうことではいけない、と詩篇は警告しているのです。メリバとは争い、という意味。イスラエルの民がモーセと争い、神様と争ったことの愚かな記録でした。そして、マサは試みという意味。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みた、その過ちの記憶でした。私たちは、主がおられると信ずべきなのです。

 「わたしのわざを見ておりながら」という言葉が重要です。イスラエルの民は、十の災いをもってエジプトを打った主なる神様のみわざを知っていました。最後には海を分けて彼らを渡らせ、海を閉じてエジプトの軍勢を滅ぼした神様のみわざを見ていました。また私たちはさらにすばらしい、すべての人を罪と死の滅びから救い出すイエス・キリストの十字架のみわざを知らされながら、神様を疑い、試すようなものになってはならないということです。

 彼らは、せっかくエジプトを出たというのに、約束の地には入れないものとなってしまったのでした。40年荒野をさすらった。徒歩の旅といえども、まっすぐに約束の地を目指したなら、一週間ほどでたどり着ける場所でした。不信仰という罪が、私たちにどれほどの無駄足を踏ませるのか、学び取り、神様に信頼することの賢さを知るものとさせていただきましょう。

 神様が、イスラエルの民を、約束の地に入らせなかったというよりは、むしろ、彼らが自ら迷い道を選んだと言った方が良いでしょう。それが不信仰の罪なのです。神様がこっちだというのに、そっちへ行かない愚かさです。

 その不信仰から守られるために、私たちは神様を讃美し、礼拝し続けなくてはならないのです。讃美は信仰告白です。神様は信頼に足るお方、すべてにまさる方と歌いつつ、私たちの信仰は守られるのです。そう思えないならば、そう思えない時ほど、私たちは歌わなくてはなりません。

 地の深みは主の御手のうちにあり、山々のいただきも主のものである。


 私たちの知らないことまでもすべてを御心のうちに支配しておられる真の神様が、わたしの羊飼いとなってくださる、今日も導いておられる、そのことを信じ、感謝し、そして、永遠のいのち、天の御国を目指して歩むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。

2014年7月21日月曜日

昨日はチャペルコンサート

 新船橋キリスト教会の昨日の主日は、ハレルヤタイム、主日礼拝を行った後、午後はチャペルコンサートでした。ピッコロトランペットの四本喜一さん、ピアノとソプラノの斎藤とし子さんをお招きして素晴らしい演奏と証しを御聴きすることができました。
 筆者もバロック音楽は大好き。バッハ、ヘンデル、テレマン、スタンレーも演奏したことはありますが、四本さんの光の球を転がすような装飾音符に聞き惚れました。そして、トランペットは昔から神の栄光を現す楽器として用いられて来ました。この楽器にしかない高貴な輝き、めったに聴かないトランペットのソロコンサート堪能させていただきました。また演奏の合間に、くちびるをケアする演奏者。生楽器、生演奏を目の当たりにすると、音楽をするという行為のデリケートさを改めて教えられます。お証しにもあったように、練習の中で、大きなトラブルにぶつかってしまったこと。本当に楽器奏者の現実と思わされました。
 と同時に、率直に、神様の約束の御言葉に信頼して、未来を委ねている様が、信仰者の受ける恵みの素晴らしさを証ししていました。神様とともに歩む人生は素晴らしいですね。
 トランペットの演奏の合間には、斎藤とし子さんが素敵なソプラノを聴かせてくださいました。筆者も一度ピアノレッスンを見ていただいたことのある先生です。また教会福音讃美歌の奉献礼拝では共に奉仕させていただいた鍵盤奏者であり、声楽家です。ヘンデルも素敵でしたが、バッハはさらに素敵でした。ヨハネ受難曲。イエス様の苦しみを描くこのオラトリオに挟み込まれた喜ばしげな音楽に、いつも首をかしげていましたが、斎藤さんの解説を御聴きして、なるほどと納得。バッハの極めて理性的なアプローチに、もう一度「ヨハネ」を味わい直してみたいなあと思ったことでした。
 とても息のあった演奏。今回の演奏者はお二人とも同じ同盟基督教団の教会員であられるということも、嬉しいことでした。いつかこのような賜物をもった方たちが一同に会して、オーケストラでも奏でられるととても素晴らしいでしょうね。

2014年7月16日水曜日

現実の悪に直面した時の祈り

祈祷会7月16日

 メッセージの前には、教会福音讃美歌491番「この世はみな」を歌いました。


詩篇94篇

 詩篇94篇は激しい怒りの思いの込められた詩篇です。こういう祈りがあるのかと驚く人もいるでしょう。しかし、それが祈りであるということが重要です。怒りのままにこぶしを振り上げ、人を打ちのめすのではないのです。怒りをぶちまけるのではなく、むしろ内に秘め、神様にさばきを委ねるのです。これが信仰の在り方でした。神の御前での祈りは、本当に自分の怒りが正しいのかと思いめぐらすことにもつながるでしょう。と同時に、この世にはしばしの悪のはびこりが許されているので、私たちは悪に直面し、聖なる憤りを心のうちに覚え、神様に切に祈らなければならない、そのような霊的な必要もあるのです。悪に直面したときに、どのように祈るか。それが詩篇94篇の教えるところです。

 復讐の神。私たちは「神は愛なり」赦す方を教えられていますが、同時に、正義の神は、悪をさばく神であり、罪無き人を殺すような、そのような悪に対して、必ず報復されるお方なのです。「光を放ってください。」神様の光は、真実を照らす光、そして、正しいことと悪いことを峻別する光。それはさばきの光でもあるのです。

 高ぶる者は悪。私たちは、へりくだるものとさせていただきましょう。

 義憤にかられて高慢になってはなりません。私たちが裁くのではなく、神様が正しい裁きを行われるのです。ですからむしろ私たちは、へりくだって祈り、神様に、報復してください、と祈るのです。

 3節には「いつまで、いつまで」と言葉が繰り返されていますが、私たちは、時の流れの中で、忍耐すべきであると聖書は繰り返し方っています。しばらくは悪がはびこることが許されている。これが現実です。すべてを支配しておられる神様のご計画でもある。しかし、最期には必ず神様の正しい裁きがなされると神様は言っておられる。ならば、わたくしたちは、神様を疑うのではなく、忍耐を働かせて「いつまで、いつまで」と祈るのです。これは疑いではなく、しばらくの間、このように祈り続けなければならないということです。祈らなければ私たちは失望に陥ります。しかし、祈りは、忍耐と希望を助けるのです。悪者どもは、しばしの間、勝ち誇っている、そういうものだ。しかし、それは、いつまでものことではないのです。

 放言、横柄、自慢。いつの時代にも、世の中に法があるというのに、それを勝手に解釈し、法を乗り越えて、わがままな思いのままに行動する人々がいるのです。その言葉の愚かさに、はらわたがにえくりかえることがある。神を信じる者は、その悪を祈りのうちに神様に訴えるべきです。

 5節の「あなたの民」が誰であるか。これは重要な問題です。

 民族、人種の問題ではないでしょう。そうではなく、神の言葉に従うものこそ神の民です。神様は一番大切な教えは何であると言われたか。神を愛し、隣人を愛することです。もう世界中、あちこちで火の手が上がっていますが、その言い分は、相手が悪い、報復するのは当然だという言葉、子どもの喧嘩と同じことが、しかし、いっそうたちの悪い方法で、行われています。しばらくの間、神のことばに従う神の民は、悩まざるを得ないときを過ごすのです。結論を性急に求めず、祈って答えを神に委ねるからです。しかし、それが正しい手段なのです。

 聖書は、誰が悪者か、見分ける手段も一貫して教えています。6節を見ればわかります。

 弱者を虐げるもの。これが悪者のしるしです。

 7節のうそぶいている言葉。実は、悪者は、神様の存在を知っているのですが、耳をふさぎ目をふさいで悪を行い続けるのです。しかし、その言葉、心の思いは、真実に目を向けない、偽りなのです。嘘の言葉に騙されてはいけません。またその嘘がしばらく真実のように見えたとしても、やがて化けの皮は剥がれるのです。

 詩篇の時代、民の中に悪者がいたということはやはり神の民が人種、民族のことでないことを教えているでしょう。神のことばに従って、愛を行い、正義を行っているかどうか。それが重要です。

 そして一時、世をはばかり、己の意のままに世の中を動かしているように見える悪者は、じつはまぬけで愚かなのです。何を知らない愚か者なのか。

 私たち、人間に耳、目を与えた神が、聞いていないわけはない。見ていないわけがない。あなたの耳を聞こえているなら、神は、もっとよく聞いているだろう。あなたの目が見えているなら、神はもっとよく見ているだろう。信じる者は、神様が何もかもすべてご存知であるということに平安を持つことができるでしょう。神様が見過ごしにしている悪はないのです。

 さらに、この神様は、国々を戒めるお方でもある。

 国家権力というものも、神様が人間に恵みとして与えておられるものです。政府があり、行政があり、人々の暮らしは秩序の中で、守られる。しかし、その政府が暴走するとき、神様の御旨を超えるとき、神様は戒められる。人の知識もすべて神様が人に与えてくださったものであり、神様こそ、人の知識を超えて、知恵をもっておられる方ですから、何の裁きも行われないかのように、我が物顔で暴走し続けることはできないのです。

 そして、23節ある詩篇の中心12節に、神に祈る人の幸いが輝きます。

12節「主よ。なんと幸いなことでしょう。
    あなたに、戒められ、
    あなたのみおしえを教えられる、その人は。」

 まさに、神のことばを聴き、それを行うものが幸い、その人こそ、まことの神の民、その心の平安は揺るがないのです。

 13節は幸いな人と不幸な人の対比です。

 幸いな人は、わざわいにあっても、心に平安がある。しかし、悪者は、世をはばかっているように見えて、悪を行い続ける限り、墓穴を掘り続けているのだということです。むしろ私たちはそのような人たちのためにも、最終的に神のさばきを受けて永遠の滅びに陥るような惨めなことにならないように、神様憐れんでください。と祈ることができるでしょう。

 そして、神の声に聞き従う民は幸いなのです。

 正義が行われる日を待ち望み、忍耐を働かせるものには希望があるのです。

 その確信は、祈りの中で、強められるのです。

 歌には修辞の技巧が凝らされます。

 だれがだれが、もしももしも、と繰り返されます。

 どんなリズム、どんなメロディーで歌われたことでしょうか。興味深いですが、当時の音楽を知ることはできません。機会があれば音楽をつけてみるのも良いでしょうがたい、今日は、この詩が何を強調しているかに注目しましょう。だれがだれが、もしももしも、という繰り返しの中で、詩人が言わんとしていることは、何か。

 主が私の助けであるということです。主の恵みが私をささえてくださいますように、という祈りです。確信を持つだけでなく、祈りつつ過ごすということが教えられています。

 私たちが人間である限り、絶えず、思い煩いはやってくるのです。焦燥感が生じる。だから私たちは祈らなければなりません。自分の言葉で祈れないなら、詩篇を開いて、神の言葉に教えられてそのままに祈る。詩篇はやはり祈りの手本です。そして、実際に、祈るとき、静かにたましいの喜びが心を満たすようになるのです。

 正義を行うはずの法廷が、悪をたくらむような状況すら、詩篇は想定しています。そんなことになったら、どこに正義があるだろうかと私たちは絶望するかもしれませんが、神様はそこにおられない。真の正義の高みにいまして、悪を行う法廷に対してもさばきをくだされるから、私たちは希望と平安を持つことができるのです。

 詩篇94篇が描く悪の法廷は、イエス・キリストの時代に実現しました。ユダヤの議会はこぞってイエス様を死刑にしようと話し合い決断したのです。しかし滅んだのはユダヤ。40年しないうちに、エルサレムは徹底的に破壊されることになります。

 祈りの言葉を一回となえて確信が得られなければ、もう一度、唱えます。

 滅ぼされる側の悪にならないように、また悪に加担にしないように。


 しばしの忍耐を求められる側になったとしても、神の御心を行い、神様に支えていただくものとさせていただきましょう。

2014年7月14日月曜日

興味を抱く

 主日礼拝説教2014年7月13日(日)「興味を抱く」

天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。すぐる週は、台風の接近に伴い、各地で大雨が降り、死者も出ました。悲しみのうちにある方々、困難に遭遇した方々にあなたの慰めと助けがありますように。しかし、また、台風の後には、美しい虹が空にかけられていました。あなたがこの地上を今も滅ぼすことなく保っておられます恵み深さを感謝いたします。どうぞ生かされてある限り、あなたの御心をわきまえ、地上であなたの御旨を果たすものとさせてください。私たちは今日もあなたの御言葉を求めます。聖書の言葉を通して、私たちの務めを教えてくださいますように。また喜んで従う心を私たちのうちにお造りくださいますように、救い主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。アーメン。

 私たちは、これまでに、イエス様のガリラヤ湖周辺での宣教活動の記録を学んで来ました。ゲラサの地では墓場に住んでいた男を救われ、また、その後には、長血を患っていた女性を救われ、会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせました。

 人々を悪霊から解放し、病いから救い出し、実に、死からも生き返らせる、神の御子、救い主としての姿を、見せられたのですが、

 今日、9章を読むにあたっては、9章の51節のことば、「天に上げられる日が近づいて来たころ」という時の理解が必要です。イエス様が、奇蹟を行って、ご自身の神の御子であられることを明らかにすることは必要なことでしたが、しかし、これがイエス様の全てではありませんでした。

 イエス様は、すべての人の罪の贖いのために、十字架で死に、よみがえるために地上に来られました。そして、その後の教会形成と宣教のわざは、12人の弟子たちを土台として、残された人々に委ねられなければなりませんでした。それで、イエス様は、ガリラヤ宣教の終わりの頃に、弟子たちに必要な訓練を施されたのです。

 1節の、十二人を呼び集めて、という言葉は、彼らが、世間の生活を全て捨てていなかったことを告げています。イエス様や他の弟子たちとともに行動することもあった。しかし、自分の生活の場に戻ることもあった。そのような12弟子が、改めて招集されたのです。それは、イエス様が十字架に架かられる前に、必要な訓練を受けるためでした。そして、この1、2節から学ばなければならないことは、12弟子が何を目的として、どんな力をいただいたか、ということです。神の国を宣べ伝えるため、病気を直すため、。言い換えるなら、これは、人間の心の必要と体の必要を満たすためと言って良いでしょう。

 イエス様は、人間のたましい、心の必要を満たすものを持っておられました。その力を、12弟子にも、分け与えられたのです。また、イエス様は人間の体の必要を満たす力をも持っておられました。それを12弟子に分け与えられたのです。

 歴史上、キリスト教会が、単に教えを教える宗教であるだけでなく、教育、福祉、医療においても、世の中に小さからぬ貢献をしてきたのは、このガリラヤ宣教の終わりの頃の十二弟子の派遣に、働きの源をみることができるものです。

 日本の国ではクリスチャンは人口比1%にも満たない少数者です。しかし、キリシタン禁制の解かれた明治時代以降、社会の様々な場面における重要な貢献は、クリスチャンによってなされていることが、今日も日々、明らかにされて、驚くばかりです。会津出身の新島八重らは、看護婦のさきがけとなったと言われています。それまで日本の国では、傷つき倒れた病人を相手に、仕事をするような看護婦は、卑怯な商売だとみなされていたそうです。看護婦の仕事の尊さを知らなければ、これに献身する人もあらわれないし、支えられないのです。そして、そのためには、キリストの愛を知った人々の働きが必要だったということです。

 また様々なキリスト教の社会貢献を、厳しく批判したとしても、キリスト教が、日本の女子の教育に与えた貢献だけは、否定することができないと、言われています。いまだに女性に対する蔑みの言葉が後をたたない日本ですが、男女の平等を正しく認めた聖書のことば、神様の御前にある平等な人間ということを、どこまでもしっかりと学び、また主張して行かなければならないと覚えさせられます。

 イエス様は、人の心を満たし、からだの必要も満たす働きを弟子たちに委ねられた。私たちは、真心から、人の心の求めに答え、目に見える必要にも答える奉仕をなしてゆきたいものです。

 そして、この尊い奉仕について、イエス様は、驚くべき心がけを教えられたのでした。

 日常的なことではありません。たとえて言うならば、オリンピックの短距離走者が、いざ、ピストルの音を聴いて、スタートする瞬間に、ただ走ることだけに集中する、そういう時のことです。弟子たちが、人の心の渇きにこたえ、身体の必要にこたえる、もっとも大切な働きをするときに、余分なものを切り捨てる、余計な心配事に心を奪われず、大切な働きに集中すべきということを教えているのです。クリスチャンは下着を二枚もっちゃいけない、そう言っているわけではないのです。自分の目の前に、イエスキリストの救いを必要としている人があらわれた時に、他のことを気にして、大切なその人のたましいの救いのことをないがしろにしてはならない、そういうことなのです。また、その時に、必要なものは神様が与えてくださる、神様に対する信頼を根底においていることも、イエス様は教えているのです。誰かを助けようとするとき、それがわたしのすべきことなら、神様は、必要を備えてくださる。

 4節には、具体的な知恵も記されていました。一つの町に遣わされたなら、あなたの働きを理解して、支えようとする人が必ずあらわれるでしょう。多くの人の支援を受ける必要はないのです。あなたを理解したその人から支援を受け、その人が支援出来る限り、その町で働きなさい、という、極めて具体的な助言なのです。その人が支援できなくなったら、と気をもむのではなく、それがその町での働きの終わりであると。今日でも多くの宣教師が文字通りそのままでなくても、その中身においては、イエス様の派遣の言葉の通りに、支えられる人々によって、一人一人のたましいを救いに導き、そして、次の町へまた派遣されているのです。私たちは、誰もがそのような仕事に派遣されているわけではありませんが、働き人を支える働きも、直接、人のたましいに関わる働きとともに、ともに重要な働きとなっているわけです。それで私たちは海外宣教に出かける宣教師を支援し、また国内で開拓伝道に励む働き人を、可能な限り支援し続けるわけです。私たちは、献金をささげなくとも、まず祈りに覚えていく、それが大切なことではないでしょうか。

 5節の言葉は、まずユダヤ人に伝道すべきであった弟子たちの状況を背景に理解する必要があります。神の民、ユダヤ人は、メシヤを待ち望んでいる人々でした。その人々に救い主イエス・キリストの到来、神の国の到来を知らせたというのに、受け入れなかったということは、日本人にイエス様のことを伝えたのに、信じなかったということとわけが違います。

 足のちりを払い落としなさい。これは、異邦人と関わったあとには、汚れを洗い清めなければならないというユダヤの律法に関わる教えでした。つまり、イエス様を待ち望むべき人々がイエス様を受け入れない場合は、彼らを異邦人と等しく見なしなさいということなのです。

 日本の場合は、イエス様のことを伝えるにしても、多くの人が聖書のことをよく知らない人々ですので、大変、困難であるということは、ある意味、当然のことなのです。少々のことで、驚いてはならないですし、諦める必要もないのです。

 汚れを絶つということは、ミイラ取りがミイラにならないように、と言い換えても、良いでしょう。日本の国に住んでいれば、神を知らない他の日本人と同じようにしていた方が、楽だし、居心地がよい、ということがあるでしょう。しかし、神を知り、キリストを知ったがゆえに、ゆずれない生き方が出て来るのです。空気を読んで、右から左へ、左から右へと流される生き方から変えられて、揺るがない神様を中心として、イエス様を中心として生きる、そういう人が、実は今の日本の社会に必要とされているのではないでしょうか。足のちりを払い落とすとは、そのような意味で、流されるままの世の生活から、自分を清く保つ、自分を神に従うものとする、そのような意味と言ってよいでしょう。

 イエス様は、十字架に架かられる前に、まず、選ばれた12人の弟子に、必要な訓練を施されたのでした。

 そして、今日、もう一つの話し。興味を抱く、というタイトルは、国主へロデがイエス様に興味を抱いたということから名付けたメッセージのタイトルです。

 聖書には、同じ人が違う名前で出て来るし、同じ名前で違う人が出て来るので分かりにくいのですが、

 一人は、イエス様の誕生の頃、子ども殺しをしたヘロデ大王。彼は、偉大な建築家としても世界史の中で知られるヘロデですが、イエス様30歳の頃にはすでに亡くなっていました。紀元4年に死んでいますので、救い主を殺そうとした時はすでに彼の晩年だったということがわかります。今日登場するヘロデはその息子の国主へロデと呼ばれます。国主というのはガリラヤ地方の国主であって、ユダヤの王とはみなされなかったということです。三人目は使徒の働きに登場するヘロデアグリッパ1世ですが、今日は触れずにおきましょう。

 国主へロデは、他の福音書にも登場します。彼の妻ヘロデヤがバプテスマのヨハネの処刑を命じたことで有名です。オスカー・ワイルドの戯曲、サロメの元となった聖書の話しです。それはヘロデの妻ヘロデヤが、ヘロデの兄弟の妻であったのを、兄弟の妻を奪ったという姦淫の罪を、バプテスマのヨハネが非難したことから、ヘロデヤは、ヨハネのことをいまいましく思い、夫以上に、ヨハネのことを憎んだのでした。

 7節からの記述は、この国主へロデが、バプテスマのヨハネの死の場面に立ち会っていたということからくる行動です。そのことは、マルコの福音書6章のみに記されています。そこを見ると、ヘロデは、ヨハネに対しても興味を抱いていた様子が記されています。彼は自分を非難するヨハネに怒りを燃やすよりも、むしろ真実を語る彼の言葉に惹かれていたのでした。それゆえに、イエス様に対しても興味を抱いたのでした。

 人々のうわさの第一は、重要な誤解を示しています。

 「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」

 神の民イスラエルの中には、来るべき救い主は、死を克服してよみがえるお方であるという信仰がありました。それゆえ、人々が偉大な預言者と認めたヨハネが、よみがえって、イエスとして現れた、そういう間違った解釈が生まれたということです。そして、この言葉が、ヨハネに興味を持ち、しかし、ヨハネの死に立ち会ったヘロデを、当惑させた、動揺させた、そして、イエス様に興味を抱かせたということなのです。

 二つ目と三つ目のうわさは、さほど重要ではないでしょう。イスラエルの人々は、偉大な神の人があらわれる度に、エリヤの再来、昔の預言者の再来とうわさしたのです。バプテスマのヨハネのときもそうでしたし、そして、イエス様に対してもそうだったということです。

 ヘロデは、しかし、第一のうわさに、もっとも興味を惹かれていました。自分が殺したヨハネがよみがえったなら、それは、真の救い主かもしれない。イエスに会ってみたい。

 ヘロデの考えは少し間違っていて、しかし、ある部分あたっていたのでした。

 バプテスマのヨハネはよみがえっておらず、しかし、ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、ご自身がよみがえられた真の神の御子、救い主キリストであることを示されたからです。

 この記事は、ルカの福音書におけるイエス様の復活の伏線になっているともいえるでしょう。ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、イエス様ご自身がよみがえられて、救い主であることを示された。

 しかし、今日は、国主へロデの末路について伝えるにとどめたいと思います。それは歴史家ヨセフスの伝える所によるものですが、ヘロデが姦淫の罪を犯して娶ったヘロデヤは、夫に、ローマの皇帝に王位を求めるようにと勧めたのでした。パレスチナの田舎、ガリラヤの国主の地位に甘んずるのではなく、父のようなユダヤの王になれという勧めでした。ところが、妻の勧めに従って、王位を求めたヘロデを、時の皇帝カリグラは、危険視して、紀元39年、ヘロデの国主の地位を剥奪し、ガリアへ追放、ヘロデは、妻とともに、流刑地ヒスパニアで最期を遂げることとなったのでした。

 イエス様に興味を抱きながら、自分の罪を悔い改めて清算することがなかったヘロデは、結局、姦淫の罪のゆえに、妻の言う所に従って、自分の身に滅びを招くことになったといってよいでしょう。興味を抱いても、イエス様に出会って自分の生き方を変えるのでなければ、何の意味もないということです。

 イエス様に興味を抱いたなら、聖書をひもとき、真実のイエス様に出会うことです。そして、この方が神の御子、神ご自身であられる方、救い主キリストであることを知り、信じ、自分の生き方を変える、それが神様の祝福を受ける道です。

 この方を知って信じた、尊い恵みにあずかったことを心から感謝しましょう。

 先週は、東京基督教大学の夏期卒業式が行われましたが、そこで語られたメッセージに改めて教えられました。私たちが信じる者とされたのは、神様の選びによることであって、謙遜になるべきだとのこと。なぜなら、それは神様が、私たちにイエス様の救い主キリストであることを啓示されたのであって、それは何ら誇るべきことではないから、ということでした。

 私たちが人よりも賢かったので、イエス様の救い主であることがわかったということではないのだということです。神様が、イエス様を、わたしに啓示してくださった、それは神様によることなのです。

 恵みによって私たちをこの信仰に導いてくださった神様に、ただただ感謝するより他ありません。そして、私たちがイエス・キリストを宣べ伝える時にも、神様がその人にイエス・キリストを啓示してくださるのでなければ、人は信仰に導かれないのですから、祈りつつ、この人にもイエス様を明らかにしてくださいと私たちは、証しするだけのものなのです。

 人が容易にイエス様を信じなかったとしても失望し、諦める必要はありません。悟りは、神様が与えてくださるものなのです。祈りつつ、あかしのわざに励むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。


天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。あなたの御子イエス様は、地上の生涯を終える前に、弟子たちに必要な訓練を施し、人のたましいを救いに導き、また人々のあらゆる必要に答える務めを教会に委ねられました。私たちは小さな群れですが、どうぞその働きを、力の限り担えますように、あなたの導きと助けを今日も与えてください。そして、イエス様に興味を抱きつつ、生き方を変えることのなかったヘロデのようになってしまわないように、あなたの恵みによって、私たちをあなたの御心にかなうものと、日々変えてくださいますように。また私たちが祈りつつ、イエス様のことを証し、あなたの恵みによってキリストを知る人と出会えますように、死を克服しよみがえり、救い主であることを示された、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2014年7月9日水曜日

今日は牧師の故郷新潟市が、かなりの豪雨に見舞われました。

 実家は、大丈夫だったようです。佐渡の教会に浸水がありました。沖縄や九州の方々のためにも、またその後の台風の進路のためにも祈りが必要です。

 祈祷会7月9日

 詩篇93篇

 今日はたった5節の詩篇ですが、短いからこそ、言わんとしていることは、明白に伝わってきます。19世紀の哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、神は死んだという言葉を残したことで有名ですが、しかし、神は死んだと言ったニーチェは死んだ、神は生きておられる、これが真実ではないでしょうか。

 神が永遠に生きておられて、そして、生きとし生けるものの存在を支えている。それが聖書の教える世界観です。また、生き物ばかりでなく、天も地も、全宇宙を支えているのが、神である。それが聖書の世界観です。

 みいつという言葉は、御威光と書きます。威光、だけでもみいつと読みますが、さらに御をつけて、みいつとしたのでした。第二次世界大戦が終わるまでは、日本人は、天皇こそ、御威光をまとっておられると唱え続けてきましたが、戦後、人間宣言をした天皇に、私たちは「みいつ」などという言葉を使うことは、なくなっていったわけです。天皇も、私たちと変わらない人間であることを、誰もが知っている。天地万物の創造者なる神様と、ならぶべくもないのです。

 しかし、主なる神様は、まことの神様であって、まことにみいつをまとって、おられる方。尊厳のあるお方、威光のあるお方なのです。また力をまとっておられるという。そして、この方の存在があって、初めて世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。神様がこの世界をあらしめようと願われる限り、世の終わりは来ない、このような信仰も大切なのです。

 尋常でない台風が、沖縄、九州と日本列島に災害をもたらすことが懸念されています。今までになかったような、ゲリラ豪雨、暑さ寒さに、驚かされますが、ゲリラ豪雨も、局地的である限りは、ノアの経験したような大洪水にはならない。私たちは今日も、繰り返し、虹を見ることができます。神様は、まだこの地球を保っておられる。局地的には、天上が落ちて来るような豪雨もありますが、まだ世界は堅く建てられている。これも事実なのです。

 それは目に見える世界の向こうに、目に見えない神様がすべてをたなごころに治め、支配しておられるからです。そして、この神様は、善なる神様、義なる神様、愛なる神様なので、無意味に地上に混乱をもたらさないのです。

 しかし、詩篇の詩人は、造られた世界の脅威にまなざしを向けます。

 昔から、日本の国も、川の氾濫を如何に防ぐか。治水は、政治の大きな課題でした。船橋の海老川も、海老のように飛び跳ねる、よく氾濫する川であったと聞いています。そして、人間も力を尽くし、堤防を築き、ダムを築き、川の流れをコントロールしてきました。新潟も日本一の信濃川が流れており、この分水路を造るまでは、本当に、洪水に悩まされ続けていました。しかし、人の治水事業が進んでも、洪水が溢れる時には、洪水が溢れる。皆さんの知っている間にも、地震、洪水は新潟で繰り返されています。そして、2011年の震災は、東北地方、三陸地方が、繰り返し大津波に襲われて来たということを現代人にも思い出させる大災害となりました。歴史をひもとけば、繰り返しそうでした。いまだかつて経験したことのないという意味の「みぞうの」という言葉は、精確では無いのです。

 しかし、聖書は、それよりも力強い神に目を向けるべし、と語ります。詩篇の詩人のメッセージです。

 詩篇の詩人は、大水のとどろきの恐ろしさを知っていました。海の波の恐ろしさを知っていました。しかし、それに終わらず、海を造られた神を知っていました。それゆえ、無用に恐れることは無いのです。

 そして、5節、聖なることがあなたの家にはふさわしい。私たちは、聖なる神様を、地上のどのような恐るべき現象とも同じくしてはならないのです。聖なるものを聖とする。俗なるものと同じにしない。これが大切です。

 海が荒れ狂えば、海の神様をなだめる。山に登れば山の神様、そういう神信仰は、真の神様に対する侮辱であり、天地万物を創造された唯一の神様を知らない愚かさです。しかし、聖書は世界が人の犯した罪のゆえに呻いているといいます。怒りもあるかもしれません。

 また私たちの行き先、天の御国は聖なる場所でもあるということを忘れてはならないでしょう。イエス・キリストの贖いを受けて、罪を洗い流されなければ、入ることのできない清い場所なのです。聖なることが神の家にふさわしいなら、汚れたままでは入ることはできないのです。

 イエス・キリストを通して、真の唯一の神様を知り神様に立ち返る道を教えられたことの幸いを思い起こしましょう。真に偉大な唯一の神様が、今日、私たちを、子どもとして愛しておられるとは、なんと心強く、安心なことでしょう。この神様に今日も守られ、生かされていることを感謝して歩んで行きましょう。

2014年7月7日月曜日

二人の女性の救い

 主日礼拝説教2014年7月6日(日)「二人の女性の救い」

 先週私たちは、ゲラサ人の地、墓場に住んでいた男を救われたイエス様のみわざを学びましたが、場面はまたガリラヤ湖の北西側に戻ります。ガリラヤ湖の東側は異邦人の地、救い主に対する待望のない地でした。

 しかし、ガリラヤ湖の西側はユダヤ人たちの住んでいる場所。イエス様が救い主であることについて、熱烈な期待があり、またそれゆえに、イエス様を地上の王に祭り上げようとする人々がいました。

 40節の言葉は、ガリラヤ湖の西側の人たちが、イエス様を救い主として歓迎していたことを伝えています。

 そしてイエス様の助けを切実に求めている人が、イエス様を尋ねてきました。会堂管理者ヤイロです。

 ユダヤ教は、神殿が破壊されて以来、各地の会堂、シナゴグと呼ばれる会堂で聖書朗読を中心とした礼拝を行うようになっていました。会堂管理者は律法の教師ではありませんでしたが、安息日の礼拝に関するすべての準備の責任を彼が負っていたのですから、その地域の名士、世間に名の知られた人物であったといってよいでしょう。彼は礼拝の祈りを導いたり、聖書を読んで説教をする人を選んだりしていました。その人物がイエス様の足もとにひれ伏したというのですから、ただならぬ願いがあったのでした。

 十二歳の一人娘が死にかけている。父親にとってどれほど可愛い娘であっただろうか、想像にかたくありません。もちろん、年寄りだったら死んでもかまわないとか、大勢の息子のうちの一人だったら死んでもかわまないとか、そんなことはないでしょうが。

 悪い虫がつかないように、この子は幾つになったら結婚し、孫の顔はいつ見れるのか、そう思っていた娘が、死にそうになっている、緊急を要することです。

 ところが、ヤイロを落胆させるできごとが起こったのでした。群集がみもとに押し迫って来た。イエス様が身動きのとれない状態におちいり、またもう一人癒しを必要とする別の女性がイエス様に近づいたのでした。

 長血とは、子宮からの出血が不規則に長く続く状態で、もちろん、病いの苦しみが彼女を苦しめていたことでしょうが、それだけでありません、彼女の社会生活にも影響を与えたものであっただろうと想像されます。なぜなら、この病いのゆえに彼女は、汚れたものとみなされ、礼拝やその他の公の行事に、人々と同席することはできなかっただろうからです。

 ですから、彼女は、人前に堂々と姿をあらわすことはできませんでした。おそらく顔も覆いですっぽりと隠し、人に知られないように、イエス様に近づき、イエス様の着物にふれることを選んだのです。着物のふさは、ユダヤの人々が、左肩にかけた布の、角に、ふさをつける律法のさだめに従ったところのふさでした。

 彼女が願ったことは、彼女に実現したのでした。

 人ごみでごった返している状態で、イエス様が「わたしにさわったのは誰ですか」と言われたので、ペテロが、そんな質問はおかしいとばかりに、彼らしく、一番に答えたのですが、イエス様には、明確な意図がありました。

 長血を患った女は、公の面前で癒されたことが知られなくてはならなかったからです。イエス様は、彼女の病いを癒すだけでなく、彼女が社会的にも疎外されていた、その問題にも解決を与えるべく、彼女の癒されたことを公の事実としようと、彼女が自ら名乗りを上げることを求めたのです。イエス様が誰にさわられたか、わからなかったわけではない。むしろ誰が触ったかをご存知であったから、意図してさわった彼女にのみわかるような言葉を発せられたということなのです。イエス様は、正しいことをなさるお方であり、その人にとって必要な救いを与えることのできるお方だったのです。

 そして自分の身の上に起こったことを知っている彼女だけが、イエス様の質問に答えなければならない自分であるということをわきまえさせたのです。

 46節のイエス様の言葉は、イエス様の癒しの奇蹟がどのように行われるものであったのか、私たちの空想をかき立てる言葉です。しかし、神の御子として、無限の力を持っているようでいて、この箇所では、むしろ限りある人となられたイエス様のことを、イエス様の言葉は伝えているようです。「ご自分の力をお使いになって」イエス様は女を癒された。イエス様は、奇蹟をなさるときにも、何の犠牲も払わずに、力を行使されたわけではないということを聖書は伝えているのです。

 それまで公の人々からは隔離された生活を送っていた彼女は、人前で正体を暴かれることを、どれほど恐れたことでしょうか。しかし、しなければならないことでした。イエス様は、恐れる彼女をあえて人前に出して、彼女の人生を人々と共なる場所へ導いたのでした。彼女の社会生活までも、癒し、回復させたのです。

 48節の言葉は、いつも、私たちの興味を惹きます。信仰があれば、病気は治るのか。しかし、イエス様が何を伝えようとしたかということが重要です。イエス様は、信仰の大切さを彼女に教えたのです。これからの人生でも、彼女はいくつも試練に出会うことでしょう。その時に大切なことは何か。信仰を働かせることです。このときは癒されたけれども、やがて彼女も地上の人生の終わりの日を迎えることになったでしょう。その時に大切なことは、イエス様を信じた信仰を、しっかりと保ち続けることだったのです。

 私たちの人生でも、奇蹟的に神様が助けてくださるという経験があるかもしれません。しかし、私たちにとってより重要なことは、如何なる時にも神様を信じる信仰なのです。奇蹟が起ころうと起こるまいと、より重要な信仰を見失わないように。イエス様の言葉の大切なところを忘れてしまわないようにいたしましょう。

 また「娘よ」とイエス様に呼びかけられた女性は、この女性だけです。イエス様はとりわけ優しい言葉をもって、彼女の神の子どもとしての身分の回復を明白に示されたのでした。もちろん、信仰をもって神様に近づこうとする私たちは、誰もが神の子どもとしていただけるその恵みには変わりはないのですが。彼女は身も心も傷つきボロボロの状態になっていましたからとりわけ暖かい言葉を必要としていたのです。そして、イエス様は御力をもって、御言葉をもって、彼女に新しい命を与えていったのです。

 一方、長血の女が癒されている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのでした。緊急をようする願いだったというのに、ヤイロの失望落胆はどれほどのものだったでしょうか。

 ヤイロは、死にかけている娘を救う力がイエス様にあると期待していました。しかし、死んでしまった娘を助けるイエス様の力は信じていなかったのです。この物語は、私たちにも信仰を問いかけています。病いなら直すことができるけれど、死んだら終わりではないか。そうではない。イエス様は死を克服することのできる力を持っておられることを今日も福音書は私たちに主張しているのです。

 イエス様は、ただ奇蹟を行われただけでない、恐れないで、ただ信じなさいと言われました。わずかの時間ですけれども、失望せず、イエス様に望みをおいて信じることが求められたのです。そして信じた人が奇蹟を見ることになるのです。しかし、ここでは死者の復活は、おおっぴらなニュースとして知られることは、避けなければなりませんでした。イエス様は、地上の王として祭り上げられてはならなかったし、敵対者の脅威となって命を狙われることもまだ避けなければならなかったからです。また少女にとっても、よみがえりの奇蹟を体験した女の子として噂になることは避けなければなりませんでした。

 弟子たちの中で、最も信頼のおける三人が選ばれます。ペテロとヨハネとヤコブ。選ばれることで彼らはこの奇蹟を軽はずみに吹聴してはならない厳粛なみわざとして受け取ることを促されたことでしょう。他には、娘の父と母だけが、娘の復活の場面に立ち会ったということも、この話しが、軽いうわさ話になってしまうことを避けるために重要でした。娘と無関係の他人であれば、いや彼女は死んでいなかったのだとか、色々な解釈を加える恐れがあります。しかし、ヤイロとその妻は、心から娘の死を悲しみ、しかし、そのよみがえりを厳粛な喜びをもって受け止めることになるのです。

 前にもお話ししました。ユダヤの人々は、誰かが亡くなると、その葬儀のために、泣き女という職業があり、おいおいと泣き声をあげることになっていたのです。死は悲しみでした。悲しみを押し殺す親族の変わりには、悲しみを十二分に表現する泣き女、泣き屋は、必要だったのでしょう。共に泣いてくれる人、代わりに泣いてくれる人がいるということは、せめてもの慰めに必要なことです。

  しかし、イエスは言われた。
  「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

 泣かなくてもよい。という言葉は、むしろ泣くのをやめなさいという命令に近い言葉のようです。死んだ娘は、これから命を取り戻すので、死の悲しみは、この場にふさわしくないのだということをイエス様は、言われたのです。死んだのではない。眠っているのです。という言葉は、人間にとっては死なのだけれど、イエス様にとっては眠っているに等しい、そういう意味です。娘が完全な死に至っていなかったという意味ではありません。

 実際53節を見ると、周囲の人々は、ヤイロの娘の死をそのまま受け取っていたことがわかります。

 そしてイエス様に対する嘲笑がありました。信仰ではなく、嘲笑です。あざけりの笑いです。それゆえ、イエス様は、娘のよみがえりという奇蹟を真剣に信じて受け止めることのできる人々だけを、家の中に入れたのでした。

 娘の霊は確かに彼女の肉体を離れていました。それが死というものです。しかし、イエス様はその霊を彼女の体に戻して、彼女を生き返らせたのでした。そして、彼女の体の必要、食事を言いつけられたのでした。

 両親は娘の死をまじめに受け取っていましたので、娘のよみがえりは、当然驚きとなったのですが、しかし、イエス様が呼び起こしてくださった事実も真剣に受け取ったことでしょう。そして、イエス様は、この出来事は言いふらさないようにと命じられたのでした。人間の興味本位な知りたがりに、この若い女の子を曝さぬよう、イエス様は配慮をもってこの家族を取り扱われたのでした。

 御巣鷹山の日航機墜落事故の時にも、川上慶子さんが奇蹟的に生き延びました。インターネットでどれくらい情報が拾えるかとトライしてみたのですが、興味本位の情報は曝されておらず、彼女のその後の生活は守られているようで安心しました。


 出会う一人一人のその人の必要を知って、必要な助けと救いを与えていくイエス様。また今日の箇所では、死を打ち破る力を見せられたイエス様。聖書は伝えていました。そして、私たちに信じることを求めておられる方。必要であれば、奇蹟を行ってくださるイエス様が、永遠の天の御国へ、私たちをいつまでも導いてくださることを信じ、感謝して新しい一週間も歩む者とさせていただきましょう。お祈りいたします。

2014年7月2日水曜日

主に感謝することは、良いことです。

 詩篇92篇は安息日のための歌。旧約聖書の神の民は、天地創造の神様のみわざを覚え、7日目に休まれた神様に習って、土曜日は休息の日、安息の日として、すべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。他方、新約聖書では、イエス様が十字架に架かって、私たちの罪の贖いを成し遂げ、三日目によみがえって、永遠のいのちの希望の初穂となられたので、救いのみわざの成就を記念して、日曜日が安息日となりました。いずれにせよ、神様のなしてくださったみわざを覚えて感謝し、自分の仕事をひとまずわきに置いて神様を礼拝する、これが安息日です。

 一週間の間で、自分の為したこと、人の為したことに目を向けるなら、そこには成功もあれば失敗もある、喜びもあれば、悲しみや怒りもあるかもしれません。色々なことが起こります。

 しかし、信仰者は、変わらない神様に目を向けることができる。目に見える世界の向こうに、目に見えない真実な神様がおられることを知って感謝できるから幸いなものなのです。その幸いを忘れてしまわないように。週に一度、私たちの創造者なる神様に向き合う。私たちの救い主なるイエス様に感謝をささげる、そのようにしてたましいの健康を保つものとさせていただきましょう。感謝や讃美は、もちろん、何か感謝すべきことがあったときには、心から感謝をささげるべきですが、自分の感情によることではなく、むしろ意志的に、常に感謝をささげる、その姿勢が、さらなる感謝を呼び込む幸いな人の人生になっていくのです。

 また感謝、讃美をささげるのは、週に一度きりでありませんでした。聖書の中の信仰者は、日に三度、神に祈りをささげる、これが習慣でした。

 私たちも、食前の祈りをかかすことがなければ、日に三度神様に祈りをささげることができます。

 朝昼晩と食べる物が充分に与えられている生活も、決して当たり前のことではありません。地震が来て、津波が来て、電気がとだえ、物流も止まったなら、たちまち買い占めが起きる、人間の生活は、決して万全なものではないのです。しかし、今日は、幸いな生活が守られている。ならば、感謝。もし欠けがあるなら、なおのこと、神様に祈りつつ、求めつつ、生きるものとさせていただきましょう。不平、不満ではなく、祈りを。そして、神様に信頼するなら、私たちは神様と共に生きていくことができるでしょう。

 少年の頃、立琴の名手であったダビデのことが思い起こされます。彼は羊飼いの仕事をしている時も、立琴を奏でながら働いていました。時には、悩み苦しむサウル王のたましいをなだめるためにも、彼の音楽の才能は有効なものでした。人のたましいは、悩み苦しみ、妬みや怒りに支配されることがあるのですが、音楽の調べは、そのたましいの苛立ち、悶えを、やわらげることができるのです。感謝できない、讃美出来ないではなく、感謝する時、讃美する時、私たちの心が、悪い状態から守られ、明るい状態に変えられていくのです。

 私たちは神様のしてくださった良いことを忘れがちなものですから、思い出して、神様を讃美すべきです。

 人生の様々なことを経験すると、神様のご計画の深さが、少しづつわかってゆくでしょう。初めは、なぜこのようなことが、と戸惑うだけの経験だったことにも、意味があったことを教えられる。そのようにして、神様の御計画が、実に深い意味のある計画だったということを知らされていく。確かに初心者には分からないことが、年数を経るとわかるようになっていく、そういうことがあるものです。

 そして今日の詩篇は、讃美の詩篇であると同時に、教訓の詩篇でもあります。

 感謝すること、讃美することが、人をどれほど幸いな人生に導くだろうか。しかし、愚かな人は、感謝、讃美が少なく、感謝、讃美が少ないと、実際に、感謝できること、神様を讃美できることが減っていくのです。悪循環です。

 神様は、悪者でも青草のようにもえいでることを許してくださるのです。栄えるチャンスも与えてくれるのです。しかし、愚か者は、その時に感謝することがない。神の御名を崇めることを忘れている。すると、彼が手にしたものは、指の間をすり抜けて、落ちて行く砂のようになってしまうのです。いつも感謝。感謝なことがあったら、なお感謝。そのような人生が賢い人の人生なのです。

 天には愛と正義の神様がおられることを仰ぎ見て生きる。

 どれだけ不法がはびこっても、神様は、それを放置されることはない。そう信ずべきです。

 そして、正しい人は決してないがしろにされない。

 現実に、滅びるものと神様からの祝福を受けるものの、二つの道があるのです。私たちは、誰もが平等に同じ結末に到達すると考えるべきではありません。救いはすべての人に開かれています。しかし、そこに入るか入らないかは、自分自身の選択です。

 老いてもなお実を実らせる。年を取るといろいろなことが思うようにいかなくなる現実にも直面するでしょう。しかし、神様と共に歩むなら、年老いて実る実を知ることにもなるのです。人生、どこまでも期待をもって歩んで良いのです。年とって悪いことばかりでない。


 今までを導いてくださった神様が、これからも、永遠に私たちを導き祝してくださることに期待を置いて、歩む者とさせていただきましょう。

2014年6月30日月曜日

墓場にいた男

 今日の聖書の出来事は、ゲラサ人の地方での出来事であるとルカは記しています。ゲラサという名前は、今日、ジェラシュという町で知られる古代遺跡のよく保存された町です。ただし、マタイの福音書ではガダラでの出来事となっており、また古い写本ではゲルゲサでの出来事となっており、いったいイエス様は、どこで悪霊に憑かれた人を癒したのかということが問題になっていますが、おそらくガリラヤ湖に一番近いゲルゲサ、今日クルシと呼ばれる場所が、今日の聖書の舞台となった場所であると推定されています。地図で言うならガリラヤ湖の右の方。東側で、大切なことは、イエス様が初めの頃に活動されたガリラヤ湖の北西の側には、ユダヤ人たちが住んでいたのですが、ガリラヤ湖の東側は、ほとんど聖書のことを知らない異邦人たちが住んでいたということです。来るべき救い主に対する期待もない、彼らに対するイエス様の活動は、おのずから、旧約聖書の預言を知っている人々に対する伝道とは異なるものとなったのでした。

 登場する人物は、悪霊につかれていた男。悪霊が人にとりつくことなど信じられないという人は、この人は何かの精神病だったのではないかと考えたりします。そのような聖書解釈もあります。しかし、聖書の記述を見ると、精神病では説明のつかない部分も見受けられるようです。その人自身のたましいでない、別の霊が、この人にとりついて、この人を尋常でない状態にさせてしまっていた。聖書のシンプルな記述でも明らかです。彼は、長い間着物も着けず、家には住まず、墓場に住んでいた。

 人々が、手に負えない、尋常でない、人物。その人に救いを与えるのがイエス様でした。イエス様がその人に出会うと、今までになかった全く新しい状況が起こるのでした。

 28節には、大切な二つのことが記されています。男に取り憑いていた悪霊は、霊的な存在なので、イエス様がいと高き神の子であるということを理解したということです。私たち、人間は、イエス様が神の子、神ご自身であるかどうか、瞬時に見抜くことはできません。しかし、悪霊は、それがわかるのです。そして、イエス様は確かに神の御子、神ご自身であられるお方でした。

 もう一つ重要なことは、イエス様の登場に悪霊が恐れおののいているということです。人間に悪さをする悪い霊の働きがあったとしても、私たちが信じている神様は、天地万物の創造者にして支配者なる神様ですから、悪霊が、人間に、どれほどの悪さをしようとも、最後には、滅ぼされ、地獄においやられる運命なのです。そして、イエス様の登場は、悪霊に、その終わりの時の到来を予感させるものだったのでした。イエス様は、悪い者から人間を救うために来られたからです。

 誰が人を好んで鎖や足かせでつなぐでしょうか。しかし、悪霊がこの人を繰り返し荒野に追いやる。せめて墓場につなぎとめることが周りの人のできる精一杯のことでした。彼は自分の人生を台無しに、人にも多大な迷惑をかけるだけの存在になってしまった。そして、彼の家族が、一番苦しんでいたことでしょう。

 一つの悪霊につかれただけでも、その人の人生は台無しになってしまうでしょう。ところがこの人には、沢山の悪霊がとりついていたのです。レギオンというのはローマの兵士団の呼び名で、6千名ほどの兵士からなる一団のことをレギオンと呼んだそうです。多少の誇張はあるかもしれませんが、たくさんの霊がとりついている、別人格がこの人物を通して幾つもあらわれる、そういう状況から、レギオンという呼び名が彼につけられたのだと思われます。あるいは、別の解釈として、彼がローマの兵士団に加わって活動していた時に、大変、ショッキングな出来事に出会った、精神に障害をきたしてしまったのではないかと推測する学者もいます。

 戦争にでかけて、人を殺したり、殺されるような場面に出くわしたなら、人間は、その心に、深い傷を負わずにいられるのでしょうか。イラクに派遣された自衛隊員から28名の自殺者が出たといわれています。生きて帰ってきて良かったで終わらない、戦争には、人間の存在を根底から傷つけるものが、負けたもの、殺されたものだけでなく、生きて帰って来た人にもあるのです。

 しかし、イエス様は、たくさんの悪霊に憑かれたこの人を、救うことができないお方ではありませんでした。

 悪霊たちは、彼らの最終的な行き場を知っていました。そして、しばらくの猶予だけをイエス様に願ったのでした。底知れぬ所。そんな場所が本当にあるのかと現代人は言うかもしれませんが、およそ2000年前の悪霊は、自分たちがさばかれて最終的にはそこへ行かなければならないということを知っていたのでした。

 私たちは、イエス様の贖いを信じて、神の国へ入れていただける約束をいただいた、それは本当に感謝なことなのです。そして、その救いについての信仰をしっかりと保ち続けなくてはならないのです。

 32節のイエス様の悪霊に対する許可は、必ず疑問の生じる場面です。その前に、この節のゆえに、今日の箇所は、精神疾患とは言い切れない側面があることを覚える必要があるでしょう。明らかに、悪霊が、一人の人物から豚の群れに乗り移って、豚を溺死させたのです。その人自身の問題でない、とりつかれた、それがときはなたれた、ということを、聖書は伝えているのです。

 しかし、多くの人が疑問に思うでしょう。人が救われるのは良いとして、豚は死んで良いのか。そして、聖書が告げる結果としても、人々は、人の救われたことを喜ぶのではなく、イエス様を歓迎することにもならなかった。

 悪霊のしわざは、そのとりついたものを滅ぼすことでした。彼らがとりついていた男は、人間だったので、まだ自殺からは免れ、沢山の悪霊に抵抗していたのかもしれません。しかし、豚は、即、死を選んだ。恐ろしいことです。悪霊と関わりをもつことは、危険なことなのです。悪霊は人をだましますし、最終的には滅びに至らせるのです。

 聖書を読むと、墓場にいた男が、正気に戻っていたことがよくわかります。シンプルな記述ですが、彼は、着物を着ていた。そして、普通にすわっていた。彼は、人間でした。鎖や足かせなど必要ない、尊厳ある人間でした。ただ、しばらくの間、悪霊に支配され、自分の意志すら行使できないような、大変な困難の状況に置かれていたのでした。しかし、権威あるイエス様は、悪霊をしかりつけ、追い出すことのできるお方。最高、最強の霊である、神の霊、聖霊と共に働かれる真の神様でしたから、人の解決出来ない不可思議な問題を立ち所に解決することのできるお方だったのです。

 しかし、人々がイエス様を信じないとはどういうことなのでしょう。信じない人は信じない。奇蹟を見ても信じない、そのケースがここにもあるでしょう。

 あるいは、人々にとって、大量の豚が死んだということの方が迷惑であったという可能性があります。ともすると私たち人間が、一人の人の救いよりも、経済的な利益、物質的な欲望の満足を優先する危険があります。男が救われるのは良いとして、豚が死ぬのはいかがなものか、という疑問は、そういう考え方に陥る危険があります。私たちは豚肉は食べるけれども、人肉は食べないでしょう。ただし、そう言ったからといって、すべての疑問が消えるわけではありません。イエス様、他に方法はなかったのですか、という疑問は残ります。ただし、その場合の答えは、私たちはイエス様のお考えをすべて知ることができるわけではないということです。

 そして、今日の物語は大切な結論に続いて行きます。男はイエス様の「お供をしたいとしきりに願った」という言葉から、彼が、イエス様のみわざをどれほど感謝したかが伺い知れます。本当に台無しになっていた彼の人生、ひどい状態から、イエス様は、彼を解放し、救い出してくださったのです。

 しかし、彼がしなければならないことは、イエス様についていくことではありませんでした。家に帰って、証しすること。家族に、神様のみわざを知らせることでした。

 注意深い方は、イエス様が、人々に、話すなという場合と、話せという場合があることに気付かれるでしょう。教会のわざは告げ知らせることだというのに、福音書のイエス様は、誰にも話すなということをたびたび語られる、不思議に思われる場面です。

 イエス様はユダヤの地方では、初めの頃、話すなということを多く語られています。騒ぎになって必要な働きが妨げられてはならないからです。敵対者によって十字架に架けられる日も、どの日でもよいという話しではありませんでした。

 しかし、今回のわざは、ガリラヤ湖の東側、異邦人たちの多く住む地でしたので、イエス様がいつまでも滞在する訳にはいかなかった。むしろ証し人が残り、神様のみわざを伝える必要があったのです。

 イエス様は、今日の彼には、まず家族に神のみわざを伝えるように命じられた。その都度その都度、イエス様は正しいことを命じられたのです。

 私たちは、何をしなければならないか。自分の置かれた場所を見極めて、語る時に語り、口を閉ざす時に、余計なことを言わない、そのような判断が問われるでしょう。

 時には、無用な混乱を巻き起こさないように、口を閉ざす。また時には、反対者がいても、大胆に真実を語らなければならない場面があるでしょう。今日の箇所では、他に語る人のいない場所で、イエス様の救いのみわざを受けた彼が、そこに残って語り伝える必要がありました。

 イエス様のすばらしい救い、これは家族には、誰よりも他に、わたしが伝えなければならないことである、これは多くの場合、私たちにも共通のことでしょう。そして、家族だけでなく、自分にとって大切な身近な人々に、すばらしいイエス様のことを知っていただくこと。

 しかし誰もがすぐに信じてくれるわけではない。今日のゲラサの人々も、多くは、ただ出来事に恐れをなすばかりでイエス様のことを知ろうとしませんでした。今日も、多くの人が、宗教は怖いもの、と近よろうとしないケースが多いかもしれません。

 しかし、私たちは、真の救い主イエス様のすばらしさを知ったのですから、与えられた機会にイエス様のすばらしさを伝えるものとさせていただきましょう。

 また今日の箇所に登場する人物のように、困難の中で、自分の人生を台無しにしているような人がいないでしょうか。私たちはイエス様でありませんから、たちどころにその人を救い、問題から解放することはできないかもしれません。しかし、苦しんでいる人のために祈り、関わる中で、神様のみわざを見せていただけることになるかもしれません。祈るものとさせていただきましょう。そして、困難の中にいる人が、一人でも救われるように、そのように祈りつつ歩むものとさせていただきましょう。

 お祈りいたします。


天にいます父なる神様、あなたの尊いお名前を心から讃美いたします。今日はゲラサの地、墓場にいた男の救いの話しを学びました。イエス様は、人には困難な問題も力強く解決してくださる権威をもった方であることを知ることができました。どうぞ私たちが試練に出会う時にも、共にいて、私たちが悪に負けてしまうことのないように、力づけてください。また私たちの周りには困難に向き合っている方々もいます。どうぞあなたが共にいて必要な助けを与えてくださいますように。そして、あなたは救われた男に、神のみわざを証しするつとめを与えられました。私たちもあなたのすばらしさを知っているものですから、それを隠さずに、隣人に証しすることができますように。失われた人を救うために地上に来られ、十字架で死んでくださった救い主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。

2014年6月25日水曜日

詩篇91篇

 前回の詩篇90篇は、人の命のはかなさを歌った詩篇、人生のむなしさの中で、神様の助けを祈り求める、神の人モーセの晩年の祈りでした。それとは対照的に、詩篇91篇は、神を見上げて天に舞い上がるような詩篇です。人間は小さくて乏しい存在、しかし、神を見上げる信仰によって私たちは信仰による力強さを得るのです。

 いと高き方、天にいます神様を、隠れ場とする者は、全能者、すなわち、どんなことでもおできになる方の陰にいるのだ。私たちが、イエス・キリストの御名によって祈るとき、それはどれほど力強い方を頼りにすることかと思い出さなくてはなりません。私たちの祈りの声は小さいかもしれませんが、それを聞いておられる方は、恐るべき力をもったお方、人の思いを遥かに超えた知恵をもっておられるお方なのです。この神様が私たちの祈りを聞いて、最善をなしてくださるということは、どんなの素晴らしいことでしょうか。

 狩人のわな、それは、獲物の予想もしないところに、仕掛けられている。私たちの人生も、サタンは、おもいがけないところに霊的なわなを仕掛けているので、私たちは、私たちの想像の及ばない所に、神様の助けを求める必要があるのです。恐ろしい疫病。はやり病いは、昔も今も、人をおびえさせるものでした。不思議なことですが、ある病いが医学によって克服されると、また別の新しい病気が登場して来る。しかし、神様は、その病いからも私たちを守ってくださるというのです。

 きじが、子育てのころ、親鳥がこどもたちを連れて歩いていました。そこに出くわした時に、親鳥がひなをかばうように、荒々しく翼を広げてひなたちをかばおうとした姿には驚かされました。主の羽はどのような羽でしょうか。高い空をゆうゆうとすべる大鷲の羽のようでしょうか。神様の優しく力強い翼の下に、信じる私たちは身を避けることができる。

 主の真実は大盾である。大きな盾なので、私たちの身をすっぽり隠して、飛び来る矢から守ってくれる。主なる神様が偽りを言われない、言われたことは、必ず実行されるお方であるということは、なんと感謝なことでしょうか。

 聖書の時代は電気のない時代。夜の暗やみはどれほど暗かったことでしょうか。それで人は火を用い、明かりをともすのです。しかし、火がなくても、あかりがなくても、電気がなくても、神様が守ってくださる、そのことに信仰者は平安を得るのです。戦人ダビデは、戦火を何度もかいくぐった人生でした。飛び来る矢で倒れる人々を何人も見たことでしょう。しかし、彼は生き延びたのです。神様が守ってくださったことを何度感謝したことでしょう。そして、私たちも、今日、守られて、生かされているのです。 

 また神様の前にいつも罪を悔い改め、自分の問題が処理してあるなら、私たちは、恐れる必要はないのです。愛には恐れがありません。結婚式のおりに、ヨハネの手紙で学んだとおりです。

 主なる神様がその本性として愛を第一にもっておられるということは、何と感謝なことでしょうか。その愛のうちに、私たちを匿ってくださる、力強く、真実で変わることのない愛です。

 すんでのところで、天使のようなものがあらわれて、救われたという話しをたびたび聞くことがあります。それを信じるか信じないかは、人それぞれですが、聖書は、御使いが神様の命令を受けて、信じるものを守るようにされると言う。私たちは、天使の守りを信じてよいのです。

 年をとるとやたらとタンスの角に足をぶつけたり、あざがなかなか消えなかったりするものですから、わたしたちは、神様に祈りつつ生きて行く必要があるでしょう。

 年老いて弱ったライオンではありません。人生のさかりとばかりに力を振るう若獅子。かみつけば、猛毒をもっているコブラ。そして蛇という言葉からはサタンも連想されるでしょうが、それを踏みつけることができるのがアダムの子孫なのです。どちらも動物園で見ることができるということは、ある意味、聖書の真実を証明しているのかもしれません。だからといって人間がおごりたかぶってはなりませんが。

 信じる祈りは、やがて、神ご自身の言葉を聞く祈りと変えられていきます。

 信仰者にも苦しみはあります。苦難の時が訪れます。そのような時こそ、詩篇91篇のような祈りをもって神様の助けを仰ぐ必要があります。そして、14節、15節のように語ってくださる神様を信じる信仰を働かせるのです。

 いのちを与えてくださった神様は、私たちの命が無為に終わることを望まれず、生かされてある限り、幸いであることを望んでくださるでしょう。


 そして、生涯の終わりには、天の御国を見せてくださる。その日にも希望を置きつつ、今日の神様の守りを確信して生きるものとさせていただきましょう。お祈りいたします。

2014年5月21日水曜日

私は悩み、そして貧しいのです。

 今日は詩篇86篇を学びました。コラの子たちの詩篇にはさまれて、なぜポツネンとこれだけ「ダビデの祈り」と紹介されているのか。それだけ、王の中の王、英雄の中の英雄、ダビデがどのような祈りの人であったのか興味をそそられる箇所ですが、意外に意外。1節で「私は悩み、貧しいのです。」と心情が吐露される。これが巨人ゴリアテを倒した勇敢なダビデなのかと思う人もいるでしょうが、むしろそうなのです。神の前で、祈りの中で、自分の弱さを正直に告白し、神様により頼む者こそ、勇気ある行動ができる。そのことをこの詩篇は教えているのです。

2014年5月14日水曜日

怒っておられるのか、怒っておられないのか。

 詩篇85篇は、怒りが去ったということと、御怒りをやめてください、という二つのことが歌われているので、いったい詩人はどのような状況にいるのかと、一瞬戸惑ってしまうのですが、ある怒りは去った、しかし、違う怒りは残っている、そういう状況であろうと推測されます。
 これこそ、私たちの現実ではないでしょうか。神様は、すべてを滅ぼされなかった。しかし、このままで大変まずいことになるのではないか。
 そんな時に、結局、神を信じても、何の意味のないのではないかという思いが頭をもたげてきそうになります。しかし、詩人は「神の仰せを聞きたい。」と願います。
 混沌とした状況の中で、繰り返される過ちを脱出するために、神の言葉こそたよりだと言うのです。
 また、神を恐れる人が救いに近いといいます。人を恐れたり、未来の状況を恐れることは、救いに近くないのです。
 そして麗しい光景を信じて見つめます。恵みとまことの出会う所、義と平和がくちづけする瞬間。そんな時がやってくるだろうかと失望してしまうような時こそ、憐れみ深い神様は、そのような未来を必ずもたらしてくださる、そう信じて祈ることが大切ではないでしょうか。
 

2014年5月7日水曜日

最も優美なる詩篇

 今日は詩篇84篇を学びました。指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。コラの子たちの賛歌。
 この詩篇を英国の説教家スポルジョンをして「平穏なる詩篇のうちでも最も優美な詩篇」と言わしめた、確かに美しい詩篇です。しかし、それはきらびやかな言葉が散りばめられて優美なのではなく、その言葉に迸り出る詩人の神への愛慕、礼拝への篤い願いが、比肩するものの見当たらない美しさになっていると言えるでしょう。また単に美しいだけでなく、悪をしりぞけ正しく歩むことの尊さにも目を留めています。
 「私は悪の天幕に住むよりは
  むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」
 「主は恵みと栄光を授け、
  正しく歩む者たちに、良いものを拒まれません。」
 天幕の門口を守るものとなり、後には神殿の門衛に任ぜられたコラの子孫らしい告白と言えるでしょう。彼らの父コラは、モーセとアロンに逆らい、神に逆らって厳しいさばきを身に招いた人物でした。しかし、神様は恵み深くその子孫には尊い務めを与えて栄えさせてくださっていたのです。
 父のようにアロンの聖職を求めたりしない。自分たちは自分たちであたわった職務に満足し、神から良いものを受けるのだ、あたわった分に満足するそういう信仰でしょう。
 へりくだった心から滲み出る、神への熱心な求めの祈り。そのような祈りをささげて、神と共に歩むことを喜ぶものとさせていただきたいのです。

2014年5月5日月曜日

おことばをいただかせてください。

 昨日はルカの7章より百人隊長の信仰を学びました。しもべの病いのために、イエス様を呼ぼうとした彼は、しかし、途中、何かに気付いたのか、わざわざおいでくださいませんようにと友人たちを通してイエス様に語ります。イエス様のおことばだけいただければ、しもべは治ると信じたからでした。
 その信仰をイエス様は賞賛し、しもべの病いは癒されます。
 今回は、この福音書の最初の読者がテオピロ殿であったということに触れました。ルカが手紙を通してイエス様のことを伝えようとした人物。テオピロにとっても信仰のてかがりはイエス様のことを伝えるルカの言葉でした。
 しかし真理のことばには力があるのです。聖書のことば、神のことばには力があるのです。ことばだけいただければ十分。
 この信仰をもって、日々、神のことばに傾聴し、自分の力としていきたい、そう思わされたことでした。

2014年4月23日水曜日

神は神々の真ん中でさばきを下す。

 詩篇82篇には神様が沢山出て来るので、一回読んだだけでは何が何だかわからないかもしれません。しかし、単数の神が、天地万物の創造主なる唯一の真の神であって、他の神々は地上の権力者たちのことであると言えば、実に、分かり易くなるでしょう。
 地上の権力者のしわざは、不正なさばきを行うこと、悪者の顔を立てること、他方、弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者をないがしろにする。
 彼らは、己を神のごとく人々に崇めさせるけれど、その実、暗やみの中を歩んでいるに過ぎない。彼らの土台はことごとく揺らいでいる。決定的なのは、神と自称しながら、人のように死ぬ。君主たちのように倒れるという言葉は滑稽ですらあります。彼らはまさに君主であっても、人に過ぎないのですから、寿命が来たら死ぬのは当然のことです。
 しかし、この詩篇は決して滑稽でない、人間の歴史に繰り返される、深刻な過ちについて物語、その中で、真の神の歴史に介入されることを切実に願う祈りの詩篇なのです。権力者の神格化は古代の遺物ではなく現代にも繰り返しあらわれるのです。今日も世界には神々がひしめきあっているのではないでしょうか。
 人の世はいつもパワーゲームの繰り返しのように見えます。しかし、真の神を信じる者は、目に見えぬ真の神こそ真の支配者であることを信じることができます。
 「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。」と祈りつつ、歩んでいきましょう。

 なお、教会は先日の日曜日からイエス様の御復活を祝う復活節に入りました。弟子たちが復活されたイエス様に出会ったときの衝撃はいかばかりのものであったか。そのことを詩篇の82篇の言葉を借りて表現するなら、

 イエスこそ 真の神
 イエス様こそ いと高き方の子
 それゆえイエス様は 人のように死んで終わらず
 君主たちのひとりのように 倒れたままでいることがない

 死に打ち勝ったイエス様こそ 神々にまさる真の神であったということに弟子たちは気付き驚き、真に崇むべきお方を世界に知らせるものとなったのでしょう。

2014年4月21日月曜日

祝御復活

 昨日はイエス様の御復活をお祝いするイースターでした。聖書はルカの福音書からエマオの途上の物語を取り上げました。
 第一のポイントは、イエス様の弟子たちも、復活のイエス様にお会いするまでは、死者の復活など到底信じられない、わたしたちと変わらない常識的な人間だったということです。
 第二のポイントは、しかし、イエス様が事実死からよみがえられ、弟子たちはその姿を目の当たりにしたので、信じるようになり、彼らの生き様が変わったのだということです。
 第三のポイントは、イエス様が、私たちの気付く前から、近づいてくださる方であり、心を燃やしてくださる方だということです。

 地上の死は私たちの命の終わりではない、このことを真剣に受け止めるなら私たちの生き様は変わって来るのではないでしょうか。

 最近創世記の4章を読み直す機会が与えられましたが、長年疑問を持っていた見方に変化が与えられました。正しい人アベルはそうそうに殺されて、殺人者カインは生きのびる。不公平ではないですか、そう思っていました。
 しかし、神様の視点でみるなら、正しい人アベルは神のそば近くで永遠に生きるものとされたのです。それに比較したら、罪人として地上で生き続けなければならなかったカインはどれほど大変だったことか。しかし、カインにも悔い改めのチャンスが与えられたのでしょう。
 神様は、恵み深い方であり、公平なお方。神様の視点にたって、また一つ、疑問が少し溶けるような思いがしました。

2014年4月16日水曜日

希望に立って喜び歌う

 今日は詩篇81篇を学びました。前回前々回の79篇、80篇は捕囚期の試練の中での祈り。今回の81篇も状況変わらないようですが、しかし、音調は、1節「喜び歌え」「喜び叫べ」と聴衆を喜びの讃美に誘っています。民がどのようであろうと力の神は変わらない。必ず助けてくださる、必ず救ってくださる、だから試練の中でも「喜び歌え」「喜び叫べ」なのです。信じる者はどのような時にも神に向かって喜び歌う理由があるのです。
 低い声ではなく「声高らかに」。「タンバリン」「六弦の琴」「立琴」などの楽器も動員して。つま弾くのではなく、「かき鳴らせ。ギターならばアルペジオではなくストロークで力強くといったところでしょうか。
 さらに「角笛を吹き鳴らせ」と。角笛はイスラエルの大集団の招集、出発の合図、祭りの合図として用いられました。新月と満月の祭りの日に。奇しくも教会の暦は今週、受難週。昨日はイスラエルの過越の祭りの初日で、美しい満月を見ることができました。米国では皆既月食も見られたといいます。イエス様が十字架に架けられる前、捕らえられたのも満月の煌煌と煌煌と輝く夜だったのでしょうか。
 そして過越の祭りを喜ばしく祝うのは、それが神様によるイスラエル救済の喜ばしい記憶だったからです。5節以降、救いの歴史が回顧され、にもかかわらず神に背信の罪を犯して現状を招いた自分たちの罪も思い出されます。
 しかし約束の神は、心から悔い改め神に立ち返るなら祝福を戻してくださる。16節、最良の小麦を再び食べさせてくださる神様、蜜で満ちたらせてくださる神様を覚えて、詩人は喜びの歌を終えたのでした。恵み深い神様は、必ず回復の時を備えてくださる。だから信じる者は、落胆し失望するのではなく、希望に立って喜びの歌を歌うのです。

2014年4月14日月曜日

棕櫚の主日

 昨日は棕櫚の主日。教会はイエス様の十字架を覚える受難週に入りました。メッセージの聖書箇所も、ルカの福音書からエルサレム入城を学びました。
 今回学んでいて、子ロバの調達に二つの解釈があることを知りました。一つはイエス様があらかじめ手はずを整え、いつか子ロバを借りに来るということを持ち主に伝えていたということ。もう一つの解釈は、イエス様の超自然的な予知能力や、不思議な主権によって、子ロバを借りてくることが何の問題もなく行われたとする解釈。どちらなのかと考えているうちに、聖書の記事そのものが浮き上がってきました。私たちに伝えられているのは、弟子たちがイエス様の言う通りに行動したら、そのように出来たということです。
 もしかしたら、弟子たちも驚いたかもしれないし、いや、あらかじめ準備があったのだと納得したかもしれない。それが奇蹟であってもなくても、イエス様の言う通りにして間違いが無かったという事実は、聖書に記されていることなのです。
 そして棕櫚の主日で最も重要なことは、イエス様がゼカリヤ書9章9節の預言を成就されたということです。軍馬に乗ってではなく、戦いには役に立たない、重い荷物を運ぶロバの子に乗って。イエス様は軍事力によってイスラエルを再興する王でないことを人々に示されたのでした。地上の王国でない、しかし、真の心の王国の真の王様であるということ。
 しかしエルサレムは神の訪れの時を悟りませんでした。平和への道を選びとることができませんでした。エルサレムを見て泣いたイエス様の預言の言葉は40年後に実現します。武装蜂起したイスラエルは、初めはローマの支配を圧倒したものの、最終的にはエルサレムは火を放たれ、残党はマサダの要塞で全滅。女子供までも殺戮される惨劇が起こったのでした。
 国が国に敵対して立ち上がり、民族が民族に敵対する今の時代、私たちも、滅びに至る道、平和に至る道を選び間違えることのないように、子ロバの背中に乗られたイエス様についていくものとさせていただきましょう。

2014年4月9日水曜日

敗北の後の祈り

今日は詩篇80篇を学びました。イスラエルの石垣が破られ、国土が蹂躙されている、そのような時に、信仰者はどう祈るのか。4節には、主なる神様が、民の祈りに怒りを燃やしておられるという状況すら、歌われています。真心からの悔い改めをもたない、中途半端な態度での祈り、ただ自己中心的な願いばかりの祈りは、むしろ神様の怒りを買うこと。しかしそれでも詩人は祈ります。自分たちの救いにとって肝心なことは、神様が状況を「もとに返して」くださること。「御顔を照り輝かせて」くださること。17節では真の王が到来し、神様がこの王様を祝福してくださって、民の救いの実現することが願われています。この詩人の祈りは確かに聴かれ、やがて神様は真の王である主イエス・キリストを地上に送り、心の王国である神の国を堅く打ち建ててくださったのでした。
 「万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、
  御顔を照り輝かせてください。
  そうすれば、私たちは救われます。」詩篇80篇19節

2014年2月19日水曜日

詩篇 第三巻 アサフの賛歌

 今日は詩篇73篇、アサフの賛歌を学びました。旧約聖書、詩篇は全部で150篇、五巻に分かれた書物ですが、その第三巻の最初の詩篇です。ここから83篇まで、アサフの名が冠せられた詩篇が続きますが、アサフは、ダビデの時代に神殿礼拝の歌の担い手となったレビ人。ソロモンの神殿奉献礼拝でも役割を果たし、また南ユダ王国滅亡の後の神殿再建、エルサレム帰還の時には、100人を超えるアサフ族として帰還、かつての役職をりっぱに果たしたことでした。神に用いられ祝された家系といえるでしょう。その詩篇も独特な印象を残す優れた詩篇となっています。才能豊かな詩人、音楽家。しかし73篇のテーマは人間の現実生活を見据えた神義論が展開されている哲学、神学となっています。善人が苦しみ、悪人が栄えるのはなぜか。1節は、信仰者の間で常識となっている「神はきよい人にいつくしみ深い」という大前提。しかし2節以降、そうでない、悪人の栄える姿が訴えられ、詩人は妬みで悶々とする。
 世に不条理があっても正しい神はおられる、と、初めから達観することが信仰の世界でないことを、この詩篇は物語っています。信仰者でも悶々とする。正しい神がおられると信じるからこそ、世の不公平はなぜと納得出来ない。事実、私たちは、罪のないものが悲惨に出会い、悪人が罰も受けずのうのうと暮らしているのを見て、神の存在や、そのなさることに疑問を抱く。
 13節以降は、神殿奉仕者、宗教家としてまじめに義務を果たしてきた自分のことを歌っているのでしょう。神の前に至らない自分を覚えつつ、淡々とした日々を過ごしている、これが何になるのか。しかし17節、礼拝の深い経験の中で、彼は人生のもう少し先を見たのでした。
 今は私の足場の方がぐらついているかもしれない。(2節)しかし、やはり最後には悪人こそ滅びに突き落とされるのだ。確信がよみがえってきました。
 しかしこの後が重要です。詩人は悪人の末路を思ってほくそ笑むのではありません。むしろ悶え苦しんだ自分の信仰を顧みます。それは22節「愚かな獣のよう」だった。目に見えない神を信じる人間の尊厳を失い、見えることばかりに心奪われて信仰を働かすことのできなかった自分。ただし、信仰を手放さず祈り続けた詩人は、自分が神を手放さないのではなく、わたしをつかまえて放さない神の御手を、祈りのうちに感じ取りました。聞いておられる神が、わたしを手放さない。これが祈りです。
 やがて地上を去る私たちは、そのとき天に迎え入れられるか、永遠のさばきを受けるか、そういう存在なのだ。ならば、永遠のいのちの約束をいただいているわたしこそ、どんなときにも平安と確信を持つ事ができる。たとえ悪が栄えているように見えても。この世の最後に、悪者が、幸せそうに地上を去るように見えても、本当の平安はない。
 神ご自身を相続出来る信仰者は、この希望のゆえに、地上においても満ち足りた日々を送る事ができる幸いな者なのです。

2014年2月12日水曜日

こんな祈りを本気で祈り続けられるか

 今日は詩篇72篇を学びました。タイトルには「ソロモンによる」とあり、20節には「ダビデの祈り」とある、中身はどちらのものともとれる筆致。ダビデの遺言的なメッセージを、ソロモンがまとめたのでは、との説があります。
 そこには「王」、一つの国の指導者たるもの、公正と義によって国を治めるべきこと、王がそうであるようにとの祈りが記されています。
 至極もっとも、しかし、そう祈って、現実、かなうかと考えると、信じ難い。祈り続ける事を諦めるのが人間ではないか、と思われてしまいますが、そうでない、少なくとも、聖書を聖書と尊ぶ民は、この祈りを諦めずに祈り続けて来たのだと驚かされます。
 ダビデ、ソロモンの良き時、以外に、この祈りが聞かれたように思えること、イスラエルの歴史にどれほどあったことだろうか。しかし、信じる者は祈り続け、真の王の到来を待ったのです。信仰の道はどこにあるのか。神様が教えてくださるのでなければ、人知では到底たどりつけないものと改めて教えられます。

2014年2月10日月曜日

大雪の朝

 昨日は土曜日から降り積もった大雪で、礼拝の出席者もへりましたが、ハレルヤタイムの始まる前に、雪かきをしていますとE姉があらわれ、一緒に雪かきを手伝ってくださいました。礼拝の始まる頃には、U姉もあらわれ、大変な中でも、幾人かの方々が集って礼拝をささげたことでした。
 聖書はルカの福音書4章31節から、イエス様のカペナウム伝道です。悪魔の誘惑に対して、奇蹟を行うことのなかったイエス様、故郷ナザレでも奇蹟を行うことのなかったイエス様が、カペナウムでは悪霊につかれた人を救い、ひどい熱病で苦しんでいるペテロのしゅうとめを癒し、たくさんの人々を助けられます。偏見なく真心からイエス様に近づいた人々は、イエス様が真の救い主としての権威と力をもっておられることを見させていただいたのでした。
 しかしイエス様は引き止めようとする人々の手を振り払い、他の町々にも行かなければならないことを告げます。神の国の福音を宣べ伝えることがこの時のイエス様の使命だったからです。
 イエス様はどんなことでもお出来になる方です。しかし、その御心がどこにあるのか、私たちは知らなくてはなりません。そして、その御心を共に行うものとならせていただきましょう。

2014年1月27日月曜日

人はパンだけで生きるのではない

 昨日はルカの福音書4章からイエス様の荒野の試みについて学びました。「人はパンだけで生きるのではない。」ルカは、一番目の悪魔の試みに、このように返答したイエス様の言葉を記します。マタイの福音書は、これに続く言葉を記しています。「神の口から出る一つ一つのことばによる」。なぜルカは大切な後半の言葉を省略したのでしょう。一つ言える事は、「人はパンだけで生きるのではない」と言われると、それでは他に何によって生きるのか、との問いが、読者に生まれてくるということです。これは大切なことではないか。
 そしてイエス様の引用した申命記を開いてみますと、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」イスラエルの民に、肉の糧であるマナを与えたことは、このためであったと教えられているのです。
 「人は主の口から出るすべてのもので生きる。」そのことを知るため。
 40日間の断食を終えようとしているとき、真の人であるイエス様は、どれほどの空腹を覚えておられたことでした。私たちと変わらない、食べなければお腹の空くイエス様です。そして目の前にパンがあったなら、それはその時のイエス様の欲する何よりのものであったことでしょう。
 しかし、目に見えるパンを欲しがって、大切なことを忘れてしまわないように、人間が生きる上で大切なのは、むしろ目の前のそれを与えてくださるお方が背後におられるということを知る事。
 そしてルカは、後半の言葉を省略することによって、私たちを考えさせる。何かによってではなく、神からくるすべてによって生きるのだと。すべてのものは神から来るのだと、そういうことに思いを至らせようとしたのではないか、そんなことを考えさせられるのです。

2014年1月15日水曜日

事を行われた神よ。

 御力を示してください。

 詩篇68篇は「歌」と題された詩篇の最後。これまでの3篇と比較して少々長大、断片の連続が理解を難しくしていますが、神殿建設の準備をしようとするダビデが、イスラエルの歴史を懐古して幾つかの場面に焦点を当てていると考えると、状況を想像しやすいかもしれません。
 1〜4節は紅海を渡る直前のモーセ、イスラエルの祈りに始まり、勝利の喜びの時が来る。5〜10節は荒野の旅路から約束の地での定住まで。主が先立ち行かれ、彼らは安息を得ます。11〜18節は周囲を平定してイスラエルが繁栄に向かう様。
 しかし重要なのは、民の苦労、指導者の尽力がたたえられるのではなく、19節「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷を担われる主。私たちの救いであられる神。」と、重荷を担われたのは主なる神であると覚えられていることです。
 映画「ロード・オブ・ザ・リング」で最後、疲労困憊した主人フロドを背負う僕サム・ギャムジーの姿が思い浮かびます。指輪物語の主人公はこの指輪の主、フロドと旅の苦難を共にしたサム・ギャムジーであったと言われたりします。
 そして詩人は今日も祈るのです。神様がここまでを導いてくださったから、今日の必要をも導いてくださいと神様に祈る。
 28節「神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行われた神よ。御力を示してください。」
 この詩篇も最後は神を讃えて祈りを閉じます。
 35節「神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民に御与えになる方です。ほむべきかな。神。」イスラエルではなく神がほめられるべき、それが間違ってはならない大切なことです。

2014年1月8日水曜日

祝福を求める祈り

 今日は詩篇67篇、祝福を求める祈りについて学びました。キリスト教はご利益信仰か?神様の祝福を求める祈りがあるということでは、利益を求めても良いということになるでしょう。しかし、そこには留意すべき幾つかのことがあります。
 詩篇67篇は、私たちをあわれみ、祝福し、と常に人称が複数となっています。私ではなく私たちです。私だけが祝福されれば良いのでない、皆が共に祝福されるように、それが詩篇67篇の祈りです。
 そしてそこには目的がありました。2節、あなたの道が、あなたの御救いが知られるため。3節、国々の民があなたをほめたたえますように。4節、喜び歌いますように。7節、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
 つまり信じて祈る民に応えて神の祝福があらわされ、この神様はすばらしいということがすべての人に明らかになるように、神が崇められ、神が畏れ敬われるようになる、この目的に通じていることが必要でした。
 すべては神の栄光が現されるように、その中に、私たちの祈りがきかれるということの目的が位置づけられるのです。自己中心でなく、神中心の祈りでした。
 新しい年、私だけの祝福を求めるのでなく、みなが神様の祝福にあずかることを求めて祈りつつ歩んでいきたいものです。そして、私たちの祈りに応えてくださる神様の御名が、至る所で、崇められますように!

2014年1月6日月曜日

少年イエス

昨日はルカの福音書2章の最後の部分、12歳の少年イエスについて学びました。12歳はイスラエル男子の成人一年前。イエス様は翌年の過越の祭りへの参加のための予習として、エルサレムを訪れたとのことでした。この頃には成人男性の義務を、女性も行う慣習になっていたようで、母マリヤもそこにいました。
そこでイエス様はエルサレム神殿にいる大人たちを驚愕させる知恵を披露します。知恵とはギリシャ語でソフィア。今日、哲学とも訳される、生き方に関する知恵です。
さらに母マリヤの言葉に返答してイエス様は、エルサレムの神殿のことを「自分の父の家」と呼んだのでした。エルサレムの神殿は、天の父なる神様の家。ですからイエス様は天の父なる神様をご自分の父と呼んだことになります。
神の民は神の子ですからイエス様は特別なことを言ったのではないという解釈も成り立つでしょうが、しかし、ここは特別なことを言ったと理解すべきでしょう。イエス様は、ご自分を、神の一人子と言ったのです。その意味は、この時、両親に悟られなかった、と福音書が述べているからです。
この箇所の少年イエス様の姿は、少年であるにも関わらず語られた知恵、両親の理解出来ない神の子としてイエス様を告げているので、いささかイエス様、高慢ではないですか、と感じられる方もいるでしょう。
しかし、福音書は神の子であるイエス様が、同時に、この後、大人になって人々の前で宣教の働きを始められるまで、謙遜に両親に仕える若き日を過ごしたと伝えているのです。そして、イエス様の青年時代の姿は、聖書に一切記されていない。確かにイエス様はただの大工の息子として、その姿をしばらくお隠しになられたのです。
「能ある鷹は爪を隠す」という言葉がありますが、真に知恵深いイエス様は、ご自身の知恵、力を発揮すべき時もわきまえて、へりくだることをも知っておられる神の一人子であったということです。
この方がやがてすべての人のためにご自分の命を十字架でささげてくださったのでした。