2013年11月29日金曜日

年老いて

私たちの教会では、毎月第四木曜日の午前、ピレモンへの手紙を学んでいます。教科書は「ピレモンへの手紙講録」(小畑進著、いのちのことば社刊)。昨日は十五、白頭掻けば、まで進みました。自分のことを年老いて、と描写するパウロ。イエス・キリストに出会う前の熱心なユダヤ教徒であったパウロと、逃亡奴隷のとりなしのために言葉を尽くす老境のパウロ。イエス・キリストに出会うということが、人間をどれほど変えるのか、愛の人とするのか、思い知らされたことですが、年老いてとは何歳を指すのか。注にあげられた聖書解釈者たちの諸説に注目が集まりました。「先生はどこに入る?」「わたしはどこに入る?」メンバーはみなパウロの言う”プレスブテース”を遥かに超えた”ゲローン”にあたるということがわかりました。パウロもまだ若い?いえいえ、伝道者生涯を駆け抜けて、最後はローマで時を過ごしている彼は、肉体の衰えを日々痛感していたのでしょう。しかしその中で、また新しく生まれたクリスチャン、逃亡奴隷オネシモのために、骨折る労をいとわなかったのです。

2013年11月27日水曜日

荒野を聖所とする

詩篇63篇は、ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに、と記されています。それだというのに、2節では「聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」と歌われています。ダビデは荒野にいるのか?聖所にいるのか?そう問いかけると、ダビデは荒野を聖所に変えたのだ。それは彼の神を求める切なる思いがもたらしたものなのだと教えられます。多くの注解者がこの詩篇を高く評価するのもうなづける所です。詩篇63篇は神との交わりをこそ求める詩人の美しい信仰の思いに溢れているからです。エルサレムに神殿の建設される前のこと。おそらくダビデ試練の中の逃亡生活が背景にあると思われますが、彼は荒野に祈りの宮を築いたのでした。私たちも、神を求める思いさえあれば、どのような場所をも聖所とすることができるのです。詩篇に教えられ、神との豊かな交わりの中を生きるものとさせていただきましょう。

2013年11月20日水曜日

王となってからのダビデ

 ダビデの前半生はサウル王に命を狙われる危険という試練がありましたが、後半生は、姦淫の罪を犯した後、罪は赦されますけれど、家庭内の問題が子どもたちの王位継承権争いにつながり、またまた大変な試練を経験します。最終的にはソロモンに王位を渡し、神殿建設準備を成し遂げて、地上を去るダビデは、一人の罪人でありながら、神様と共に歩み続けた、やはりイスラエル最高の王様、詩篇62篇はそのダビデの祈りの世界を伝えているのでしょう。
 3節、命の危険がある。4節、彼を王位から突き落とそうとする人々がいる、この困難な時を、彼は祈りで乗り切りました。
 1節、私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
 彼は試練の時もまた神様の支配の中にあることを信じていましたから、やがて神様の御心の時には、救いが訪れるだろうと信じる信仰に立つことを選び、黙したのです。人につぶやかない。自分で策をろうしない。アブシャロムと戦わずに逃げたダビデは、賢明な信仰の道を選んだと言えるでしょう。
 2節、神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。やぐらと訳されている言葉は、要塞です。古代イスラエルの要塞の遺跡は、石造りの堅固な城とも言えるようなもの。これならば敵との戦いに役立つだろう。しかし、ダビデは今、その要塞で敵を迎え撃つことが勝利につながるとは考えていませんでした。サウルから逃亡した時に、どこに逃げても、目に見えない神ご自身より頼りになるお方はいないと確信したダビデは、人生の後半で、もう一度、その信仰に立つ祈りをささげ、確信を深めたのでした。11節、神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。という言葉は、神の教訓が昔から変わらないこと、しかし、人はその教訓を、経験のごとに、確かな信仰へと変えていくものなのだと教えられます。
 王であるダビデが10節、圧制にたよらなかったこと、略奪をも繰り返さなかったこと、富にもより頼まなかったことは、大変、知恵深い道と言えるでしょう。この世の多くの権力者が、おのれの力に頼り、富に頼り、滅んでいくことと、実に対照的なのです。

2013年11月6日水曜日

ダビデ北方遠征中に

今日は詩篇60篇を学びました。この詩篇は、ダビデの王権が確立する直前、エドムに勝利する戦の少し前の状況を背景としているようです。サムエル記第二を見ますと、勝利のみ記されていますが、困難な状況を経ての勝利だったようです。1〜3節では、神に拒絶されている様子、大地が揺らぎ、主の癒しを必要としているような、地震でもあったのでしょうか。そして3節、苦難をなめさせられている。よろめかす酒を飲まされた、とは、足がふらついて立つこともままならないような、試練、恐怖が彼らを襲っていたことを推測させます。
しかし、4節、主は主を恐れる者のために旗を残された。本丸はまだ落ちていない。振り仰げば力を得られる助けがある。
その希望通りに、5節、詩人が助けを求めると、6節、聖所から主の勝利の約束の言葉が与えられます。
9節から、しかしイスラエルは辛酸をなめました。おそるおそる戦いに主が同行されるのかと問いかけます。しかしこれは不信仰、疑いではありません。主が共にいてくださらなければ、戦うことはできない、主よ共にいてくださいという祈りです。
だから結論、11節、人の救いはむなしい。12節、神によって、私たちは力ある働きをします。と信仰を告白するのです。
イスラエルは勝利に酔いしれて、神によりたのまなくなっていたのでしょうか。成功の時に、それを自分の力のゆえであるかのように過信することが、私達にはあるのです。しかし、多くの状況が神様によって整えられることなしには、私たちの成功は存在しないのです。
神によって、力ある働きをする、人生の秘訣をこころえたいものです。