2013年2月27日水曜日

救ってくださったのは目に見えない神

今日はサムエル記第二の22章を学びました。21章からがサムエル記の結びとする解釈もありますが、私は22章からではないかと思われました。ダビデの生涯の中の最も感謝すべき感謝が歌われているように思えたからです。人生の良き時に、神様に向かってほめ歌を歌う、ダビデはやはり信仰の人でした。
36節「あなたの謙遜は〜」と歌う言葉は興味深い言葉です。神様が謙遜だとダビデは言うのです。言われてみればダビデの神様は目に見えない神様。ダビデが神様のしてくださったことを感謝して歌っても、その姿が見えるわけではなく、人に見えるのは神様に選ばれ、祝された王様ダビデです。
しかしだからこそダビデは37節「あなたは私を大またで歩かせます。」と語ったのでしょう。自分に王としての振る舞いをなさせてくださるのはご自分では姿をあらわされない神であると。
感謝の歌はもっともふさわしい言葉で結ばれます。51節は神様がダビデとその子孫と契約をかわされたことの背景を伺わせます。彼が王として祝されたのは、契約を取り交わされた神の誠実さゆえにほかならないことなのです。
今日の私たちには、イエス・キリストのゆえに新しい契約を取り交わしてくださった神様がおられます。イエス・キリストを信じる信仰のゆえに私たちに誠実にこたえてくださる神様を信じて歩むことは幸いと教えられました。

2013年2月25日月曜日

禍根

本日はサムエル記第二の21章1節から14節を学びました。サウルの時代に残された禍根があった。ヨシュア時代に交わされた盟約違反によるギブオン人殺害の罪でした。主の前に取り交わした約束よりもナショナリズムの昂揚を目的としたサウルと、主との誓約のゆえにメフィボシェテを惜しんだダビデが対照的です。親の罪で子が殺される陰惨な結末にはサウルの犯した過ちの重さを教えられます。

兄と弟

昨日は兄と弟と題してエサウとヤコブの兄弟の話しをしましたが、母リベカの不妊と彼らが誕生するために神に願ったイサクの祈りもとても大切なことと教えられました。とある注解書に、神様は、特別の祝福の前に、特別な試練を与えられると記されていました。本当にそうだなあとうなづけるケースが聖書には幾つも記されています。当たり前のように受ける事に慣れてしまわず、祈って受けることを通して、神様の恵み深さを忘れないものとされることの幸いを考えさせられました。

2013年2月17日日曜日

イサクの嫁探し

本日は「息子の嫁探し」と題して、アブラハムの息子イサクの嫁を探すために、アブラハムのしもべが行動した様を告げる創世記24章を学びました。
晩年を迎え、あらゆる面で祝されていたと言われるアブラハム。信仰によって目に見えないものを信じて旅立った彼の生涯が、確かな答えを、その都度、得たことを教えられます。
しかし信仰の歩みは、決して自己中心でありません。晩年の大切な時に、アブラハムは「委ねる」という信仰の行動を私たちに見せてくれます。約束の息子の嫁、それはアブラハムにとって、どれほどきがかりのことだったでしょうか。しかし彼は、息子の嫁探しを、しもべに委ねなくてはならなかったのです。彼は委ね、そして、すべてを支配しておられる神様に、委ね、信頼したのでした。
しもべは主人の願いを知って、忠実に事を運びます。目的の町の外の井戸端で、どのように行動すべきか、どのような言葉で女性に語りかけるべきか、思慮深い行動です。また何よりも、神の御心にかなう祈りをささげ、神様に応えていただいているということが重要です。
何を求め、何を祈るべきか、私たちは、熟慮した方が良いのです。なぜなら御心にかなう祈りは、即刻、答えを見るからです。
さらに、ふさわしい女性を見つけた後のしもべの行動も、賢明な、目的を達成するための正しい道のりを進んだことも、教えられることです。目的を達成するためには、何をしてはならないか、何を真っ先に進めるべきか。
かくして、イサクはリベカをめとることになります。
その後の歴史を見るなら、リベカをめとったことで万事OKということではなかったということがわかります。けれども、この章では、信仰の父アブラハムの最期の懸念事項に、神様が確かな答えをくださったということを私たちは教えられるのです。
目に見えない神様は、確かにおられ、信じて歩む者に、確かに報いてくださる方であるということを、私たちも信じて、生きるものとさせていただきたいと教えられたことでした。