2014年10月22日水曜日

私は暁を呼びさましたい

 キリスト教会ではもちろん伝統的なキリスト教の立場に従って、旧約聖書新約聖書を読むのですが、そのためには、色々な書物を学びます。伝統的でない立場の学者の本も読むことがありますし、ユダヤ教徒やイスラム教徒がどのように聖書を理解しているかも興味深く、教えられることもあります。
 ある書物を読んでいたら、ユダヤ教にとって旧約聖書は、歴史に現れる神の記録であって、単に誰か一個人の教えではない、という言葉がありました。アブラハムしかりモーセしかり。聖書は彼らの教えではありません。神の民は預言者、聖書は神の言葉を聴き続けた人々の歴史。そのような表現もありました。
 今日学んだ詩篇108篇にも、詩人が聴いた神の約束の言葉が記されており、その約束の言葉があるから、詩人の祈りにも保証が与えられます。
 暁を呼びさましたい、という言葉は、この祈りによって、朝明けを早く見させていただきたいという願いといっても良いでしょう。そして、人は朝明けの来るのを早まらせることはできないけれど、それを願う思いを、願いを聞いてくださる神様に告げることができる、そして神様は信じる民の祈りに応えてくだっさるという信仰でもあるでしょう。
 またそれらはこれまでの歴史を通して民の祈りに応えてくださった神様がおられるから無意味でない祈りと言えるのです。
 かつて歴史に介入されご自身の栄光を現された神が、今の私たちの祈りにも応えてくださり、ご自身の真実のゆえに、正義と平和を実現してくださること、信じて祈るものとさせていただきたいものです。
 またこの詩篇は、神に拒否されている信仰者という自覚もあるから傾聴に値します。信仰者は過ちを犯さない存在ではありません。間違い、神の祝福と守りを失う存在でもあるのです。そのような時には神に立ち返り、自分の正しさではなく、神の正しさによって神の働きをなすものに、軌道修正していただかなくてはならないのです。曇りない鏡としての聖書の言葉に自分を照らして歩むものとさせていただきたいことです。

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