2012年12月25日火曜日

キャロリング・キャンドルサービス

昨日、わたくしたちは、東武ストアの前でキャロリング、教会に戻りキャンドルサービスを行いました。
キャロリングは外に出て行って、クリスマスの讃美歌を歌います。街行く人にも本当のクリスマスの喜びを少しでも知っていただけたら、幸いです。立ち止まって、しばらく聴いていて下さる方、興味深さそうに、何度も行き来する女の子、私たちにとっても楽しいひとときでした。今年はフルートによる奏楽も加えられました。
キャンドルサービスは、照明をすべて消して、ろうそくの火を灯して行われます。聖書朗読とクリスマスの讃美歌を交互に、クリスマス物語に耳を傾けます。
そして昨日のメッセージは、神の子であるのに人となられたイエス・キリストに学ぶ「謙遜」についてお話しをしました。わたしたちの模範でもあるイエス・キリスト。この方に教えられて、新しい年も歩んで行きたいと教えられたことでした。

2012年12月24日月曜日

クリスマス合同礼拝

昨日はクリスマス合同礼拝と愛餐会を行いました。礼拝ではマタイの福音書2章から、イエス・キリストの誕生は、東方の博士たちによって、エルサレムに知らされ、神殿再建で有名な時の大王ヘロデを「恐れ、惑わせ」たことを学びました。ユダヤのまことの王様はやがて現れるということを、王も民も旧約聖書の預言の言葉によって、知っていたからです。そして東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬の三つの宝をイエス様にささげました。それは真の王なるイエス様、真の大祭司なるイエス様、そして私たちのためにいのちをささげて贖いをなしてくださる救い主を暗示する贈り物であったと言われています。
お昼は持ち寄りの愛餐会。最後には楽しい出し物も演じられて、来年の希望も語られました。時間の許される方は、ずっと語らいを楽しんだことでした。
幸いなときでありましたが、同時に、私たちは、この時、教会に来る事のできなかった方々のことも覚えています。病いと闘っていらっしゃる方々が私たちの家族にはいます。私たちは互いに祈りつつ共に歩んでいかなければなりません。

2012年11月28日水曜日

神の恵みの中で

今日は第2サムエル記10章を学びました。この章はダビデ、バテシェバ事件の背景を私たちに伝えているといいます。物語のきっかけが象徴的です。ダビデはアモンの王ナハシュの死に際して弔意をあらわし、生前の彼の誠実さに応えようとします。私に真実を尽くしてくれたあの人の息子に真実を尽くそう。ところがナハシュの息子ハヌンはこれを理解せず、アモンとイスラエルはアラムを巻き込んでの戦争に進みます。結果はイスラエルの勝利。主なる神様は神の民イスラエルを守っておられたのでした。たとえ諸外国がイスラエルに不誠実であろうとも、主なる神様は神の民に誠実であった。ダビデが罪を犯したのは、この対アモン戦役の最中。同胞が危険を冒して戦っているとき、神様がそれを守り祝福してくださっているとき、ダビデは姦淫の罪を犯し、合法的とはいえ、殺人の罪を犯すのです。神様の恵みの中で、ダビデの罪深さはいっそう明らかなこととなるのです。聖書は、ダビデだから何をしても許される、イスラエルだから何をしても許されるとは教えていません。誰もが悪を行えば神の前に罪の刈り取りをさせられることになるのです。
祈り 天の父なる神様、私たちはあなたの恵みを忘れやすいものです。恵みを受けて守られていると、緊張感を失い、欲望のままに歩み、罪を犯してしまうものです。どうぞどのような時にも、誠実を尽くしてくださるあなたの恵みを忘れず、あなたの恵みに応えて生きるものとならせてください。私たちのために十字架で死んでくださった救い主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

2012年11月5日月曜日

信じて義と認められる

昨日は創世記15章を学びました。14章では甥ロトを取り返すことに成功したアブラハムですが、成功は新たな緊張を生み出す可能性があったことでしょう。戦いは敵を生み出します。しかし神様は「アブラムよ、恐れるな、わたしはあなたの盾である。」とアブラハムに語りかけたことでした。神様は信じる者に語りかけてくださる神様です。そして、わたしはあなたの盾であると言ってくださる。目に見える防具の盾なら、それを用いる人の能力、相手の戦闘能力、武器の強度によっては、防具になる場合、ならない場合があります。しかし天地万物の創造主なる神様が盾であるなら、防げない敵はない。

そしてこの章ではアブラハムが信じるがゆえに神様に問いかける言葉を学ぶこともできます。子孫は、親族から得るのですか?という問いかけに、神様は、あなた自身から、と力強く語られます。約束の言葉を与える神様を信じているから神様に問いかけ、さらなる詳細の答えをいただける場合があるのです。信仰とは、黙って信じるだけでない、信じるがゆえに問いかける、人格的な交わりです。語られる神の言葉をそのままに信じたとき、アブラハムは義と認められたのでした。義と認められるとは、一定の基準に達した、よし、合格と言われたようなものです。完璧になったわけではありません。しかし、神様は信じるものを、信じるということのゆえに、よしと認めてくださるお方なのです。義と認められたアブラハムには、さらに土地所有の約束も与えられたのでした。

ここでもアブラハムは神様に問いかけます。すると儀式を通して神様の誠実さはアブラハムの目の前に見える形で示されたのでした。

中でもここに戻って来るとき、それはエモリ人の咎が満ちるときと語られた言葉が重要です。この地に悪が満ちるまでは、神様は、この地への侵入を許されなかったということです。イスラエルのパレスチナ侵入は、この地域が神様の前に甚だ罪深くなった時に、この地へのさばきとして許可されたのだということがわかります。そうでなければ先住民の地に、侵略してよいということはなかったのです。神の民の戦は、神がよしとされるのでなければ、あり得なかったということです。

翻って、今日に見られる戦争の正当化は、どうなのでしょうか。神や、宗教、信仰を人間が自分の目的のために利用しているなら、それは過ちです。真の宗教は、むしろ自分自身が正しいのかを十分に顧みる所にあるのではないでしょうか。自分のために宗教を利用するようなことがあってはならないのです。

聖書全体をひもとくときに、悪を行うものは、神の民イスラエルであろうと、異邦の国々であろうと、神のさばきを受けて、高慢の鼻をへしおられるのでした。逆に、異邦の国であろうと、悪を行うイスラエルに対しては、神のさばきをあらわす国として用いられもするのです。また神のあわれみをあらわすために用いられることもありました。聖書が告げているのは、どの民族も、どの国も、その歩み自体を神から問われる存在なのだということです。

2012年10月31日水曜日

ウザの割り込み

今日は第二サムエル記6章から、契約の箱をダビデの町に運び込む様子を学んだ。ひっくり返りそうになった箱を押さえたウザが主の怒りをかって即死する場面は、説教後の話し合いでたいへんな話題となった。なかなか理解しがたい。しかしそれまで契約の箱をあずかっていた祭司の息子であるなら、どのような取扱が正しいのか、知らなかったはずはない。聖書は契約の箱、神の臨在に対して、人がどのような姿勢を取るか、一貫して語り続けている。神は神であって、人間の都合のいいように解釈できるお方ではない。畏敬の念、崇め礼拝すべきお方であるという秩序を考えさせられる。と同時に、恐れるだけのお方でもない。そこに神様が共におられるなら、祝福は確かに存在する。私たちは、恐れつつ、喜ぶべきでもある。ちからの限り、歌い、踊った、ダビデ、イスラエルの人々のように、私たちは神の共におられることを心底喜び礼拝をささげているだろうかと問われた。イエス・キリストの贖いのゆえに、信じる者と共にいてくださると約束しておられる神様の臨在は、ちからの限り喜ぶべきことなのだ。

2012年10月29日月曜日

王たちの戦い

昨日は創世記14章を学びました。古代中近東の世界でいくつもの王国がひしめき、王たちがせめぎあう時代、支配的なエラムの王、ケドルラオメルに反逆する人々。この戦のあおりをくって、ソドムの住人となっていたアブラハムの甥ロトは、家族、財産もろとも連れ去られることになりますが、この知らせを聞いたアブラハムは、318人のしもべを招集して追跡、甥とその家族、財産を取り戻すことに成功します。この物語を信仰をもって読まなければ、それはどの王が勝ちどの王が負け、誰が被害を被り、誰が分捕り物を得たというただそれだけの記録に過ぎないでしょう。しかし、信仰を持ってこの物語を読むならば、目に見えない天地万物の創造主なる神の御声を聞いて、人生を歩み始めたアブラハムの生涯が、戦乱の時代にも神に導かれたということの証しなのです。そして、古代の王たちの栄華を引き継ぐ人々はもはや存在しませんが、信仰をもって創造主なる神を仰ぎ見る民は、今日も、面々と続いているのです。アブラハムのもとを訪れるシャレムの王メルキゼデクは、信仰の道を彼に教えます。「祝福を受けよ、天と地を造られた方、いと高き神より。」祝福とは何か?これも地上のことばかり、目に見えるものばかりに心奪われていると理解出来なくなってしまう言葉です。神の祝福を求める生き方、これこそ目標を見失わない、人の目指すべき本来のものなのです。「いと高き神に誉れあれ。」アブラハムを勝利に導かれたのは神ですから、神こそほめたたえられるべきお方。そして他方、アブラハムはソドムの王からの贈り物を拒否します。私たちは何を求め、何を拒んで生きるべきか、考えさせられるところです。

2012年10月24日水曜日

主がしてくださっていることを知る

今日は第二サムエル記5章を学びました。ダビデがいよいよ全イスラエルの王となります。その中で、12節、ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。との聖書のことばが印象的です。やること為すことが成功するさなかで、わたしがやった、ではなく、神様が働いてくださっている、そのことを忘れない人物がダビデでした。自分自身の良き時にも、悪い時にも、働いておられる神様のことがわかるものでありたいと思わされました。

2012年10月14日日曜日

道の選択

今日は創世記13章を読み、アブラハムの道の選択を学びました。祝されて、その土地が狭くなったとき、アブラハムは甥のロトに、行きたい道を選ばさせ、自分はその後に、道を選ぶ、ゆとりを見せました。見目麗しい場所を選んだロトの選択が愚かであったことは、後に明らかになります。ロトに道を譲ったアブラハムのやり方が賢明であったことも後に明らかになります。しかし、ヨルダンの低地を選ぶ、選ばないが本質的な問題ではなかったということを見抜く必要があるでしょう。大切なのは、アブラハムが、主の共におられるゆえに、どこへ行っても、祝福の約束は変わらないと考えたことではないでしょうか。目に見えない神が、約束のゆえに共にいて、約束のゆえに祝福してくださる、そう信じる信仰者は、どんな場合にも、本当の自由を持っていて、祝福に到達するのです。

2012年10月11日木曜日

ユダ・イスラエル戦役

昨日はサムエル記第2の2章から4章を読みました。サウルとヨナタンの死を弔ったダビデは、時熟したかと主に伺いをたて、ユダの町ヘブロンでユダの家の王となります。続いてサウルの葬儀の知らせを聞くと、丁重に返事をしつつ、サウルの陣営に、自分がユダの王となったことを知らせます。サウルが死んだのだから、私とともに、全イスラエルとして立ち上がろうとの思いが読み取れます。しかし、ダビデの思いに反して、サウルの家では将軍アブネルがイシュ・ボシェテを擁立し、ユダに対抗することになったのでした。ユダ・イスラエル戦役です。同じヘブル人でありながら、互いのことをよく知ったもの同士でありながら、戦の最後は、双方に死者を出すことになります。アブネルの部下は360人死に、ダビデの家来は19人と、ヨアブの兄弟アサエルを失うことになったのでした。多くの犠牲が出てから、停戦を呼びかけるアブネルの言葉は、それだけを取り出せば、戦を否定する賢い言葉ですが、そもそもの原因を作ったのは彼自身です。人間とはこのようなものなのでしょうか。戦争をして初めて戦争の愚かさを知る。しかし、話しはこれでは終わりません。形勢は次第にダビデの家がサウルの家を圧倒するようになります。すると将軍アブネルは王イシュ・ボシェテを裏切り、ユダの家に投降するのです。これを寛大に受け入れるダビデと、王であるダビデを無視してアブネル暗殺を実行に移すユダの将軍ヨアブの姿が非常に対照的です。敵であっても考えを変えるなら受け入れようとするダビデ。相手が油断した隙に、亡き弟の無念をはらすヨアブ、人間の選択する道は色々です。私たちはどのような道を選択するのでしょうか。アブネルの死を心から悼むダビデの姿は、民の目に信頼に足るリーダーと映っていったのでした。4章にはイシュ・ボシェテの最期が記されていますが、この章で特に動きのないヨナタンの息子メフィボシェテが登場するのが不思議です。後にヨナタンのゆえにダビデ王家に迎えられて行くメフィボシェテ。メフィボシェテにこのように振る舞ったなら、イシュ・ボシェテにも誠実を尽くすダビデであったはず。それなのに王を殺して恐れないバアナとレカブの行動は、死に価する罪深い行為だったのでした。

2012年10月8日月曜日

アブラハムの生涯・信仰の旅立ち

昨日は、創世記12章より「信仰の旅立ち」と題して、アブラハムの生涯を学び始めました。11章の後半も少し読んでみました。約束の地へ行けとの命令は、アブラハムの父、テラの存命中に、創造主なる神から与えられ、テラもカナンを目指したのですが、中途のハランに住み着くこととなる。アブラハムの旅立ちはこの父の死後のことでした。神の言葉に従う生涯を全うするものとなるか、挫折するか。ヘブル人への手紙より、信仰によるものが、神の言葉に従う生涯を全うできるのだと学びました。しかし、信仰による生涯とはどのようなものなのか。12章1節から3節の神様の言葉を通して、私たちに要求されるもの、神のことばを信じて従うこと、そして、それを圧倒してあまりある神ご自身のなされるわざ、信仰は、何を信じるかということがとても大切です。そしてアブラハムはカナンの地に入りますが、そこでしたことが印象的でした。約束の地を得て、土台を築き、御殿を建てたのかと思いきや、礼拝のための祭壇は築きましたが、彼自身はテント生活です。アブラハムは羊飼い、そのことを改めて教えられました。イスラエル王国の最盛期を準備したダビデも、神殿建設の準備を為し終えようという時、自分は父祖たちのように地上では旅人でしたと告白しています。これこそ信仰の生涯です。わたしたちは地上では旅人。旅人だから地上の生活がどうでもいいというのではありません。旅には旅の目的があり、また目指すべきゴールがあります。これからアブラハムの生涯を学ぶことになります。旅人人生をどう送るか。そして天の故郷がやがてこの私をどのように迎えてくれるのか、見据えて今日を生きるものとさせていただきたいと思います。

2012年10月3日水曜日

ダビデによる哀歌

今日はサムエル記第二の1章を学びました。初めにツィケラグにいるダビデの元に一人のアマレク人がサウルとヨナタンの訃報を知らせます。彼の語ることはサムエル記第一の31章に記されたサウルの最期の様子と、微妙に異なっているのですが、おそらくは偽りを語り、自分がサウルを殺したことを手柄として、ダビデから報償を受け取ろうと考えたのではないでしょうか。ところが彼が想像していなかったことが起きます。ダビデ以下家来たちまでもが、激しい悲しみに陥ったのです。サウルから命を付け狙われていたダビデ。第三者から見ればサウル憎しの心情をダビデが抱いていてもおかしくない。しかし、ダビデは油注がれた王であるサウルを真心から敬い、慕っていたのです。少なくとも、聖書にあらわれているのは、ダビデのサウルに対する敬いの心情です。上辺だけの悲しみで、衣を引き裂くでしょうか。一日のこととは言え、断食をするでしょうか。そして俺はサウルを殺してやったと自慢げに話すアマレク人は、油注がれた方に手をかけて恐れなかったことのゆえに処刑されていくのです。
この章の後半は、サウルのため、ヨナタンのために作られたダビデの哀歌です。詩篇などの信仰の詩に比較すると、この歌には宗教的な要素はほとんど見られません。しかし、それだけにダビデが文才、詩人としての賜物に溢れていて、その力を非常な悲しみの中で遺憾なく発揮したことがわかります。至るところに並行法が用いられて、ダビデの感情が、技巧によって深く表現されようとしていることが読み取れます。情景の移り変わり、主題の順序も深く考察されています。23節、サウルとヨナタンの業績をたたえるダビデは、やはり王と王子を深く敬っていたのでした。またとりわけダビデに対して誠実な友情を示し続けたヨナタンの死は、彼にとって最大な悲しみとなったことでした。
ダビデは決して、サウルを憎み彼と戦って、彼を王位から追い落としたのではありませんでした。油注がれた王を敬い、しかるべき時に、神が彼を王とするのです。

2012年9月30日日曜日

バベルの塔

本日は創世記より、バベルの塔のお話しをいたしました。天にも届く塔を建てようと志した人間。しかし、神様は、人間の高慢を打ち砕き、言葉を混乱させられ、人々は容易に理解し合う事のできない存在となって、世界に散らされたことでしたが、子どもの頃から聖書を読んでいて、世界に様々な言語があること、戦争や紛争、理解し得ない問題があることは、神様のさばきの結果なのか、と思っておりましたが、聖書を勉強するようになって、さばきであるかもしれないけれども、神様の恵みでもあるということを教えられ、目が開かれた思いでした。私たち人間は一致して良い事を成し遂げることもできるけれど、本質的に罪を抱えた私たちは、むしろ高慢に陥る危険性があること。多様性を与えられた世界で、理解し得ない他者を理解し、受け入れ、受け入れられという人生の中で、人格は練られるものであるということ、一致、よりも癒着が問題とされる昨今、バベルの塔のメッセージは、極めて今日的、私たちの知るべき現実を教えている聖書のことばでした。東京スカイツリーのことなど調べておりましたら、人間の心の中には、よそよりも高い塔を建てたいという、素朴で愚かな願いがあるのだなあとも思い知らされました。しかし、根源的に罪を持った人間は、異なる他者にであってこそ、謙遜を学び、成熟に至るのだと思います。新しい週も異なる他者を理解し、関わる人生を歩ませていただきたいものです。

2012年9月27日木曜日

パウロの口調

今日は月一回の「ガラテヤ人への手紙講解」の学び。いつもの議論とは異なって、手紙の読者になんとかして分かってもらいたいと願うパウロの口調に焦点のあてられた箇所だった。新約聖書の書簡の中には、かなり厳しい口調で、非難しているような言葉も見られるが、手紙の読者は確かにそれを受け取ったのだということを忘れてはならないと思った。読み手を信頼しているからこそ語ることができる厳しいことば。語る時も、聴く時も、信頼関係の中で、ということがとても大切なことだと教えられた。

2012年9月26日水曜日

サウルの最期

今日はサムエル記第一の31章、最終章を学びました。サウル王の最期です。息子三人を打ち殺されても、最期まで戦い続けるサウルは、相当の強者だったのでしょう。ペリシテ人たちも遠くから矢を射かけることしかできない。誰一人近づいて剣を交えるものはいない。サウルは最期までペリシテに恐れられた勇者でした。しかしペリシテの弓矢はサウルに手痛い傷を負わせ、サウルは諦めて自害、なぶりものにされたくないという願いは空しく、息子たちも、サウル自身も武具を奪われ、サウルは首をはねられ、ベテ・シャンの城壁に、首なき遺体がさらしものにされます。王の死を悼む人々の存在だけが唯一の慰めです。なぜこのような最期を迎えることになったのか。28章のサムエルの預言が思い出されます。28章16節から。サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵となられたのに。主は私を通して告げられた通りのことをなさったのだ。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ。主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちもわたくしといっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。」神の言葉に聞き従わないことは、恐ろしい結末を迎えることになる厳しい現実を学ばなくてはなりません。サウルも自分の罪を認めていますが、それがうわべだけのこと、自分の面目ばかりを気にする、心の底では主を主として崇め、その御言葉を尊ぶことがどういうことなのか分かっていなかった。私たちも上辺の態度ではなく、心の底からの神への信仰が問われるものなのです。

2012年9月24日月曜日

ノアの子どもたち

昨日は創世記9章10章より、ノアの子どもたち、その子孫たちのことを学びました。酔っぱらった父の裸を兄弟に告げ、ハムとその子孫には呪いが宣告されます。ただ、それだけのことで?また酔っぱらったノアに責任はないのか?そんな疑問も湧くのですけれど、聖書は、人の恥ずかしい姿を見て物笑いの種にするような、私たちの心の中にある醜い部分を鋭く批判しているのではないでしょうか。他方、セムとヤペテは着物を肩にかけ、後ろ向きで父に近づきます。そこまでしなくても、と思うかもしれませんが、これが敬うべき父に対するふさわしい行為だと聖書は語るのです。愛は礼儀に反することをせず、愛は多くの罪を覆う。姦淫の現場で捕えられた女性から視線を背けるために、イエス様は地面に何か書いておられたといいます。見ない愛、とでも言えるでしょうか。人の弱さ、人の醜さ、人の罪深さをあばきたてて、笑い声をあげる、そんな人間に堕してしまわないように、と教えられたことでした。

2012年9月19日水曜日

主に伺う

今日はサムエル記第一の29章、30章を学びました。ペリシテの町ガテの王アキシュの元で、対イスラエル戦争に参加しようというダビデ。しかしペリシテの他の首長たちはダビデの裏切りを懸念し、アキシュにつぶやきます。アキシュはダビデを信頼していましたが、首長たちの手前、ダビデを陣営から退かせます。しかし問題はその間に起こっていました。戦士たちのいないツィケラグを、アマレクが襲い、女子供たちをみな連れ去った後だったのです。ダビデの家来たちは悲しみ、ダビデに対する不満が噴き出します。
その時にダビデは祭司エブヤタルを介して、主に伺いをたてたのでした。28章で霊媒師を訪ねるサウルと対照的です。ダビデは略奪隊追撃に成功し、妻子らを取り戻し、分捕りものも得たのでした。これを今まで世話になった人々に分配する。こうしてダビデは王に即位する時を、知らず知らずのうちに準備することとなったのでした。
主に伺いを立てるということは、自分の思いをいったんわきにおいて、神様は何を望んでおられるかということを思いめぐらす事です。大切な決断の時に、自分の思いに縛られず、自分を神様の視点から客観視できること。ダビデは小グループのリーダーでしたが、適切なリーダーシップを発揮したのです。

2012年9月17日月曜日

契約の虹

昨日はノアの箱船、雨が止んで水が引き、箱船を出たノアと神様がかわした契約を学びました。これは今の時代にまで続く世界の状態を告げている箇所ですから、特に重要です。
3、11大震災があって以来、教会の中でも外でも、これは神のさばきか、ということが語られ、噂され、色々な意見がありました。
聖書は何と言っているか。ノアの箱船以来、神様は、人間の罪深いことは百も承知。しかし、地の続く限り、人をかの大洪水のような災いによっては、滅ぼす事はすまい、そう決められた。そして神様は人との約束のしるしとして雲間にあらわれる虹を与えてくださった。聖書はそう告げているのです。
私は3、11の日、出先から帰る車の中で、フロントガラスを濡らす水滴に気付きました。あたりは晴れているのに、ここだけにわか雨?ひょっとしてと側面の窓から後の方を振り返ったら、うっすらと虹が見えました。
ニュースなどまだ見れていませんでしたが、大変な災害となっているだろうことの予測のつく地震でした。しかし神様は虹を見せてくださった。それは大きな災害があっても、すべてを滅ぼす事はすまい。まだすべてを滅ぼす事はすまい、そう言っておられる神様の御声のように聴こえました。
多くの人の命が奪われました。痛ましいことです。なお困難の中にいる人たちがおり、原子力発電所でも被曝しながら働いている人たちがいます。なんということが起こってしまったのだ、多くの人がそう考えていると思います。しかし、神様はノアによって人類を救い、人類と動物たちの地に栄えることを願われた神様。神様は今日も色々なことを通して、最悪の事態から免れるように、わたしたちに忍耐深く語っておられるように思います。
今は恵みのとき、今は救いのとき。神様はまだ私たちにチャンスを与えておられます。助け合い、よりよい未来を築くものでありたいと思います。

2012年9月12日水曜日

苦しい時の神頼み

苦しい時の神頼み、という言葉があります。私は牧師として、苦しい時の神頼みでもいいんです。神を求めてくだされば、と話すようにしています。どんな出会いでも真の神様に出会うきっかけになれば、それで良いからです。しかし今日学んだサムエル記第一の28章には、苦しい時の神頼みではダメな悪いケースを教えられます。ペリシテとイスラエルの戦いで怖じ気づいたサウル王は、主なる神様に伺いをたてます。しかし、主からの答えがないと、即座に霊媒による託宣を求めたのでした。イスラエルは律法によってあらゆる偶像礼拝、占い、霊媒が禁じられている国です。その種のオカルトは、人間をだまし滅びに招くからです。その国王が霊媒を求めたのでした。自分の思いのままに超自然の助けを求めたのでした。現れたのはすでに地上を去った預言者サムエル。彼は、サウルの罪を指摘し、それゆえに主の祝福がサウルを去ったこと、この後、息子ヨナタンと共に、ペリシテの手にかかって死ぬことをサウルに伝えたのでした。

サウルのすべきことは何だったのか。それはかつて主の御声に聞き従わなかった罪を、心から悔い改めて、神に立ち返ることでした。しかし、サウルのやっていることは、いつもその場しのぎのうわべだけの振る舞いなのです。真心からの悔い改め、神への立ち返りのないサウルの信仰生活は、神との真摯な交わりを欠くものでした。それが求めて得られないとすぐ別へ行くという行動にあらわれています。主の答えがないなら、なぜないのか、主の答えがないというのは、それ自体もっとも正しい主の答えを意味している場合があるのです。真の信仰者は、どこまでも、真の神に助けを求めるべきであり、神の御心はどこにあるのか思いめぐらすべきです。なぜなら本当に頼りになるのは唯一の神お一人であり、また世界はすべて神様の御心のままに動いて行くのですから、この神様を見上げると、自分のなすべき最善のことも見えてくるものだからです。

2012年9月10日月曜日

大洪水

昨日は創世記7章からノアの時代の大洪水、ノアとその家族、箱船に乗った動物たちを残して、地上の生き物はみな死に絶えた恐ろしい過去の、尋常ならぬ大災害の記憶を学びました。死に絶えた人々の側から見るならば、それは恐るべき事件。しかし、生き残ったノアたちからすれば救いのみわざです。そして、神様がすべてを絶滅させなかったので、今日の私たちは存在する。今の時代は恵みの時代です。神様は、二度とこのような仕方では地を滅ぼさないと約束し、約束の虹は繰り返し雲間からあらわれます。恵みの時を無駄にせず、神を仰ぎ見て祝福をいただく者とされたいものです。

2012年9月6日木曜日

ガテ

サムエル記第一の27章でダビデはかつて一人で逃亡していた時に逃げ込んだガテへ、再び赴くことになります。かつてはその素性を知られるや、気違いを装って逃げ出さなければならなかった場所。しかし今回は600人以上もの大所帯で、サウル王との敵対関係も明らかだったことでしょう。そのようなダビデを受け入れるガテの王アキシュ、時代が少しづつ変わりつつあることがわかります。そしてダビデはここでガテの王アキシュの信頼を得、いつまでも彼のしもべでいるだろうと思われるほどになったのでした。しかしダビデの真の主は、目に見えない真の神なのです。

2012年9月2日日曜日

仕える教会

今日は『仕える教会』というテーマで、いわきキリスト教会の増井恵牧師より、午前、午後、語っていただきました。色々な現場に実際に関わっておられる言葉が、重さをもって私たちに迫ってきました。今、日本が直面している様々な困難に対して、キリスト教会ができることがあること、それを実感しつつ、飾らずに仕えておられる姿勢が、私たちのできることを教えておられる、そう思いました。感謝いたします。

2012年8月30日木曜日

献堂7周年感謝記念礼拝

来る9月2日(日)は新船橋キリスト教会の新会堂献堂7周年記念礼拝です。いわきキリスト教会より増井恵牧師をお招きしてメッセージと午後のレクチャーをしていただきます。タイトルは『仕える教会』2011.3.11以降、多くの経験をされ活動しているいわきの友人牧師より、メッセージをいただきたいと思います。心から期待しています。

2012年8月29日水曜日

エシモンの東にあるハキラの丘

かつてダビデの居場所をサウルに知らせたジフ人たちが、サムエル記第一の26章でもダビデの居場所をサウルに知らせます。サウルがダビデに近づいた夜、ダビデはアビシャイを連れてサウルの幕営を訪れたのはなぜでしょう。荒野での逃亡生活を理解することが鍵になるかもしれません。荒野に逃げるとは、森や木々のある場所に隠れることではありません。人の来ない広大な荒涼とした場所に身を置く事ですから、一度居場所が分かってしまえば、むしろ万事休す、身を隠すものは何もないのです。敢えてサウルに会うために、出て行く必要があったのかもしれません。そこでダビデはサウルを殺害するチャンスに恵まれますが、それは彼の願うところではありませんでした。槍と水差しをもって翌日に備えます。翌日、急には捕えられない十分に距離を置いた場所からダビデが呼びかけますと、しおれたサウルはいのちを助けられたことを悟り、自分の過ちを認めたのでした。ここでもサウルの前で率直に語ったダビデは、サウルを退けることに成功したのでした。「私があなたのいのちを大切にしたように、主はわたしのいのちを大切にして、私を救い出してくださいます。」敵のいのちを奪う事ではなく、敵のいのちを大切にすることこそ、自分のいのちを守ることになる。今日、あらゆる場面に見られる憎しみと争いも、このような解決方法によらなければ、負の連鎖は積み重なる一方なのではないでしょうか。戦が連続するような旧約聖書の歴史の中にも、丁寧に読み解くなら、神は暴力を肯定しておられないということを教えられるのではないでしょうか。

2012年8月27日月曜日

ノアの箱船

8月26日はノアの箱船と題して、創世記6章から学びました。神のさばきの対象となる地上世界は、しかし、今日とどれほど異なるというのでしょうか。わたしたちの歩みについて考えさせられました。しかし当時の世界は、義人ノアによって救いを得ます。ノアは神の言葉に従い、信仰によって救いを得ました。ノアの箱船、大洪水が、今日の私たちに教える教訓は次週以降になりますが、人の罪深さ、しかしそれを覆ってあまりある神の恵み深さを教えられるときでした。

2012年8月22日水曜日

聡明な女性アビガイル

今日はサムエル記第一25章を学びました。愚かな夫ナバルの聡明で美しい妻アビガイルが、援助を断ったナバルの代わりに、ダビデの前へ出て、復讐の血を流さないでくださいと嘆願します。ダビデは道を引き返し、翌朝、すんでの所で生き延びたことを知ったナバルは、しかし、誰の手にもよらず息絶えていきます。アビガイルの賢さは、ただ強者におもねったことではなく、ダビデが主によって王とされていくことを信じて見てとった霊的な賢さであり、王となるダビデが無益な血を流してはならないとの、ダビデに対しても臆せず語った正しい道にありました。そして、このような手段をもっても油注がれた者の道を守られた神様の真実を覚えさせられたことでした。神の御前に、清く、正しく、知恵深く、また勇気を働かせて生きて行きたいもの、と教えられたことでした。

2012年8月19日日曜日

エノク

今日は創世記5章を学びます。神の言葉の厳粛な事実が実現します。アダムの子孫の系図、その名前は神様の御前にひとりひとりが覚えられていますが、みな地上の命を死によって終えていきます。たった一人の例外エノクを除いて。現代人と比較すれば驚くほどの長寿を記録している人々もみな死に絶えていく。神の言葉の厳粛さの前に、人々が絶望する可能性も大きかったのではないでしょうか。しかし、神を恐れ、神とともに歩んだエノクは、地上に屍をさらさなかった。死によってとどめをさせれない命があることを人々は知らされたのです。それがどのようにして多くの人々の救いとなるのか。それはまだ知らされていないことでしたが、神様は死の支配する世界を打ち破る希望のあることを、人に知らせたのです。

2012年8月8日水曜日

油注がれた方に手を下さない。

今日は第一サムエル記24章、および、詩篇57篇を学びました。エン・ゲディの洞穴で、サウルを殺すチャンスを得たダビデ。しかし、彼はサウルに手を下す事に畏怖を覚え、洞穴を出たサウルに、虚心坦懐語ります。神が支配しておられる現状を認め、自分がしても良い事は何か。正しい行為を選び取ったダビデに、深く教えられることです。チャンスが与えられたとしても、正しい事を行う。正しくない事は行わない。そういうことが人生を導くのだということを学び取りたい箇所でした。詩篇は、ダビデが心の中で、問題を霊的に捉えていたということを教えてくれます。目に見える所を、人間的な判断しか下し得ないようでは、祝福を逃すのは自分自身なのだと教えられます。部族連合体のイスラエルが、一人の王をいただく王制国家になり祝福をいただくために、ダビデの選択は確かに有益だったのです。人を押しのけて、自分が活躍するのでない。神様は、ご自身の用いようとしておられる人物を、御心によって最善の時に、引き上げられるのです。私たちは、どんなことがあろうと、神様が最善の時を用意しておられると信ずべきです。それが賢い道です。

2012年8月6日月曜日

カインとアベル

昨日は創世記4章を学びました。罪から罪へと進んで行くカインは、私たち人間が間違った道に進んで行く様を、もののみごとに示してくれています。そして、カインに語りかける神様は、忍耐深く、彼がどの時点でも引き戻るための適切な行為を教えてくれていました。改めて振り返ってみて、最初の小さな罪の重さを思います。最上のものをささげる心のあったアベルと、何の思いもなくささげ物を持ってきたカイン。人格ある神に向き合うということのない形だけの行動、そのことのむなしさ。私たちは私たちを愛しておられる神様に、心をおささげしなくてはならないと教えられるのです。

2012年8月3日金曜日

夏休み

暑い夏が続いていますね。みなさんは如何おすごしでしょうか。新船橋キリスト教会では今年も子育て支援のため、第三金曜日10時半からコーヒーアワー、第四金曜日10時から子育てクラスを行ってきました。7月の子育てクラス、お母様方、幼稚園児、未就園児、たくさんの方々が集って楽しい時を過ごせたことを心から感謝しています。8月は夏休みになります。どうぞお元気でおすごしください。9月にまたお会いしましょうね。

2012年8月2日木曜日

仕切りの岩

昨日は詩篇の背景として第一サムエル記23章を学びました。ケイラを助けても、ケイラには助けられないダビデ、ジフ人たちもダビデのことをサウルに知らせる。人の頼りなさを経験するダビデですが、ヨナタンとの最後の会見が光ります。友に信頼される事、信じていると言葉をかけられることほど人の力づけになる言葉があるでしょうか。ただダビデ王のかたわらで、ヨナタンが仕える日はやって来なかったのです。マオンの荒野でダビデを追いつめるサウル。しかしペリシテの攻撃があり、ここでもダビデは守られたのでした。この事件を背景として詩篇54篇が詠まれています。

2012年7月30日月曜日

罪の結果

昨日は「罪の結果」と題して、創世記3章の後半のメッセージをしました。神様の判決がくだります。人は自由を与えられた生き物。その行動の責任を負ったものであることがわかります。そして今日の人間も世界もその影響の下にあることは否定できないでしょう。神の前に罪を犯した人間は、必ず死ななければならない存在となったのです。しかし神様は罪に対する解決も備えていてくださいました。一度失敗した人間を諦める事無く、この不完全な存在が、もう一度永遠のいのちにあずかる道を用意してくださったのです。神様は、忍耐し、私たちを信じていてくださる方。この神様の前に立ち返る歩みをしたいものです。

2012年7月25日水曜日

エドム人ドエグ

祈祷会では詩篇の学びをお休みして、詩篇の背景となっているサムエル記を学んでいます。今日は第一サムエル記22章、ノブの祭司アヒメレクがダビデを匿ったことをサウルに密告するエドム人ドエグの言葉によって祭司たち85人が虐殺されるという惨劇が起こります。私たちはこのような不条理、悪の跋扈する世界を見つめたとき、何を信じ、どう生きるべきか、暗澹たる気持ちにさせられます。しかしダビデはこのような悲劇の中でも詩篇52のような信仰の祈りをささげていました。到底祈れない、そのような時こそ、詩篇の祈りは、私たちに信仰のあり方を教えてくれているようです。

2012年7月2日月曜日

息を吹き込まれて

昨日は神様からいのちの息を吹き込まれて生きるものとなった人間の創造を学びました。からだは地のちりから、しかし、たましい、いのちは神様からのもの。祈りや賛美、みことばに聴くことは霊的な呼吸。今日も神様からのいのちの息をいただいて、歩んでいきたいことと思わされました。

2012年6月28日木曜日

あらゆる違いを越えて

今日はガラテヤ人への手紙の学び。これまでユダヤ人と異邦人(その他の外国人)ということで語られて来た問題は、実は、すべての民族の対立を越えることであるという初めての言葉を学んだことでした。そんなおおげさなことでなくとも、私たちは日々、自分と異なる他者と出会い、関わり、様々な思いを抱き、生きている存在です。そして異なる他者とどのようにして共に生きることが可能なのか。イエス様はそのことを私たちに教えてくれる最高にして唯一の教師なのだと教えられた次第でした。

2012年6月25日月曜日

やすみの日

日曜日にのんびりすることもなく朝から礼拝にでかけるクリスチャン。休めばいいのに大変ですね、などと声をかけられることもなくはありません。ところが、クリスチャンは礼拝に出席して、心から休んでいるのです。こんなすばらしいリフレッシュの方法はありません。唯一人のまことの神に向き合うとき、わたしたちはあらゆることから、いったん解き放たれるのです。自分自身すら、忘れることができるのです。忘我の境地といった恍惚状態ではありません。あくまで意識的に。自分の関心事をひとまずわきにおいて。そしてそれはまことの神様がどのようなお方であるかを知れば知るほど、深いレベルにおいて可能になっていきます。日曜日を、主日、主の日ともいったりしますが、私たちは私たちを愛しておられる神様にお会いして、新しい命の力を注いでいただいているのです。

2012年6月13日水曜日

ダビデの生涯

祈祷会ではずっと詩篇を学んできましたが、第一巻が終わりましたので、ちょっと詩篇をお休みして、今日からダビデの生涯を学びはじめました。第一サムエル記15章16章から。聖書の記述の見かけ上の矛盾とその伝えんとしていることなど学びながら、少年時代に聖霊の豊かに注がれたダビデの恵みを憶えたことでした。

2012年6月4日月曜日

初めに神が

昨日から私たちは創世記を学び始めました。説教題は「初めに神が」。創世記1章は「天地創造」が記されていると思っていましたが、改めて読みなおして自分のズレに気づきました。創世記1章の主題は「天地創造」ではなく、「天地万物を造られた神」です。この主題の取り違えは、微妙に理解を歪めます。聖書は世界について語ろうとしているのではなく、世界を造られた神について私たちに教えているのです。これからも聖書が教えようとしていることに謙虚に耳を傾けていきたいと思います。

2012年5月22日火曜日

先日の日曜日は

主イエス様の昇天を憶える主の昇天の主日で、使徒の働きの1章、イエス様の昇天の記事を学びました。聖書にはわたしたちの常識では信じがたい事柄が記されているので、本当に驚きます。イエス様が死からよみがえられたこともそうですが、弟子たちが見ている間に上げられて、雲に包まれて見えなくなったということも不思議なことです。いったいどこへいったのでしょうか。ただわたしたちに残されているのは、イエス様が、天に上げられたのと同じ有様でまた地上に来られるという約束の言葉なのです。

2012年5月16日水曜日

信仰者は

その生涯の晩年に悟りと平安に達するのであろうか。詩篇39を読む限りでは、生涯の終わりの近いことを感じつつも、詩人は達観の域に到達しているとは到底言えない。心の悶えがあり、命のはかなさが思われ、霊の弱り果てていることを神に訴えている。赤裸々で弱々しい霊は、凡人と何も変わらないように見える。しかし、そのことを聴いてくださる神を信じて祈る、それだけが、信じる者と信じない者をへだてることになるのだろう。

2012年5月6日日曜日

わたしを愛しますか

今日は復活のイエス様がペテロに向かってわたしを愛しますかと三度問われた場面を学びました。師に従いきれずそんな人は知らないと強くイエス様を否定したペテロ。その心の傷に、敢えて近づき、本当の癒しを与え、彼を再び立たせて行くイエス様の愛情に満ちた召しの声を、わたしたちも同じように聴く思いがしました。そしてペテロは神の栄光を現す生涯を生き抜いたとの、彼の生き様を見届けた別の弟子の声も響いていました。キリスト教は、イエス様がわたしたちを生かしてくださる道、そのように思いました。感謝します。

2012年4月25日水曜日

善悪を思いめぐらすこと

今日は詩篇36篇を学びました。悪人の生き方について、善人の生き方について思い巡らされています。祈りの中には、このようなことを思い巡らすことも含まれているのだと教えられました。私たち日本人は善悪についてどこで学ぶのでしょう。牧師は小学生の頃、道徳という授業があったのを思い出しました。メンバーの方々は、そんなものすらない時代だった、などなど、色々教えていただきました。また詩篇36篇はジュネーブ詩篇歌のメロディーが有名ですので、これも歌ってみました。詩篇全節にわたって音楽のつけられた讃美歌は、やはり歌いごたえのある重厚なものでした。

2012年4月23日月曜日

派遣の時

昨日は復活のイエス様が弟子たちを再派遣する言葉を学び、また見ずには信じれないと言ったトマスが、見て信じたこと、しかし、見ずに信じる者は幸いと言われたイエス様の言葉を学びました。午後は墓前礼拝が予定されていましたが、雨が降ってきたために中止となりました。5月第三週に延期の予定です。

2012年4月18日水曜日

彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。

今日は詩篇35篇を学びました。本筋とは異なるのですが、詩人の祈りの美しい姿が描かれています。「彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。」詩人は友人の病に苦しむ姿を、おのれの苦しみ、悲しみとして、癒されるよう祈ったのでしょう。断食してたましいを悩ませ、とも言っています。親しい友が苦しんでいるのに、のうのうと食事などしておれないという、友として共感なのでしょう。私の祈りは私の胸を行き来していた。母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。結局は、これほどまでに祈っていた友が、今、自分を裏切っている、そのことの方が、祈りの主題なのですが、しかし、友の苦しみの時に、共に苦しもうとする、共に悲しもうとする詩人の生き方に胸を打たれる思いでした。

2012年4月16日月曜日

名前を呼ぶイエス

昨日は復活のイエス様にお会いしたマグダラのマリヤの箇所を学びました。名前を呼ばれるまでイエス様の存在に気づかないマリヤ。信仰とは人間の心の中に湧き上がるものですが、神様がおられるのでなければ、イエス様がよみがえられたのでなければ、与えられなかったものなのですね。そして天に昇られるイエス様は、あの世の希望であるだけでなく、この世での使命も教えられるお方と覚えました。また礼拝の中で先週に続いて洗礼式が行われたことも、ますますの喜びでした。幼い頃からキリスト教に触れておられた方ですが、いつまでもこのままではいけない、と最近になって気づきが与えられたとのこと。これもまた不思議ですが確かな神様の導きのゆえ、でした。みなで心から喜んだことでした。初めて礼拝に集われた方と、昼食の会話もはずみ、幸いな日曜日でした。

2012年4月11日水曜日

主はそのしもべのたましいを贖い出される

今日は詩篇34篇を学びました。神賛美への誘い。なぜなら主は悩む者の声を聞いてくださるお方だから。主を求めよう、主を恐れよう。締めくくりは主がしもべのたましいを贖い出してくださるという信仰告白となっています。教会は復活節に入りました。十字架のイエス様が信じるすべての人の贖いとなってくださったこと、それがこの詩篇の神賛美こそ私達にふさわしいことを裏付けているのではないでしょうか。

2012年4月10日火曜日

イースター 洗礼式

おとといの日曜日はイエス様の復活をお祝いするイースター、聖書では敢えて復活のイエス様の登場前までで終わりとしました。本当にただただ悲しみに沈むだけの女性たち、恐れおののいて隠れている男性たち、復活の事実がなければ、キリスト教なんて生まれなかったんだとつくづく思いました。そしてこの日は洗礼式もありました。幼少の頃からキリスト教に触れる機会があり、いちどは洗礼を受けてみないかと誘われたこともあった、けれど、おとといようやくその恵みにあずかることができた姉妹は、本当に喜びに満ちていました。そしてこれからもずっと共に歩んでいきたいものと思いました。感謝。

2012年4月2日月曜日

棕櫚の主日

昨日は棕櫚の主日、ヨハネの福音書からイエスの死と葬りを学びました。イエス様の「完了した」という言葉が、何よりも心に残ります。人の罪の罰の支払いを完了した。罪のない神の御子が私達のために命をささげてくださったのです。なんという恐れ多いことでしょうか。次週はイースターです。死んでよみがえられたイエス様のご復活をお祝いします。

2012年3月28日水曜日

詩篇32

本日の聖書の学びでは詩篇32を学びました。ダビデのマスキールとサブタイトルがついています。マスキールとは一説によると教訓、それも失敗から学んだ教訓との意味が考えられるそうです。確かに詩人が罪を犯して、神の赦しを経験したこと、そのたましいの真実が描かれています。罪を犯した人、過ちを犯した人は、その罪を償わなくてはなりません。それが地上の世界の現実です。しかし、聖書はそれだけが人間の全てであるとは言わないのです。人間がたましいを持った存在であり、罪を犯して汚れたたましいは、しかるべき浄めを必要としている。自分が赦すのでない、人が赦すのでもない、神が赦してくださる、そのために必要なこと、プロセスを教えています。罪過ちがあるのに、それを認めないことは、自分を欺くことになります。浄めに到達することはありません。神様は人間が自分を欺くことのないように、罪を犯せば痛みを感じる良心をすべての人に与えておられます。そして良心は体をむしばむほどに、私たちの心に訴えるのです。それで詩人は耐えかねるように神の前に認罪する過程へと進みました。すると全く不思議なことに神の赦しが詩人のたましいに訪れるのです。いや不思議ではないでしょう。聖書は一貫して真心から罪を悔い改めて告白する人を、神は赦すと伝えているのです。「それゆえ聖徒はみなあなたに祈ります。」クリスチャンは、罪を犯さないから聖徒なのではありません。罪を犯すけれども、神に赦され清めていただくことを知っているから祈り続ける信仰者なのです。私たちが注意しなくてはならないのは、悟りのないもののようになってはならないこと。過ちを指摘されたのに、私には罪はないと硬い心になってしまわないこと。清い神との心の交わりを保ち、神に教えられる時、やわらかな心で従っていくことなのです。心が痛む時、素直に神様の前に出ていく祈りを捧げ続けていきたいものです。

2012年3月8日木曜日

強く立たせてくださる神

詩篇30篇7節にはこう記されています。「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたがみ顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」神に信頼する者を強く立たせてくださる神への感謝がうたわれています。しかし、神によらなければ弱々しい詩人の姿も描かれていることが印象的です。信仰の詩人ダビデは文武両道、イスラエルの歴史の中でも最も愛されている王でありますが、彼は自分の力、自分の知恵によって国を繁栄に導き、祝福を受けたのでないことを告白します。すべては神の恩寵である。神のあわれみを必要とする人間である。そう祈りつつ、いつも自分を神の前に置いたダビデに信仰に今日も習っていきたいと思います。

2012年3月5日月曜日

それはわたしです。

昨日はヨハネの福音書18章を学びました。イエス・キリスト捕縛の場面で、力強いイエス様の姿が印象的です。捜しに来た人々に自ら名乗りを上げるヨハネの福音書のイエス様は、ユダの裏切りを必要としていないかのようです。ユダはただつったっているだけ。そして不思議なことが起こります。イエス様が「それはわたしです。」と言われると、人々はあとずさりし、地に倒れる。それはイエス様が口にした言葉が、ユダヤ人たちの口にすることもはばかってきた神の名だったからです。かつて神はモーセに「われはありてあるもの」と名を明かし、この名をイエス様が口にした時、人々はイエス様の言葉だけで、倒されたのでした。捕縛される場面で、600人以上の敵を圧倒するイエス様。しかし、イエス様は自ら十字架で死なれるために、弟子たちを逃し、ご自分で囚われの身となられたのでした。すべての人の罪を贖う代価としてご自分の清い命をささげるためでした。

2012年2月21日火曜日

転入会式

おとといの日曜日は転入会式が行われました。J兄とS姉。S姉はご結婚される前はすでに日本で宣教師として働いていてくださった方ですが、礼拝において入信の証、その後の歩みをお話ししてくださいました。高校生の彼女を救い、また続けて反対していたご家族も皆救われた神様の真実を本当に覚えさせられた幸いな機会でした。生まれも育ちも異なっていても、救い主イエス様は私たちに姿を見せてくださって、救いに導き、兄弟姉妹としてくださるのだとつくづく思いました。来週はJ兄が証をしてくださいます。乞うご期待。

2012年2月12日日曜日

わたしはすでに勝った

今日は「わたしはすでに勝った」と題して、ヨハネの福音書16章、結びの部分を学びました。ヨハネの福音書の最後の晩餐のシーンは、これが最後に記された福音書なのかと思われるくらい、イエス様と弟子たちの会話が、生き生きと伝えられていることに驚かされます。信じているという弟子たちの弱さを知ってなお語られるイエス様の言葉に、真摯な愛と証拠のある励ましを覚えることができました。感謝いたします。

2012年2月8日水曜日

私を弁護してください。主よ。

今日は詩篇26篇を学びました。「私を弁護してください。主よ。」この所の詩篇は、極めて個人的な嘆願が続いていますが、その内容はおよそありのままの私たちからは生まれでて来ないような祈りです。こんな言葉を神の前で述べることができるのか。偽善では意味がありません。しかし、正直な自分を神の前においていくとき、私たちは祈りによって益を得るのでしょう。主に信頼を置くことは、主に認めていただける価値のあること、これも有神論的世界観にたっていないと理解できない言葉と思いました。神が私たちを愛し、私たちのために最善を為そうとしておられる人格的な方ならば、試練の中で失望したり、絶望したりすることは、神を悲しませることになります。苦しみの人ヨブは、人格的に神を信頼していた、そのような交わりの中にいたのだということが思い出されました。

2012年1月23日月曜日

躓かないように

昨日はヨハネの福音書16章前半を学んだ。ご自身の去られる前に、弟子たちのことを心から思いやって語るイエス様の愛が伝わってくる箇所だ。そして、すべてのことはあらかじめわかっていたこと。イエス様の語る未来の出来事はことごとく実現した。何も知らずに未来に遭遇したとしたら、弟子たちはまさに「つまずいた」ことだろう。しかし彼らの師なるイエス様がつまずかないようにと語った言葉によって、彼らは使命をやりとげる人々となったのだろう。私達も力あるイエスの言葉によって生かされていきたい。またご自身の不在は益、悲しむのではなく、もう一人の助け主を喜べという言葉も、即、私達にあてはまる知恵の言葉だった。

2012年1月18日水曜日

主は私の羊飼い

今日は詩篇23篇を学んだ。主は私の羊飼い。ダビデの賛歌とあるが、6節最後の「いつまでも主の家に住まいましょう。」という言葉が、ダビデの頃には神殿が建設されていなかったことからすると、著作性の疑われる理由として挙げられる。しかしダビデは晩年地上では寄留者である、と告白していた。そして神殿建設をとどめられたが、準備万端整えることにいささかも力を削ぐことはなかった。地上で後世のために主の家を建設する準備を整えることに力を注いだダビデは、天上の神の家、永遠の住まいを憧れつつ世を去ったのではないかと思う。

2012年1月16日月曜日

イエスは憎まれた

昨日の説教から。人間は誰しも人に憎まれるより好かれたいと願うだろう。しかしイエス様は弟子たちにご自分が憎まれたということを話した。そして弟子たちも憎まれることがあるだろう、驚いてはならない、恐れてはならないとあらかじめ教えられた。人の評価を気にして、好かれたい、ということで進む道の判断を誤ってはならないことを教えられた。

2012年1月12日木曜日

モーセの死

今日は家庭集会。申命記の終わりからモーセの死について学びました。たった一度、神を聖としなかったことで約束の地に入ることをゆるされない、生涯を終えていくモーセ。その意味はなに?と新約聖書ヘブル人への手紙11章以下も参考にして学びました。新年早々あの世のことを考える集会となりましたが、それは現実を生き抜く力強い信仰につながっていることを確認することができました。

2012年1月11日水曜日

町の再建、廃墟の復興

イザヤ書44章は続けて偽りの神を作ることの愚かさを詳細に記述します。そしてイスラエル(※)に呼びかける神のみがまことの神とご自分を示し、あなたは造られたもの、わたしが造った。と創造者と被造物の違いを明らかにします。神様はそのことで何を言おうとしているのでしょう。測り知れない所がありますが、この神が、「町々を再建し、廃墟を復興させる」と言っています。この預言は成就したのでしょうか。ペルシャ王クロスの時代に、成就しました。しかしまた町々は廃墟となりました。今日はどうでしょう。再建されたとはいえない状態だと思います。復興できるのか。私たちは失望することがあります。しかし創造者なる神は「わたしが成し遂げる」と言われる神なのです。(※新約聖書は信仰によるものが真のイスラエルだと言っています。)

2012年1月10日火曜日

一神教は排他的か。

今日の聖書はイザヤ書41章42章でした。42章にこのような言葉があります。「彫像に拠り頼み、鋳像に、『あなたがたこそ、私達の神々』と言う者は、退けられて、恥を見る。」このように、ユダヤ、キリスト教は、偶像礼拝を忌み嫌いますが、その本質は神ではないものを神のごとく崇めるということと言えるでしょう。だから何が神なのか、あるいは、何が神の言葉なのか、このことに徹底的にこだわるわけです。他宗教を批判することをよしとしているのではないと思います。私は最近佐藤優氏の著作を拝見させていただいていますが、氏の入信の動機を知って興味深く思いました。キリスト教の外の人々よりも一層厳しくキリスト教会を批判する真実な声をキリスト教会の中に発見したので、自分はクリスチャンになったとのことです。理解に間違いがありましたらご容赦ください。誰が神か、何が神の声なのか、このことに対するこだわり、大切にしたいと思いました。

たっくん

昨日は近隣五教会の新年聖会でした。馬込沢の山本進先生が共に取り組んでいるEEに関連して説教してくださいました。ちょうど新船橋キリスト教会で日曜の礼拝の時に読んだのと同じ聖書箇所が重なっていましたので、やはり神様が導いてくださって私たちに一致を与えておられるのだと思いました。コリント人への手紙第一の1章でした。また午後はJJによるパペット、腹話術。伝える中身は変わらない。でもどのように伝えるのかというのは、本当に工夫のしがいのあることであることを、改めて教えられました。私が大好きになったのは、たっくんです。ちょっと不恰好なたっくん。でもJJのお二人がなんとか使えるように工夫したということと、たっくんのけなげな生き様、それを支える信仰の力強さに、人間はどのような状況でも尊厳を持って生きることができるのだと改めて教えられました。感謝します。JJがこれからも豊かに用いられますように!

わたしがあなたを選んだ

おとといの礼拝では「わたしがあなたがたを選んだ」と弟子たちに語るイエス様の言葉を学びました。聖書を通して神の声を聴くというのは何の不思議もない、私たちの人生で起こってくる出来事の背後にある神様の御心を知ることです。このわたしがどうしてここまで生きてきて、今日ここにいるのか、そのことに神様のご計画があり、イエス様の御思いがある、そう語っておられるイエス様の言葉を信じることなのです。聖書の言葉は、私たちの知らない方角からやってきて、私たちの今を支えてくれるのです。

2012年1月7日土曜日

国家存亡の危機

イザヤ書は35章で預言の言葉が中断し、36章はヒゼキヤ王の時代の国家存亡の危機の記事です。多くの国々を滅ぼしたアッシリア帝国、その王セナケリブが将軍ラブ・シャケに大軍をつけて、エルサレムを包囲させた。ラブ・シャケの罵りの言葉に何もかえすことができない人々のなんと非力なことでしょう。しかし物語の最後、撃退されるのはアッシリアの大軍。退却した王セナケリブもその息子たちに殺されるという結末に至ります。歴史の行く末は必ずしも人の思うようには進まない、その中でどのように生きるべきか、考えさせられることです。

2012年1月6日金曜日

夏草や

「夏草や兵どもが夢の跡」とは芭蕉が奥州高館を訪れた時の句ですが、夏草の生い茂る姿に悲劇の歴史、弁慶、義経らの死を思っています。聖書通読マナはイザヤ書34章35章。ここで預言者イザヤも諸国の滅亡の姿を見つめています。「そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルのすみか、だちょうの住む所となる。」権威を礼賛する歴史観ではなく、失敗を見つめること。そこに何があったのか、なぜそこは廃墟となったのか、この視点に立つことが大切なことではないでしょうか。

2012年1月5日木曜日

平和をつくり出すもの

イザヤ書32章17、18節にこんな言葉があります。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」2012年、私たちの暮らしはどのようになっていくのでしょうか。安心して暮らすことのできる年となるといいですね。

2012年1月4日水曜日

手おけの一しずく

新船橋キリスト教会はディボーションテキスト「マナ」を使っています。新年はイザヤ書が続き、古代オリエントのイスラエルを取り囲む諸国の行く末が、預言者イザヤの言葉によって予告されていきます。古代国際情勢と行ってもよいでしょう。そして創造主なる神の視点から、小国も大国も、神の正しいさばきを免れるものではないことを教えられます。イザヤ書40章15節に次のような言葉があります。「見よ。国々は、手おけの一しずく。はかりの上のごみのようにみなされる。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」一人の人間にとって自分の属する国家というものはとても大きなものです。しかし天地万物の創造主なる神からみたら、それも小さなちりにすぎない。しかしそれを見つめる視点は重要ではないかと思いました。

2012年1月2日月曜日

元旦礼拝

昨日は元旦礼拝でした。2011年度はクリスマスも日曜日、元旦も日曜日、主の日に皆で共に集まり、神のみ旨に心を傾け、共に歩んでいける幸いを、いつもの年以上に体験することができまして、感謝しています。次週主日は昨日来れなかった方々も共に集まり、2012年の最初の聖餐式を行います。神の御言葉は、新しい年も、どんなにか私たちを導き、力づけ、押し出してくださることでしょうか。主にある希望と喜びを持って歩む年とさせていただきたいと思います。