2014年10月22日水曜日

ベーチェチョルさんの歌

 日本のキリスト教会では少し前から韓国人オペラ歌手のベー・チェチョルさんのことが話題になっていました。ヨーロッパで活躍している最中に甲状腺がんを患い、一時は声を失った。しかし、今、奇跡的に回復の途上にあり、神の恵みを証しする信仰の歌を歌っているとのこと。
 私は初めて伺った時には、まず、オペラに興味がないということ、また、回復した歌声が痛々しいものだったら、聴きたくないな、そんな思いで、チェチョルさんのことをそれ以上知りたいとは願っていませんでした。
 そんなおり、チェチョルさんの経験の実話の映画が完成したので、試写会を見ませんかとの誘いを受け、この夏、映画を見させていただきました。
 現在は、一般公開もされているので、是非、ご覧頂きたいと思います。
 まず驚いたのは、癌を患う前の声が、本当に魅力的なテノール・リリコ・スピントであったということ。彼と共に仕事をすることになったプロデューサーの言葉の通り、私は、初めてといってよいくらい、オペラのすばらしい世界に目を開かれました。
 映画は彼の与えられた才能、賜物のすばらしさを伝えていました。また韓国人歌手として、ギリギリの努力の中で、栄光を勝ち得ていたこと。それが病によって絶望の底に突き落とされる様、痛いほど伝わってきました。類い稀なる才能を持つ人が、それを奪われることはどれほど恐ろしいことでしょうか。
 周囲の人も、絶望しつつ、しかし、叱咤激励しあいながら、未来を模索します。
 試練の中で複雑な心境を吐露するチェチョルさんのお母さんの言葉が印象的でした。チェチョルさんが子供の頃コンテストで優勝したことが、嫌だったと。あの時以来、チェチョルさんが気楽に、楽しげに歌わなくなったと。
 そんな言葉が、チェチョルさんに、記憶を呼びさましたのかと思いました。彼は子供の頃は教会の聖歌隊で歌っていたそうです。教会では神様が私たちの讃美の歌声を喜んでくださるので、歌う理由があります。上手に歌えれば良いでしょうけど、上手に歌うだけが教会の歌ではありません。ですから老若男女誰でも、自分らしく、神様に向かって歌うのです。
 チェチョルさんが手術した後に、最初に歌を歌うことを求められると彼が歌ったのは「輝く日を仰ぐ時」という讃美歌でした。彼が誰に聴かせるでもなく、神様に向かって歌う歌声に涙が出ました。かつてのテノール・リリコ・スピントではありませんでしたが、彼の喜び、悲しみ、感謝が伝わって来る、深い歌声を、歌心を彼は獲得したのだと確信しました。
 その後も、減ってしまった肺活量を回復するためのリハビリ、闘いと苦悩がありました。ためらいがありましたが、最後に彼はステージでアメージンググレースを歌います。「驚くばかりの恵みなりき」かつては盲目だった私は今見えるようになった、と歌う讃美歌。病気の前に見えていなかった神様の恵みが、今、チェチョルさんにははっきりと見えるようになり、そして、それを音にして私たちに届けてくださいました。
 途中で歌えなくなるチェチョルさんを、聴衆が一緒に歌って助けます。音楽とはなんとすばらしいものでしょう。歌手が歌えなければ、聴衆が歌えばいいのです。そしてもう一度チェチョルさんは真心からの感謝を込めて讃美歌を歌いきります。
 チェチョルさんの歌声は、今も、回復途上にあるということです。しかし、聞こえる歌声には、チェチョルさんが「あたらしい歌」を獲得したということがはっきりと聞こえてきます。
 人生の苦しみには意味があるということ、これをチェチョルさんは身をもって証ししてくださいました。
 詩篇119篇71節
 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 人は苦しみを意味ある体験に変えることができます。そして、人生の中で、恵みの神様に出会うことができるのです。
 映画のトレーラーはこちら。
 https://www.youtube.com/watch?v=O8D6e4fhs88

私は暁を呼びさましたい

 キリスト教会ではもちろん伝統的なキリスト教の立場に従って、旧約聖書新約聖書を読むのですが、そのためには、色々な書物を学びます。伝統的でない立場の学者の本も読むことがありますし、ユダヤ教徒やイスラム教徒がどのように聖書を理解しているかも興味深く、教えられることもあります。
 ある書物を読んでいたら、ユダヤ教にとって旧約聖書は、歴史に現れる神の記録であって、単に誰か一個人の教えではない、という言葉がありました。アブラハムしかりモーセしかり。聖書は彼らの教えではありません。神の民は預言者、聖書は神の言葉を聴き続けた人々の歴史。そのような表現もありました。
 今日学んだ詩篇108篇にも、詩人が聴いた神の約束の言葉が記されており、その約束の言葉があるから、詩人の祈りにも保証が与えられます。
 暁を呼びさましたい、という言葉は、この祈りによって、朝明けを早く見させていただきたいという願いといっても良いでしょう。そして、人は朝明けの来るのを早まらせることはできないけれど、それを願う思いを、願いを聞いてくださる神様に告げることができる、そして神様は信じる民の祈りに応えてくだっさるという信仰でもあるでしょう。
 またそれらはこれまでの歴史を通して民の祈りに応えてくださった神様がおられるから無意味でない祈りと言えるのです。
 かつて歴史に介入されご自身の栄光を現された神が、今の私たちの祈りにも応えてくださり、ご自身の真実のゆえに、正義と平和を実現してくださること、信じて祈るものとさせていただきたいものです。
 またこの詩篇は、神に拒否されている信仰者という自覚もあるから傾聴に値します。信仰者は過ちを犯さない存在ではありません。間違い、神の祝福と守りを失う存在でもあるのです。そのような時には神に立ち返り、自分の正しさではなく、神の正しさによって神の働きをなすものに、軌道修正していただかなくてはならないのです。曇りない鏡としての聖書の言葉に自分を照らして歩むものとさせていただきたいことです。

2014年10月8日水曜日

背きと赦しの繰り返し

 今日は詩篇106篇を学びました。この詩篇は105篇と同様の歴史を回顧する詩篇ですが、違いがあります。105篇は神様のすばらしさが歌われているのに対して、106篇は、民の繰り返す背きを、これでもかというように、歌い込み、織り込んでいるからです。
 しかし、それゆえに、赦す神、契約を変えない神様の真実が浮き彫りになるのです。1節「ハレルヤ。主に感謝せよ、主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」45節「主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みのゆえに彼らをあわれまれた。」新約聖書の神の義に通じる、旧約聖書の神様の真実の愛、契約の愛を覚えさせられます。神様こそほめたたえらるべきお方であることが、一層明らかになって、詩篇は第4巻を終え、最終巻、第5巻へ進んでいきます。

2014年10月6日月曜日

マルタとマリヤ

 私の大好きなピアニストに、マリア・マルタ・アルゲリッチという女性演奏家がいます。私が学生の頃には、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルと楽しげな競演を聞かせてくれていました。チャイコフスキーのコンチェルトも、素晴らしい録音がありました。マリア・マルタ、、、という名前、聖書には対照的な二人の姉妹として登場します。アルゲリッチの中では、二人の姉妹の両方の特徴がせめぎあっているのでしょうか。
 聖書に登場するマルタとマリヤは、ベタニヤという村の二人の姉妹。他にラザロという兄弟もいますが。イエス様と交わりのあった友人たちです。
 マルタはイエス様の訪問を知ると、いちはやくもてなしのために行動し始めます。ところがマリヤはイエス様のそばに座って、イエス様の語られる言葉にじっと耳を傾けている。もてなしに心奪われているマルタは、マリヤにも手伝うように言ってください、とイエス様に願うのですが、イエス様は、マリヤが、必要なこと、良い方を選んだのだとマルタに返答します。
 マルタの行動からは、彼女なりにイエス様の存在を喜び、歓迎したい、気持ちがあふれているのを汲み取ることができます。しかし、それはイエス様に対する適切な向き合い方ではありませんでした。
 私たちは、人の良かれと思って行動しているのに、空回りに終わることはないでしょうか。向き合っている人の言葉にじっくり耳を傾けず、こちらの思いで行動して、的外れなことがよくあるのです。
 それに対して、マリヤは、じっくりイエス様の言葉に耳を傾けていました。イエス様が何を望んでおられるのか、彼女は理解しようと時間をかけ、おそらくは、それを聞いてから行動したのではないかと思います。
 人と向き合う時に、その人が何を本当のところ求めているのか、じっくりと耳を傾け、理解して行動したいものです。
 また神様の御心をなすということも同じでしょう。神様の御声、聖書の言葉をじっくりと聞く、これがあってこそ、神様の御心にかなう行動ができるというものです。
 御言葉に聴きいる。そして、その神の言葉が、わたしたちの心の中で、からだの中で、息づき、行動をうながすようになる。そのような行いを持つものでありたいと思います。

2014年10月4日土曜日

変奏曲

 私たちの教会では、マナの聖書日課に従って聖書通読をしている。現在は箴言。箴言は知恵の書。興味深い訓戒の言葉の宝庫。しかし繰り返しもとても多い。なぜだろう。

 同じような言葉繰り返される。しかし、微妙な言い回しの違い。前後関係。こちらが注意を注ぐなら、巧妙なバリエーションになっていることは間違いない。

 先日、バッハのシャコンヌを聴く機会を得た。これも繰り返しの芸術。一定の和声進行が何度も繰り返されるが、それが見事なバリエーションとなって、注意深く聴くものの耳を楽しませる。

 優れた音楽家が優れていることの一つの特徴は、一つの素材を使ってどれだけのバリエーションを創作できるかということだ。そして、そのバリエーションは一つの事柄に沢山の角度から光をあてる。

 聖書を読むこともそういうことだろう。主題が沢山あるわけではない。しかし、一つの主題に色々な角度から光をあてる。日々読み進める中で、その主題が、自分の中に、血となり肉となっていく。

 ああ、もうそのことはわかった、と言って、日々、向き合うことをやめてしまうと、深みに到達することなく、終わってしまう。

 なぜ同じ話題が繰り返されているのか。それがわかるまで読み続けることだ。同じことが繰り返されている中で、何が違うのか。

2014年10月1日水曜日

聖書は自虐史観?

 本日は詩篇105篇を学んだ。「主に感謝して、御名を呼び求めよ。」との言葉で始まるこの詩篇は歴史に介入し働かれる主なる神様のみわざを覚えて感謝し、主のおきてを守れと教えるが、他の詩篇と同様に、古代イスラエルの最大救済事件出エジプトを覚える。しかし、それはモーセの時代のことのみならず、アブラハムから始まり、ヤコブの息子ヨセフの時代にも多く筆を割いている。この歴史の中には、古代イスラエルにとって苦難と思われる出来事が、幾つもあったが、全て神の民の成長のために必要な神様のご計画であったことがわかる。
 出エジプトの年代を確認しようと改めて調べてみたが、諸説ある。そして有力説について、エジプト側での文献、証言が見つからないという疑義が呈示されていることが記されていたが、興味深い発言に出会った。古代エジプトでは、国に不利な証言は残されなかったという例が多いとのこと。いつの時代も変わらないことを逆に歴史の証言不足が証拠づけていると思われた。
 こういうことと比較すると、聖書の歴史記録は真逆であることに頷かされる。北イスラエル王国、南ユダ王国の滅亡。真の神を崇めると言っている神の国の滅亡。これほどスキャンダラスなことがあるだろうか。いや、それを文に刻み、心に刻み、戒めとした人々がユダヤ教徒なのだ。
 筆者は現代のイスラエルが、聖書を遵守するユダヤ教徒とイコールでないと考えるが、歴史を生き抜くユダヤの知恵は、自らの汚点をも包み隠さず伝え学ぶ、聖書的な歴史観に支えられているものではないかと思う。それを自虐史観と呼んでもよいかもしれないが、うそを隠し、臭いものにはふたをする、そのような態度よりも、真実を伝え学ぶ態度の方が賢く、時代を生き抜く知恵を与えてくれるのは当然と思う。

2014年9月22日月曜日

彼岸花の美しい季節ですね。

 昨日のハレルヤタイムでは、サイコーサイコーを歌いました。サムエル君が最近覚えた讃美で、みんなで楽しく歌いました。
 ハレルヤタイムのメッセージは「バベルの塔」でした。世界が諸民族諸国語に分かれることになったいきさつ。とても大切なメッセージでした。人間が高慢の罪を犯さないために、世界は色々な国々、色々な言語で彩られています。私たちは、互いの違いを認め合い、謙遜にならなくてはなりません。自分と異なる人を見下すことしかできないなら、これほど愚かなことはないでしょう。
 そして、礼拝説教はルカ10章より「天に名の記されていることを」(喜びなさい。)でした。働きの成果が上がったことではなく、神様が私たちを天の御国に受け入れてくださることこそ、私たちの喜びとすべきことなのです。それは恵みによること、信仰によることなのです。
 午後は近隣の習志野台キリスト教会30周年記念の集会がありました。30年前に始まった開拓伝道の働きが今日まで守られ導かれ、この日も新しいメンバー、小さな子供たちが大勢集って、次の時代を担ってくれる。宣教は神様の働きなのだとつくづく実感させられたことでした。このリレーのバトンを、担わせていただけること、本当に感謝なことです。
 行き帰りは自転車で挑戦してみました。7キロ。帰りは成田街道を通りますと、起伏も少なく、あっというまに船橋に帰り着きました。
 秋の過ごし易い季節になりましたね。