2011年4月27日水曜日

ヨブ記35章

エリフの言葉は難しい。神の前での正しさを、これほどまでに要求することが、私たちの日常でありうるだろうかとの疑問も湧いて来る。しかしエリフは、義人ヨブの言葉の中に潜みうる過ちを指摘して、ヨブのいっそうの正しさを浮き彫りにし、また、聖書の読者であるわたしたちの祈りからも、不信仰のかなかすを取り除こうとしているように聴こえる。
ヨブの神様に対する言葉は、つぶやきなのか、不平なのか、文句なのか。そうだとしたら問題だというのがエリフの主張。そして問われるのは私たちの神を信頼する祈りだと思う。

2011年4月25日月曜日

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ

昨日は私たちの主イエス・キリストのご復活をお祝いするイースターの礼拝でした。大勢の子供たちも一緒に礼拝をささげメッセージをききました。

わたしたちのために命をささげられたイエス様、そのおかげで私たちは今、神と共に生きる事ができる、なんという力強い励ましでしょうか。人類の最後の敵である死は、イエス・キリストに敗北したのです。

昨日の聖書のテキストはヨハネの12章20−26節でした。イエス様はご自分の死と復活を予告しておられます。そしてそれだけでなく、同じような生き方に私たちをも招いておられました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、…。」

私たちの持っている命は限られた命、その使い道を正しく知らなくては、そして、一日一日を大切に生きなくてはと教えられたことでした。          

2011年4月20日水曜日

ヨブ記34章

 若者エリフの言葉は、あくまでヨブに対する問いかけであって決めつけでない。ヨブの苦しみにかすりもしなかった三人の友人たちと異なり、あくまでヨブの言葉を取り上げ、それが神に対して語り得る言葉か、その中身において不遜ではないか、との問いかけである。私たちは、エリフが正しいか正しくないかではなく、自分の信仰、祈りのあり方が問われる。つぶやくようでいて神を信じているから祈る祈り。これがヨブの言葉だったのではないかと思う。不信仰、失望につながるつぶやきではなく、神信頼に立ち、希望が強くなっていく祈りへ、エリフの厳しい言葉を通して導かれる。

2011年4月13日水曜日

ヨブ記33章

 今日の学びはヨブ記33章でした。真実を語らなかったと評価を下されている友人たちの言葉と違い、エリフの言葉は、何のフィルターもなく、私たちに突きつけられています。だから、そのまま丁寧に読むことが必要。そして丁寧に読んでいくと、エリフが年輩者を立てて長い間沈黙を守っていた若者であり、勇み足を踏むような人物でないのだということを思い知らされます。
 納得出来ないことがあるから語るけれど、自分だけが正しいとも思っていない。そして彼はヨブの言葉をよく聴いています。一般論を語ってヨブの苦しみにも悲しみにも近づくことのなかった友人たちとは大違いです。
 エリフの言っていることはヨブの問題点を確かに突いたのか?わかりません。ただ言えることは、友人たちにも確信を変えなかったヨブに厳しくも丁寧に論じ合って行くエリフの言葉は、正しい信仰の隘路へ、わたしたちを引き上げる力を持っているということです。
 信仰の道を選びとった次の瞬間、不信仰に陥るということが、私たちにはありうることだと思うのです。そしてそれは間違わない方が良い明らかなミスなのです。

2011年4月3日日曜日

よくなりたいか

 今日はヨハネの福音書5:1−29。少し長い個所でしたが、一連の出来事がつながっているので、三つのポイントを学びました。わたしたちの向き合っている現実にも適用できることが沢山ありました。1、イエス様は病いに苦しんでいる人々の中で、誰の援助も受けることができずチャンスが目の前を通り過ぎていくだけの男性を助けられました。私たちの暮らしの中でも誰からも助けてもらえない孤立している人を私たちは助けなくてはならないと思います。2、その援助を律法違反として摘発しようとするユダヤ人の問題。目の前に長年の苦しみから解放された人がいるというのに、共に喜ぶどころか自分たちの権威の拠り所となっているルールを振りかざす無慈悲な人たち。現実の問題の中で優先順位を間違わない人でありたいものです。人間にとって大切なことって何でしょう。3、聞いて、信じる者は、命を持つ、すでに永遠の命がその人のうちではじまっている。説教では聞いて信じることがどうして現実の変化につながるのかということも何の不思議もないことをお話ししました。神様のくださる最も良いものは、信仰によって確かに受け取ることができるものなのです。