2011年10月31日月曜日

一粒の麦

昨日はヨハネの福音書より、一粒の麦、地に落ちて死なずば、の言葉を学びました。イエス様は、ご自分が死ぬために進んでおられることを明らかにし、また、その道についてくるようにと語られました。自分の命を愛する者はそれを失い、憎む者はそれを得る。我が身可愛さのゆえ、正義を失ってはならないということでしょう。自分の身が切られるようなことがあっても、不利益を被るように見えることがあっても、正義を貫け、ということでしょう。誰が味方に立ってくれなくても、ただ神が報いてくださることを信じて進め。そういう生き方が今私たちに必要なことだと教えられました。

2011年10月27日木曜日

ガラテヤ人への手紙 講解

今日は定例婦人会、定例婦人会ではガラテヤ人への手紙を学んでいます。今日は福音の真理のためにペテロすら非難してやめないパウロの言葉を学びました。人を恐れて自分の心の確信とは違う行動をとるペテロの姿に、自分自身を重ねながら、しかし人の目を恐れて真実をねじまげる生き方はいけない、信念を貫くものとさせていただきたいと教えられました。明日は子育てクラスで料理教室を行います。チヂミなどの作り方を楽しく学びます。

詩篇15

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」幕屋とは神のそこにいますしるし。いわゆる聖なる場所。その場所にふさわしい人の資格を祈りの中で唱えるとは、お願いばかりしている私たちの普段の祈りとは異なります。やはりこういうことを祈りの中で思いめぐらす必要が人間にはあるのでしょう。誰が神様の祝福を受けるにふさわしい資格を持っているのですか?2節、正しく歩み、義を行い・・・。正論は自分に厳しく耳を傾けると、耳を閉じたくなりますが、しかしこのようなことが今、私たちに必要、私たちの社会に必要と教えられたことでした。「このように行う人は、決してゆるがされない。」

2011年10月23日日曜日

エルサレム入場

今日はヨハネの福音書より、イエス様のエルサレム入場の記事を学びました。群衆の期待とイエス様の本当の目的が、重なりつつもずれていたこと。私たちはイエスキリストにふさわしい期待を抱いているか、問いかけたことでした。イエス様がすでに下さっているものがかけがえのないものであることを改めて覚えていただけたなら、私たちは今日も希望を持って生きて行く確かな理由があると思います。

2011年10月19日水曜日

誰も彼も腐り果てている。

今日は詩篇14篇を学びました。前半は地上に善を行う者は一人もいないという聖書的人間観。しかし後半には神の民、正しい者の一族が登場する。聖書の表向きの矛盾をどう理解するのか。信仰者といえども罪人としては同じである謙遜を学ぶこと。この世の中のどのような悪を見ても驚くには値しないこと。その中で神を恐れ、どんな時にも正しいことを行う人となる、そのことの大切さを学びました。

2011年10月17日月曜日

ナルドの香油

昨日はヨハネの福音書12章より、ナルドの香油と題して説教をしました。なぜこのタイミングでマリヤはイエス様の足にナルドの香油を塗ったのか。ナルドの香油は死者の埋葬のために用いられるものです。マリヤは病いで死んだ愛する兄弟ラザロの埋葬のために高価なナルドの香油を購入したのではないか。ところがそのラザロが生き返ってしまった。今日も普通に暮らしている。そこへ愛するイエス様が、ラザロを生き返らせてくださったイエス様が来られた。旅人の足を洗い、迎え入れることはこの地域では普通のことです。そこでマリヤがイエス様に感謝を表明したのは、当然ありうることだったのですが、これが、神の時にかなう、彼女の思いを越えた麗しいわざとなったのでした。

2011年10月13日木曜日

本日は金の子牛

本日は家庭集会。前回、十戒を学びましたので、今日はその直後、イスラエルの民が、禁じられている偶像礼拝の罪を犯したことを学びました。アロンのリーダーシップ、神ならぬ神を求める民の過ち、その中でモーセがなしたこと、神様の忍耐、どれも現代の私たちと共通する問題でした。昼食の交わりの時にも、話題は大盛り上がり。楽しいひとときでした。

昨日は中上先生ご夫妻をお招きして

中国雲南省でのお働きの報告を聞かせていただきました。本当にすばらしい働きをなされていて今後もまた継続して行かれる事を聞いて安心しました。形が変わっても、現地の必要を細かやかに看取り、適切な活動をされていること、時代の移り変わりと、変わらないこと、色々学ばせていただきました。感謝いたします。また夜はEEの学びを進めることができました。感謝します。

2011年10月9日日曜日

本日は講壇交換

私は市川へ行き、船橋は馬込沢のY先生でした。近隣の5教会で年に2回、講壇交換を行っています。幸いな交わりが与えられています。同じ信仰の思いに立つ近隣の教会のことを本当に貴重でありがたい存在と思わされています。

2011年10月3日月曜日

ラザロ復活の後。

昨日はラザロ復活の後、ユダヤの議会がイエス殺害を共謀する箇所を学びました。「イエスをこのままにしていたらローマ軍がエルサレムを滅ぼすことになる。」この偽りの主張は、彼ら自身がイエスを自分の脅威であるということを隠して、自分たちの願望を実現するためのものでした。

この発言が非常に罪深いのは歴史が証明していることです。イエスを拒否したユダヤ人たちは、紀元70年、自らローマ帝国に反旗を翻して、エルサレム滅亡、ユダヤ人離散という歴史の憂き目を見る事になるからです。

神の国は地上の王国ではないと主張するイエスキリストを真の王として迎え入れていたら、エルサレムはどれほど繁栄していたことでしょうか。それは言葉の上では矛盾を孕んでいますが、真理なのだと思います。自分のことしか考えない指導者は、多くの民を滅亡に招く、非常に教訓に富んだ聖書の言葉でした。