2014年2月19日水曜日

詩篇 第三巻 アサフの賛歌

 今日は詩篇73篇、アサフの賛歌を学びました。旧約聖書、詩篇は全部で150篇、五巻に分かれた書物ですが、その第三巻の最初の詩篇です。ここから83篇まで、アサフの名が冠せられた詩篇が続きますが、アサフは、ダビデの時代に神殿礼拝の歌の担い手となったレビ人。ソロモンの神殿奉献礼拝でも役割を果たし、また南ユダ王国滅亡の後の神殿再建、エルサレム帰還の時には、100人を超えるアサフ族として帰還、かつての役職をりっぱに果たしたことでした。神に用いられ祝された家系といえるでしょう。その詩篇も独特な印象を残す優れた詩篇となっています。才能豊かな詩人、音楽家。しかし73篇のテーマは人間の現実生活を見据えた神義論が展開されている哲学、神学となっています。善人が苦しみ、悪人が栄えるのはなぜか。1節は、信仰者の間で常識となっている「神はきよい人にいつくしみ深い」という大前提。しかし2節以降、そうでない、悪人の栄える姿が訴えられ、詩人は妬みで悶々とする。
 世に不条理があっても正しい神はおられる、と、初めから達観することが信仰の世界でないことを、この詩篇は物語っています。信仰者でも悶々とする。正しい神がおられると信じるからこそ、世の不公平はなぜと納得出来ない。事実、私たちは、罪のないものが悲惨に出会い、悪人が罰も受けずのうのうと暮らしているのを見て、神の存在や、そのなさることに疑問を抱く。
 13節以降は、神殿奉仕者、宗教家としてまじめに義務を果たしてきた自分のことを歌っているのでしょう。神の前に至らない自分を覚えつつ、淡々とした日々を過ごしている、これが何になるのか。しかし17節、礼拝の深い経験の中で、彼は人生のもう少し先を見たのでした。
 今は私の足場の方がぐらついているかもしれない。(2節)しかし、やはり最後には悪人こそ滅びに突き落とされるのだ。確信がよみがえってきました。
 しかしこの後が重要です。詩人は悪人の末路を思ってほくそ笑むのではありません。むしろ悶え苦しんだ自分の信仰を顧みます。それは22節「愚かな獣のよう」だった。目に見えない神を信じる人間の尊厳を失い、見えることばかりに心奪われて信仰を働かすことのできなかった自分。ただし、信仰を手放さず祈り続けた詩人は、自分が神を手放さないのではなく、わたしをつかまえて放さない神の御手を、祈りのうちに感じ取りました。聞いておられる神が、わたしを手放さない。これが祈りです。
 やがて地上を去る私たちは、そのとき天に迎え入れられるか、永遠のさばきを受けるか、そういう存在なのだ。ならば、永遠のいのちの約束をいただいているわたしこそ、どんなときにも平安と確信を持つ事ができる。たとえ悪が栄えているように見えても。この世の最後に、悪者が、幸せそうに地上を去るように見えても、本当の平安はない。
 神ご自身を相続出来る信仰者は、この希望のゆえに、地上においても満ち足りた日々を送る事ができる幸いな者なのです。

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