2014年7月14日月曜日

興味を抱く

 主日礼拝説教2014年7月13日(日)「興味を抱く」

天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。すぐる週は、台風の接近に伴い、各地で大雨が降り、死者も出ました。悲しみのうちにある方々、困難に遭遇した方々にあなたの慰めと助けがありますように。しかし、また、台風の後には、美しい虹が空にかけられていました。あなたがこの地上を今も滅ぼすことなく保っておられます恵み深さを感謝いたします。どうぞ生かされてある限り、あなたの御心をわきまえ、地上であなたの御旨を果たすものとさせてください。私たちは今日もあなたの御言葉を求めます。聖書の言葉を通して、私たちの務めを教えてくださいますように。また喜んで従う心を私たちのうちにお造りくださいますように、救い主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。アーメン。

 私たちは、これまでに、イエス様のガリラヤ湖周辺での宣教活動の記録を学んで来ました。ゲラサの地では墓場に住んでいた男を救われ、また、その後には、長血を患っていた女性を救われ、会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせました。

 人々を悪霊から解放し、病いから救い出し、実に、死からも生き返らせる、神の御子、救い主としての姿を、見せられたのですが、

 今日、9章を読むにあたっては、9章の51節のことば、「天に上げられる日が近づいて来たころ」という時の理解が必要です。イエス様が、奇蹟を行って、ご自身の神の御子であられることを明らかにすることは必要なことでしたが、しかし、これがイエス様の全てではありませんでした。

 イエス様は、すべての人の罪の贖いのために、十字架で死に、よみがえるために地上に来られました。そして、その後の教会形成と宣教のわざは、12人の弟子たちを土台として、残された人々に委ねられなければなりませんでした。それで、イエス様は、ガリラヤ宣教の終わりの頃に、弟子たちに必要な訓練を施されたのです。

 1節の、十二人を呼び集めて、という言葉は、彼らが、世間の生活を全て捨てていなかったことを告げています。イエス様や他の弟子たちとともに行動することもあった。しかし、自分の生活の場に戻ることもあった。そのような12弟子が、改めて招集されたのです。それは、イエス様が十字架に架かられる前に、必要な訓練を受けるためでした。そして、この1、2節から学ばなければならないことは、12弟子が何を目的として、どんな力をいただいたか、ということです。神の国を宣べ伝えるため、病気を直すため、。言い換えるなら、これは、人間の心の必要と体の必要を満たすためと言って良いでしょう。

 イエス様は、人間のたましい、心の必要を満たすものを持っておられました。その力を、12弟子にも、分け与えられたのです。また、イエス様は人間の体の必要を満たす力をも持っておられました。それを12弟子に分け与えられたのです。

 歴史上、キリスト教会が、単に教えを教える宗教であるだけでなく、教育、福祉、医療においても、世の中に小さからぬ貢献をしてきたのは、このガリラヤ宣教の終わりの頃の十二弟子の派遣に、働きの源をみることができるものです。

 日本の国ではクリスチャンは人口比1%にも満たない少数者です。しかし、キリシタン禁制の解かれた明治時代以降、社会の様々な場面における重要な貢献は、クリスチャンによってなされていることが、今日も日々、明らかにされて、驚くばかりです。会津出身の新島八重らは、看護婦のさきがけとなったと言われています。それまで日本の国では、傷つき倒れた病人を相手に、仕事をするような看護婦は、卑怯な商売だとみなされていたそうです。看護婦の仕事の尊さを知らなければ、これに献身する人もあらわれないし、支えられないのです。そして、そのためには、キリストの愛を知った人々の働きが必要だったということです。

 また様々なキリスト教の社会貢献を、厳しく批判したとしても、キリスト教が、日本の女子の教育に与えた貢献だけは、否定することができないと、言われています。いまだに女性に対する蔑みの言葉が後をたたない日本ですが、男女の平等を正しく認めた聖書のことば、神様の御前にある平等な人間ということを、どこまでもしっかりと学び、また主張して行かなければならないと覚えさせられます。

 イエス様は、人の心を満たし、からだの必要も満たす働きを弟子たちに委ねられた。私たちは、真心から、人の心の求めに答え、目に見える必要にも答える奉仕をなしてゆきたいものです。

 そして、この尊い奉仕について、イエス様は、驚くべき心がけを教えられたのでした。

 日常的なことではありません。たとえて言うならば、オリンピックの短距離走者が、いざ、ピストルの音を聴いて、スタートする瞬間に、ただ走ることだけに集中する、そういう時のことです。弟子たちが、人の心の渇きにこたえ、身体の必要にこたえる、もっとも大切な働きをするときに、余分なものを切り捨てる、余計な心配事に心を奪われず、大切な働きに集中すべきということを教えているのです。クリスチャンは下着を二枚もっちゃいけない、そう言っているわけではないのです。自分の目の前に、イエスキリストの救いを必要としている人があらわれた時に、他のことを気にして、大切なその人のたましいの救いのことをないがしろにしてはならない、そういうことなのです。また、その時に、必要なものは神様が与えてくださる、神様に対する信頼を根底においていることも、イエス様は教えているのです。誰かを助けようとするとき、それがわたしのすべきことなら、神様は、必要を備えてくださる。

 4節には、具体的な知恵も記されていました。一つの町に遣わされたなら、あなたの働きを理解して、支えようとする人が必ずあらわれるでしょう。多くの人の支援を受ける必要はないのです。あなたを理解したその人から支援を受け、その人が支援出来る限り、その町で働きなさい、という、極めて具体的な助言なのです。その人が支援できなくなったら、と気をもむのではなく、それがその町での働きの終わりであると。今日でも多くの宣教師が文字通りそのままでなくても、その中身においては、イエス様の派遣の言葉の通りに、支えられる人々によって、一人一人のたましいを救いに導き、そして、次の町へまた派遣されているのです。私たちは、誰もがそのような仕事に派遣されているわけではありませんが、働き人を支える働きも、直接、人のたましいに関わる働きとともに、ともに重要な働きとなっているわけです。それで私たちは海外宣教に出かける宣教師を支援し、また国内で開拓伝道に励む働き人を、可能な限り支援し続けるわけです。私たちは、献金をささげなくとも、まず祈りに覚えていく、それが大切なことではないでしょうか。

 5節の言葉は、まずユダヤ人に伝道すべきであった弟子たちの状況を背景に理解する必要があります。神の民、ユダヤ人は、メシヤを待ち望んでいる人々でした。その人々に救い主イエス・キリストの到来、神の国の到来を知らせたというのに、受け入れなかったということは、日本人にイエス様のことを伝えたのに、信じなかったということとわけが違います。

 足のちりを払い落としなさい。これは、異邦人と関わったあとには、汚れを洗い清めなければならないというユダヤの律法に関わる教えでした。つまり、イエス様を待ち望むべき人々がイエス様を受け入れない場合は、彼らを異邦人と等しく見なしなさいということなのです。

 日本の場合は、イエス様のことを伝えるにしても、多くの人が聖書のことをよく知らない人々ですので、大変、困難であるということは、ある意味、当然のことなのです。少々のことで、驚いてはならないですし、諦める必要もないのです。

 汚れを絶つということは、ミイラ取りがミイラにならないように、と言い換えても、良いでしょう。日本の国に住んでいれば、神を知らない他の日本人と同じようにしていた方が、楽だし、居心地がよい、ということがあるでしょう。しかし、神を知り、キリストを知ったがゆえに、ゆずれない生き方が出て来るのです。空気を読んで、右から左へ、左から右へと流される生き方から変えられて、揺るがない神様を中心として、イエス様を中心として生きる、そういう人が、実は今の日本の社会に必要とされているのではないでしょうか。足のちりを払い落とすとは、そのような意味で、流されるままの世の生活から、自分を清く保つ、自分を神に従うものとする、そのような意味と言ってよいでしょう。

 イエス様は、十字架に架かられる前に、まず、選ばれた12人の弟子に、必要な訓練を施されたのでした。

 そして、今日、もう一つの話し。興味を抱く、というタイトルは、国主へロデがイエス様に興味を抱いたということから名付けたメッセージのタイトルです。

 聖書には、同じ人が違う名前で出て来るし、同じ名前で違う人が出て来るので分かりにくいのですが、

 一人は、イエス様の誕生の頃、子ども殺しをしたヘロデ大王。彼は、偉大な建築家としても世界史の中で知られるヘロデですが、イエス様30歳の頃にはすでに亡くなっていました。紀元4年に死んでいますので、救い主を殺そうとした時はすでに彼の晩年だったということがわかります。今日登場するヘロデはその息子の国主へロデと呼ばれます。国主というのはガリラヤ地方の国主であって、ユダヤの王とはみなされなかったということです。三人目は使徒の働きに登場するヘロデアグリッパ1世ですが、今日は触れずにおきましょう。

 国主へロデは、他の福音書にも登場します。彼の妻ヘロデヤがバプテスマのヨハネの処刑を命じたことで有名です。オスカー・ワイルドの戯曲、サロメの元となった聖書の話しです。それはヘロデの妻ヘロデヤが、ヘロデの兄弟の妻であったのを、兄弟の妻を奪ったという姦淫の罪を、バプテスマのヨハネが非難したことから、ヘロデヤは、ヨハネのことをいまいましく思い、夫以上に、ヨハネのことを憎んだのでした。

 7節からの記述は、この国主へロデが、バプテスマのヨハネの死の場面に立ち会っていたということからくる行動です。そのことは、マルコの福音書6章のみに記されています。そこを見ると、ヘロデは、ヨハネに対しても興味を抱いていた様子が記されています。彼は自分を非難するヨハネに怒りを燃やすよりも、むしろ真実を語る彼の言葉に惹かれていたのでした。それゆえに、イエス様に対しても興味を抱いたのでした。

 人々のうわさの第一は、重要な誤解を示しています。

 「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」

 神の民イスラエルの中には、来るべき救い主は、死を克服してよみがえるお方であるという信仰がありました。それゆえ、人々が偉大な預言者と認めたヨハネが、よみがえって、イエスとして現れた、そういう間違った解釈が生まれたということです。そして、この言葉が、ヨハネに興味を持ち、しかし、ヨハネの死に立ち会ったヘロデを、当惑させた、動揺させた、そして、イエス様に興味を抱かせたということなのです。

 二つ目と三つ目のうわさは、さほど重要ではないでしょう。イスラエルの人々は、偉大な神の人があらわれる度に、エリヤの再来、昔の預言者の再来とうわさしたのです。バプテスマのヨハネのときもそうでしたし、そして、イエス様に対してもそうだったということです。

 ヘロデは、しかし、第一のうわさに、もっとも興味を惹かれていました。自分が殺したヨハネがよみがえったなら、それは、真の救い主かもしれない。イエスに会ってみたい。

 ヘロデの考えは少し間違っていて、しかし、ある部分あたっていたのでした。

 バプテスマのヨハネはよみがえっておらず、しかし、ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、ご自身がよみがえられた真の神の御子、救い主キリストであることを示されたからです。

 この記事は、ルカの福音書におけるイエス様の復活の伏線になっているともいえるでしょう。ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、イエス様ご自身がよみがえられて、救い主であることを示された。

 しかし、今日は、国主へロデの末路について伝えるにとどめたいと思います。それは歴史家ヨセフスの伝える所によるものですが、ヘロデが姦淫の罪を犯して娶ったヘロデヤは、夫に、ローマの皇帝に王位を求めるようにと勧めたのでした。パレスチナの田舎、ガリラヤの国主の地位に甘んずるのではなく、父のようなユダヤの王になれという勧めでした。ところが、妻の勧めに従って、王位を求めたヘロデを、時の皇帝カリグラは、危険視して、紀元39年、ヘロデの国主の地位を剥奪し、ガリアへ追放、ヘロデは、妻とともに、流刑地ヒスパニアで最期を遂げることとなったのでした。

 イエス様に興味を抱きながら、自分の罪を悔い改めて清算することがなかったヘロデは、結局、姦淫の罪のゆえに、妻の言う所に従って、自分の身に滅びを招くことになったといってよいでしょう。興味を抱いても、イエス様に出会って自分の生き方を変えるのでなければ、何の意味もないということです。

 イエス様に興味を抱いたなら、聖書をひもとき、真実のイエス様に出会うことです。そして、この方が神の御子、神ご自身であられる方、救い主キリストであることを知り、信じ、自分の生き方を変える、それが神様の祝福を受ける道です。

 この方を知って信じた、尊い恵みにあずかったことを心から感謝しましょう。

 先週は、東京基督教大学の夏期卒業式が行われましたが、そこで語られたメッセージに改めて教えられました。私たちが信じる者とされたのは、神様の選びによることであって、謙遜になるべきだとのこと。なぜなら、それは神様が、私たちにイエス様の救い主キリストであることを啓示されたのであって、それは何ら誇るべきことではないから、ということでした。

 私たちが人よりも賢かったので、イエス様の救い主であることがわかったということではないのだということです。神様が、イエス様を、わたしに啓示してくださった、それは神様によることなのです。

 恵みによって私たちをこの信仰に導いてくださった神様に、ただただ感謝するより他ありません。そして、私たちがイエス・キリストを宣べ伝える時にも、神様がその人にイエス・キリストを啓示してくださるのでなければ、人は信仰に導かれないのですから、祈りつつ、この人にもイエス様を明らかにしてくださいと私たちは、証しするだけのものなのです。

 人が容易にイエス様を信じなかったとしても失望し、諦める必要はありません。悟りは、神様が与えてくださるものなのです。祈りつつ、あかしのわざに励むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。


天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。あなたの御子イエス様は、地上の生涯を終える前に、弟子たちに必要な訓練を施し、人のたましいを救いに導き、また人々のあらゆる必要に答える務めを教会に委ねられました。私たちは小さな群れですが、どうぞその働きを、力の限り担えますように、あなたの導きと助けを今日も与えてください。そして、イエス様に興味を抱きつつ、生き方を変えることのなかったヘロデのようになってしまわないように、あなたの恵みによって、私たちをあなたの御心にかなうものと、日々変えてくださいますように。また私たちが祈りつつ、イエス様のことを証し、あなたの恵みによってキリストを知る人と出会えますように、死を克服しよみがえり、救い主であることを示された、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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