2014年1月27日月曜日

人はパンだけで生きるのではない

 昨日はルカの福音書4章からイエス様の荒野の試みについて学びました。「人はパンだけで生きるのではない。」ルカは、一番目の悪魔の試みに、このように返答したイエス様の言葉を記します。マタイの福音書は、これに続く言葉を記しています。「神の口から出る一つ一つのことばによる」。なぜルカは大切な後半の言葉を省略したのでしょう。一つ言える事は、「人はパンだけで生きるのではない」と言われると、それでは他に何によって生きるのか、との問いが、読者に生まれてくるということです。これは大切なことではないか。
 そしてイエス様の引用した申命記を開いてみますと、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」イスラエルの民に、肉の糧であるマナを与えたことは、このためであったと教えられているのです。
 「人は主の口から出るすべてのもので生きる。」そのことを知るため。
 40日間の断食を終えようとしているとき、真の人であるイエス様は、どれほどの空腹を覚えておられたことでした。私たちと変わらない、食べなければお腹の空くイエス様です。そして目の前にパンがあったなら、それはその時のイエス様の欲する何よりのものであったことでしょう。
 しかし、目に見えるパンを欲しがって、大切なことを忘れてしまわないように、人間が生きる上で大切なのは、むしろ目の前のそれを与えてくださるお方が背後におられるということを知る事。
 そしてルカは、後半の言葉を省略することによって、私たちを考えさせる。何かによってではなく、神からくるすべてによって生きるのだと。すべてのものは神から来るのだと、そういうことに思いを至らせようとしたのではないか、そんなことを考えさせられるのです。

2014年1月15日水曜日

事を行われた神よ。

 御力を示してください。

 詩篇68篇は「歌」と題された詩篇の最後。これまでの3篇と比較して少々長大、断片の連続が理解を難しくしていますが、神殿建設の準備をしようとするダビデが、イスラエルの歴史を懐古して幾つかの場面に焦点を当てていると考えると、状況を想像しやすいかもしれません。
 1〜4節は紅海を渡る直前のモーセ、イスラエルの祈りに始まり、勝利の喜びの時が来る。5〜10節は荒野の旅路から約束の地での定住まで。主が先立ち行かれ、彼らは安息を得ます。11〜18節は周囲を平定してイスラエルが繁栄に向かう様。
 しかし重要なのは、民の苦労、指導者の尽力がたたえられるのではなく、19節「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷を担われる主。私たちの救いであられる神。」と、重荷を担われたのは主なる神であると覚えられていることです。
 映画「ロード・オブ・ザ・リング」で最後、疲労困憊した主人フロドを背負う僕サム・ギャムジーの姿が思い浮かびます。指輪物語の主人公はこの指輪の主、フロドと旅の苦難を共にしたサム・ギャムジーであったと言われたりします。
 そして詩人は今日も祈るのです。神様がここまでを導いてくださったから、今日の必要をも導いてくださいと神様に祈る。
 28節「神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行われた神よ。御力を示してください。」
 この詩篇も最後は神を讃えて祈りを閉じます。
 35節「神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民に御与えになる方です。ほむべきかな。神。」イスラエルではなく神がほめられるべき、それが間違ってはならない大切なことです。

2014年1月8日水曜日

祝福を求める祈り

 今日は詩篇67篇、祝福を求める祈りについて学びました。キリスト教はご利益信仰か?神様の祝福を求める祈りがあるということでは、利益を求めても良いということになるでしょう。しかし、そこには留意すべき幾つかのことがあります。
 詩篇67篇は、私たちをあわれみ、祝福し、と常に人称が複数となっています。私ではなく私たちです。私だけが祝福されれば良いのでない、皆が共に祝福されるように、それが詩篇67篇の祈りです。
 そしてそこには目的がありました。2節、あなたの道が、あなたの御救いが知られるため。3節、国々の民があなたをほめたたえますように。4節、喜び歌いますように。7節、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
 つまり信じて祈る民に応えて神の祝福があらわされ、この神様はすばらしいということがすべての人に明らかになるように、神が崇められ、神が畏れ敬われるようになる、この目的に通じていることが必要でした。
 すべては神の栄光が現されるように、その中に、私たちの祈りがきかれるということの目的が位置づけられるのです。自己中心でなく、神中心の祈りでした。
 新しい年、私だけの祝福を求めるのでなく、みなが神様の祝福にあずかることを求めて祈りつつ歩んでいきたいものです。そして、私たちの祈りに応えてくださる神様の御名が、至る所で、崇められますように!

2014年1月6日月曜日

少年イエス

昨日はルカの福音書2章の最後の部分、12歳の少年イエスについて学びました。12歳はイスラエル男子の成人一年前。イエス様は翌年の過越の祭りへの参加のための予習として、エルサレムを訪れたとのことでした。この頃には成人男性の義務を、女性も行う慣習になっていたようで、母マリヤもそこにいました。
そこでイエス様はエルサレム神殿にいる大人たちを驚愕させる知恵を披露します。知恵とはギリシャ語でソフィア。今日、哲学とも訳される、生き方に関する知恵です。
さらに母マリヤの言葉に返答してイエス様は、エルサレムの神殿のことを「自分の父の家」と呼んだのでした。エルサレムの神殿は、天の父なる神様の家。ですからイエス様は天の父なる神様をご自分の父と呼んだことになります。
神の民は神の子ですからイエス様は特別なことを言ったのではないという解釈も成り立つでしょうが、しかし、ここは特別なことを言ったと理解すべきでしょう。イエス様は、ご自分を、神の一人子と言ったのです。その意味は、この時、両親に悟られなかった、と福音書が述べているからです。
この箇所の少年イエス様の姿は、少年であるにも関わらず語られた知恵、両親の理解出来ない神の子としてイエス様を告げているので、いささかイエス様、高慢ではないですか、と感じられる方もいるでしょう。
しかし、福音書は神の子であるイエス様が、同時に、この後、大人になって人々の前で宣教の働きを始められるまで、謙遜に両親に仕える若き日を過ごしたと伝えているのです。そして、イエス様の青年時代の姿は、聖書に一切記されていない。確かにイエス様はただの大工の息子として、その姿をしばらくお隠しになられたのです。
「能ある鷹は爪を隠す」という言葉がありますが、真に知恵深いイエス様は、ご自身の知恵、力を発揮すべき時もわきまえて、へりくだることをも知っておられる神の一人子であったということです。
この方がやがてすべての人のためにご自分の命を十字架でささげてくださったのでした。