2013年8月14日水曜日

神の民こそさばかれる

今日は詩篇50篇を学びました。

1節、神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。6節には、天は神の義を告げ知らせるとあり、まことに神こそは審判者であるとあります。詩篇50篇のテーマは「神の審判」。人間を取り囲む、地と天が証人となって、その人の生き様を陳述するのですが、さばかれるのは誰か。

4節、神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せる。

神を崇めないものがさばかれるのではありません。神の民こそがさばかれる、信じていると言っている者が、神を礼拝していると言っている者が、その偽善をさばかれるというのです。

それゆえ偽善的な宗教行為ではなく、14節、真心からの感謝、神に対する誓いを果たす実践を伴った行動、そして、15節、神に対する信頼、これこそが必要だと読者を教えるのです。

いけにえをささげるということは旧約時代、神の民にとって重要な礼拝でした。しかし、それが真心からの感謝を伴ってささげられなければ、そして、神を礼拝して神の言葉に従う生活がなければ、責められさばかれる偽善に陥る危険性があったのです。

16節以降で批判される悪者も、主のおきてを語り、主の契約を口にのせる、見かけは神の民でした。ところが実質は聖書の命令を憎んでいる。それを投げ捨てて拾おうともしない。

最大の悪は、神を自分と等しい者だと思っている。創世記3章、人間の最初の罪も神のごとくなろうとする罪でした。自由を与えてくださった神様からのたった一つの戒めを破る、これによって創造主なる神、被造物なる人間のあるべき秩序を人は自ら破ったのです。

詩篇の表題にはアサフという名前があります。ダビデ時代の神殿礼拝、楽器演奏を担った人物であり、彼が手にしていたのはシンバルでした。シンバルは音楽の決定的な場面を演出する楽器です。神のさばきも、のべつまくなし表されるのではなく、神様は人間の歩みを忍耐深く見守っておられる。しかしその時代は永遠につづくものでなく、審判の時が来るのです。時代の流れにもクライマックスがあるのです。

聖書の言葉が真実であったことは歴史が証明しています。古代イスラエル王国は、神への反逆によって南北に分裂し、そのどちらもが帝国によって滅亡させられます。イエスの時代も、イエスの死後、ユダヤ戦争の時に、壊滅的に滅亡させられました。神の言葉に従わない、中身のない信仰は、滅びにつながったことを神の民イスラエルは身をもって証明したのでした。

すべてのことが明らかにされ、神の審判にさらされるとき、神の救いを見るものとさせていただきたいのですが、聖書を読むわたしこそまずその座に立たせられるということを覚えて歩みたいものです。

2013年8月7日水曜日

恐れ

どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。

今日は詩篇49篇を学びました。詩篇の詩人は「恐れなければならないのか」と問いかけているようでいて、かなりの恐れを覚えているようです。わざわいに会っており、また彼のことを悪意をもって中傷しようとする人がいる。しかも彼らの方が財産や富を誇りにして、不幸な私をあざけっているようにみえる。

動揺することです。そんな現実の中に身をおいてしまったならば。しかし詩人は言葉を紡ぎ続けます。神のくださる教訓に耳を傾けるのです。

12節「しかし人は栄華のうちにとどまれない。」

15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」

20節「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」

移ろい行くものに心奪われ、不安にさいなまれるものではなく、「悟り」を得て、恐れないものとされたいと願わされました。

2013年8月1日木曜日

大王の都

昨日は詩篇48篇を学びました。ソロモンの神殿が存在していた時の情景、しかし讃うべきは宮ではなく、そこにいます神。2節に不思議な言葉が登場します。北の端なるシオンの山は大王の都。古代オリエントの神話では、神々が北の山に住まうという、その神話を逆手にとって、天地万物の創造主なる唯一の神が住むシオンこそ、その「北の山」なのだ、神々ではなく、諸王でもなく、全宇宙に唯一の「大王の都」なのだと歌うのです。
しかし今やエルサレムの都はかつての姿を失っています。ユダヤの民はこの詩篇と現状を見比べた時に何を思うのでしょう。
イエスを信じる者には、マタイの6章の言葉が響いてきます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」神が装わせた野の百合の方が美しいと。まして人間は野の草よりも神に愛されていると。
またパウロは言います。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていると。
他ならぬわたしが神の霊を宿す事のできる尊い存在であること、忘れずに生きるものとさせていただきましょう。