2013年6月27日木曜日

あなたの光とまこと、それらが私を連れて行きますように。

詩篇43篇は詩篇42篇と同じ結びの句を持っていますので、関連性を指摘する学者もいますが、内容には異なる側面もあります。1節、神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。とあるように、詩人は不当な扱いを受けて苦しみ、そこからの助けを神に祈り求めています。私たちの向き合う世界の現実は、天地創造の時の麗しい世界ではなく、人間が罪を犯した後の堕落した世界、そこには不公平、不公正もはびこっている、そういうものと私たちは向き合わなくてはならないということを教えられます。その時に、だから正義の神はいないのだ、信仰なんてもっても無意味なのだという無神論に陥らないように、不条理を見ても、不条理の中でも、やがて正義の神が真実をあらわしてくださるということを信じる信仰の中に自分を保つために、詩篇43篇のような祈りを祈り続ける必要があるのです。この詩篇を自分の祈りとして祈る人は、信仰の中に自分を保つのです。2節、あなたは私の力の神。詩人は神との関係性の中で神に祈ります。神は特別な意味で「私の神」なのです。先日の主日説教でも神が契約のゆえにイスラエルを救われるとの言葉を学びました。詩人もこの神を私の神とした、自分を神の民とした、その契約に基づいて神の応えを求めているのです。信じると約束したその約束は祈りの答えを確かにするものです。しかし、神様が自分を拒んでいるように感じられる、私は敵の辱めを受けている、このことをどう理解したらよいか。契約は破棄されていません。祈り求めれば良いのです。何を求めるか。3節、この時の詩人も公の礼拝、都エルサレムの神殿での礼拝から遠ざけられている状況にありました。しかし、神様が光とまことを送り、詩人をエルサレムへ連れ帰ってくれるように、願ったのです。回復の時を祈りのうちに思い描くことも私たちの忍耐の助けになります。4節、かつての神殿礼拝を思い起こしながら、未来を思い描いて詩人はがっくりときている自分の心をを叱咤激励したのでした。
5節「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
   なぜ、私の前で思い乱れているのか。
   神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
   私の顔の救い。私の神を。」
神様はやがて顔と顔を合わせて相まみえるように、親密な交わりを回復してくださる、そのことを信じて詩人は祈りを終えたのでした。

2013年6月20日木曜日

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように

昨日は詩篇42篇を学びました。この詩篇は何らかのかたちで公の礼拝に出る事が妨げられている信仰者の神との交わりへの渇望を謳った詩篇です。神の御前に出ることができない、人からの罵りがある。しかし、彼は信仰を弱らせるのではなく、かつての礼拝の喜びを思い出して、自分のたましいを叱咤激励するのです。6節から、詩人の訴えは、一層、激しさを増し、神からの隔たりを、ヘルモンの地になぞらえ、雪解けの濁流が、自分を飲み尽くそうとしている、今の試練に押し流されそうな自分を、神に訴えるのでした。8節のみがこの暗闇の詩篇に一筋の光明を投げかけています。「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。」思い起こせば、昔も今も、主の恵みを数えることができる。恵みを数えれば、感謝の歌が生まれて来る。しかしだからこそ今の不自由を詩人は神に訴えずにはおれないのです。9節、10節で心情の吐露は最も深い地点に到達します。敵の罵りは「私の骨々が打ち砕かれるほど」身体の奥まで痛みが到達するほどの痛みを彼にもたらすものでした。しかし、心情の吐露は、祈りの終焉を導きます。ほぼ5節に等しい自分のたましいへのよびかけが繰り返され、祈りは終わっていきます。ただし5節の結びは「御顔の救いを。」となっていたものが、11節の結びでは「私の顔の救い、私の神を。」となっています。神が御顔を見せて救ってくださる。この神が御顔を見せてくださる時、私の顔と、顔を相まみえさせて、親密な交わりを回復して下さる、これが詩人の待望した救いでした。旧約聖書において、モーセは神との親密な交わりを持ったと言われています。新約聖書において、主イエス・キリストの来臨の時には、私たちは顔と顔を合わせてまみえると言われています。信じる者と親密な交わりを持ってくださるキリスト、この方にやがてお会いする日が来る事を待望して、今日を生きるものとさせていただきましょう。

2013年6月12日水曜日

ソロモンの堕落

本日は列王記第一の11章より、ソロモンの堕落を学びました。700人の王妃としての妻と300人のそばめがいた。彼の生活はどんなものだったのか、想像もつきません。この時代、王が政略結婚をし、外国との和平を講じることはありうることであったと言い訳ができるかもしれません。そして年を取るまでは、大勢の妻達のいいなりになることもなく、その知恵によって切り盛りしていたのかもしれません。しかしソロモンのように知恵深い人であっても、晩年、彼の信仰は、堕落してしまいました。妻達に誘われて、異教の神々を礼拝するようになったと聖書は語ります。シドン人の神アシュタロテは、バアルの妻で多産と快楽の神。その神殿には神殿娼婦がいたといいます。そういう宗教に関わったということは、ソロモン自身そういう行動に身を委ねたということでしょう。またミルコム、ケモシュはいずれも人身供具を要求する戦の神。戦いに勝利するために子どもを生け贄としてささげる忌まわしい宗教でした。そういう神々に従ったということは、そういう考え方を肯定したということ。およそ神に喜ばれることとはほど遠い晩年でした。そして主はソロモンを戒めるために、彼に二度も現れたと言います。それなのにソロモンの悔い改めは一切記されていません。罪は犯したけれども即座に否を認め悔い改め罰を受けた彼の父ダビデとは大違いでした。ソロモンの罪ゆえ、栄えたイスラエル王国は、今後、分裂の憂き目を見ることになったのです。南からはエドム人ハダデが、北からはエリヤダの子レゾンが、イスラエルに敵対する勢力となり、ついにネバテの子ヤロブアムも登場し、ソロモンの死後、蜂起することになります。

2013年6月5日水曜日

シェバの女王

本日は列王記第一10章より、シェバの女王のソロモン訪問を学びました。神殿を建設し、王宮を建設し、町々を建設し、さらに外交、交易も祝福されて、イスラエルの歴史は空前絶後の繁栄に到達します。この記録の中で、1節「主の名に関連して」シェバの女王はソロモンに関心を抱いたこと。9節「主がイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。」と評価していること、24節「神が彼の心に授けられた知恵」を人々は聞きたがったことなどが注目に値します。並外れた知恵を持ち、並外れた富を所有し得たソロモンも、その祝福の源は、神と共に歩んでこそであったと聖書は伝えているのです。その証拠に、列王記は次の章で、偽りの神々によって真の神から離れてしまったソロモンには、さばきの宣告がくだされるのです。目に見えぬ神の御心に従ってこそ祝福がある。私達の今日の歩みは、天におられる真の神のみこころにかなう歩みなのでしょうか。問われるところです。