2012年4月25日水曜日

善悪を思いめぐらすこと

今日は詩篇36篇を学びました。悪人の生き方について、善人の生き方について思い巡らされています。祈りの中には、このようなことを思い巡らすことも含まれているのだと教えられました。私たち日本人は善悪についてどこで学ぶのでしょう。牧師は小学生の頃、道徳という授業があったのを思い出しました。メンバーの方々は、そんなものすらない時代だった、などなど、色々教えていただきました。また詩篇36篇はジュネーブ詩篇歌のメロディーが有名ですので、これも歌ってみました。詩篇全節にわたって音楽のつけられた讃美歌は、やはり歌いごたえのある重厚なものでした。

2012年4月23日月曜日

派遣の時

昨日は復活のイエス様が弟子たちを再派遣する言葉を学び、また見ずには信じれないと言ったトマスが、見て信じたこと、しかし、見ずに信じる者は幸いと言われたイエス様の言葉を学びました。午後は墓前礼拝が予定されていましたが、雨が降ってきたために中止となりました。5月第三週に延期の予定です。

2012年4月18日水曜日

彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。

今日は詩篇35篇を学びました。本筋とは異なるのですが、詩人の祈りの美しい姿が描かれています。「彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。」詩人は友人の病に苦しむ姿を、おのれの苦しみ、悲しみとして、癒されるよう祈ったのでしょう。断食してたましいを悩ませ、とも言っています。親しい友が苦しんでいるのに、のうのうと食事などしておれないという、友として共感なのでしょう。私の祈りは私の胸を行き来していた。母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。結局は、これほどまでに祈っていた友が、今、自分を裏切っている、そのことの方が、祈りの主題なのですが、しかし、友の苦しみの時に、共に苦しもうとする、共に悲しもうとする詩人の生き方に胸を打たれる思いでした。

2012年4月16日月曜日

名前を呼ぶイエス

昨日は復活のイエス様にお会いしたマグダラのマリヤの箇所を学びました。名前を呼ばれるまでイエス様の存在に気づかないマリヤ。信仰とは人間の心の中に湧き上がるものですが、神様がおられるのでなければ、イエス様がよみがえられたのでなければ、与えられなかったものなのですね。そして天に昇られるイエス様は、あの世の希望であるだけでなく、この世での使命も教えられるお方と覚えました。また礼拝の中で先週に続いて洗礼式が行われたことも、ますますの喜びでした。幼い頃からキリスト教に触れておられた方ですが、いつまでもこのままではいけない、と最近になって気づきが与えられたとのこと。これもまた不思議ですが確かな神様の導きのゆえ、でした。みなで心から喜んだことでした。初めて礼拝に集われた方と、昼食の会話もはずみ、幸いな日曜日でした。

2012年4月11日水曜日

主はそのしもべのたましいを贖い出される

今日は詩篇34篇を学びました。神賛美への誘い。なぜなら主は悩む者の声を聞いてくださるお方だから。主を求めよう、主を恐れよう。締めくくりは主がしもべのたましいを贖い出してくださるという信仰告白となっています。教会は復活節に入りました。十字架のイエス様が信じるすべての人の贖いとなってくださったこと、それがこの詩篇の神賛美こそ私達にふさわしいことを裏付けているのではないでしょうか。

2012年4月10日火曜日

イースター 洗礼式

おとといの日曜日はイエス様の復活をお祝いするイースター、聖書では敢えて復活のイエス様の登場前までで終わりとしました。本当にただただ悲しみに沈むだけの女性たち、恐れおののいて隠れている男性たち、復活の事実がなければ、キリスト教なんて生まれなかったんだとつくづく思いました。そしてこの日は洗礼式もありました。幼少の頃からキリスト教に触れる機会があり、いちどは洗礼を受けてみないかと誘われたこともあった、けれど、おとといようやくその恵みにあずかることができた姉妹は、本当に喜びに満ちていました。そしてこれからもずっと共に歩んでいきたいものと思いました。感謝。

2012年4月2日月曜日

棕櫚の主日

昨日は棕櫚の主日、ヨハネの福音書からイエスの死と葬りを学びました。イエス様の「完了した」という言葉が、何よりも心に残ります。人の罪の罰の支払いを完了した。罪のない神の御子が私達のために命をささげてくださったのです。なんという恐れ多いことでしょうか。次週はイースターです。死んでよみがえられたイエス様のご復活をお祝いします。