祈祷会7月9日
詩篇93篇
今日はたった5節の詩篇ですが、短いからこそ、言わんとしていることは、明白に伝わってきます。19世紀の哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、神は死んだという言葉を残したことで有名ですが、しかし、神は死んだと言ったニーチェは死んだ、神は生きておられる、これが真実ではないでしょうか。
神が永遠に生きておられて、そして、生きとし生けるものの存在を支えている。それが聖書の教える世界観です。また、生き物ばかりでなく、天も地も、全宇宙を支えているのが、神である。それが聖書の世界観です。
みいつという言葉は、御威光と書きます。威光、だけでもみいつと読みますが、さらに御をつけて、みいつとしたのでした。第二次世界大戦が終わるまでは、日本人は、天皇こそ、御威光をまとっておられると唱え続けてきましたが、戦後、人間宣言をした天皇に、私たちは「みいつ」などという言葉を使うことは、なくなっていったわけです。天皇も、私たちと変わらない人間であることを、誰もが知っている。天地万物の創造者なる神様と、ならぶべくもないのです。
しかし、主なる神様は、まことの神様であって、まことにみいつをまとって、おられる方。尊厳のあるお方、威光のあるお方なのです。また力をまとっておられるという。そして、この方の存在があって、初めて世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。神様がこの世界をあらしめようと願われる限り、世の終わりは来ない、このような信仰も大切なのです。
尋常でない台風が、沖縄、九州と日本列島に災害をもたらすことが懸念されています。今までになかったような、ゲリラ豪雨、暑さ寒さに、驚かされますが、ゲリラ豪雨も、局地的である限りは、ノアの経験したような大洪水にはならない。私たちは今日も、繰り返し、虹を見ることができます。神様は、まだこの地球を保っておられる。局地的には、天上が落ちて来るような豪雨もありますが、まだ世界は堅く建てられている。これも事実なのです。
それは目に見える世界の向こうに、目に見えない神様がすべてをたなごころに治め、支配しておられるからです。そして、この神様は、善なる神様、義なる神様、愛なる神様なので、無意味に地上に混乱をもたらさないのです。
しかし、詩篇の詩人は、造られた世界の脅威にまなざしを向けます。
昔から、日本の国も、川の氾濫を如何に防ぐか。治水は、政治の大きな課題でした。船橋の海老川も、海老のように飛び跳ねる、よく氾濫する川であったと聞いています。そして、人間も力を尽くし、堤防を築き、ダムを築き、川の流れをコントロールしてきました。新潟も日本一の信濃川が流れており、この分水路を造るまでは、本当に、洪水に悩まされ続けていました。しかし、人の治水事業が進んでも、洪水が溢れる時には、洪水が溢れる。皆さんの知っている間にも、地震、洪水は新潟で繰り返されています。そして、2011年の震災は、東北地方、三陸地方が、繰り返し大津波に襲われて来たということを現代人にも思い出させる大災害となりました。歴史をひもとけば、繰り返しそうでした。いまだかつて経験したことのないという意味の「みぞうの」という言葉は、精確では無いのです。
しかし、聖書は、それよりも力強い神に目を向けるべし、と語ります。詩篇の詩人のメッセージです。
詩篇の詩人は、大水のとどろきの恐ろしさを知っていました。海の波の恐ろしさを知っていました。しかし、それに終わらず、海を造られた神を知っていました。それゆえ、無用に恐れることは無いのです。
そして、5節、聖なることがあなたの家にはふさわしい。私たちは、聖なる神様を、地上のどのような恐るべき現象とも同じくしてはならないのです。聖なるものを聖とする。俗なるものと同じにしない。これが大切です。
海が荒れ狂えば、海の神様をなだめる。山に登れば山の神様、そういう神信仰は、真の神様に対する侮辱であり、天地万物を創造された唯一の神様を知らない愚かさです。しかし、聖書は世界が人の犯した罪のゆえに呻いているといいます。怒りもあるかもしれません。
また私たちの行き先、天の御国は聖なる場所でもあるということを忘れてはならないでしょう。イエス・キリストの贖いを受けて、罪を洗い流されなければ、入ることのできない清い場所なのです。聖なることが神の家にふさわしいなら、汚れたままでは入ることはできないのです。
イエス・キリストを通して、真の唯一の神様を知り神様に立ち返る道を教えられたことの幸いを思い起こしましょう。真に偉大な唯一の神様が、今日、私たちを、子どもとして愛しておられるとは、なんと心強く、安心なことでしょう。この神様に今日も守られ、生かされていることを感謝して歩んで行きましょう。
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