2014年7月7日月曜日

二人の女性の救い

 主日礼拝説教2014年7月6日(日)「二人の女性の救い」

 先週私たちは、ゲラサ人の地、墓場に住んでいた男を救われたイエス様のみわざを学びましたが、場面はまたガリラヤ湖の北西側に戻ります。ガリラヤ湖の東側は異邦人の地、救い主に対する待望のない地でした。

 しかし、ガリラヤ湖の西側はユダヤ人たちの住んでいる場所。イエス様が救い主であることについて、熱烈な期待があり、またそれゆえに、イエス様を地上の王に祭り上げようとする人々がいました。

 40節の言葉は、ガリラヤ湖の西側の人たちが、イエス様を救い主として歓迎していたことを伝えています。

 そしてイエス様の助けを切実に求めている人が、イエス様を尋ねてきました。会堂管理者ヤイロです。

 ユダヤ教は、神殿が破壊されて以来、各地の会堂、シナゴグと呼ばれる会堂で聖書朗読を中心とした礼拝を行うようになっていました。会堂管理者は律法の教師ではありませんでしたが、安息日の礼拝に関するすべての準備の責任を彼が負っていたのですから、その地域の名士、世間に名の知られた人物であったといってよいでしょう。彼は礼拝の祈りを導いたり、聖書を読んで説教をする人を選んだりしていました。その人物がイエス様の足もとにひれ伏したというのですから、ただならぬ願いがあったのでした。

 十二歳の一人娘が死にかけている。父親にとってどれほど可愛い娘であっただろうか、想像にかたくありません。もちろん、年寄りだったら死んでもかまわないとか、大勢の息子のうちの一人だったら死んでもかわまないとか、そんなことはないでしょうが。

 悪い虫がつかないように、この子は幾つになったら結婚し、孫の顔はいつ見れるのか、そう思っていた娘が、死にそうになっている、緊急を要することです。

 ところが、ヤイロを落胆させるできごとが起こったのでした。群集がみもとに押し迫って来た。イエス様が身動きのとれない状態におちいり、またもう一人癒しを必要とする別の女性がイエス様に近づいたのでした。

 長血とは、子宮からの出血が不規則に長く続く状態で、もちろん、病いの苦しみが彼女を苦しめていたことでしょうが、それだけでありません、彼女の社会生活にも影響を与えたものであっただろうと想像されます。なぜなら、この病いのゆえに彼女は、汚れたものとみなされ、礼拝やその他の公の行事に、人々と同席することはできなかっただろうからです。

 ですから、彼女は、人前に堂々と姿をあらわすことはできませんでした。おそらく顔も覆いですっぽりと隠し、人に知られないように、イエス様に近づき、イエス様の着物にふれることを選んだのです。着物のふさは、ユダヤの人々が、左肩にかけた布の、角に、ふさをつける律法のさだめに従ったところのふさでした。

 彼女が願ったことは、彼女に実現したのでした。

 人ごみでごった返している状態で、イエス様が「わたしにさわったのは誰ですか」と言われたので、ペテロが、そんな質問はおかしいとばかりに、彼らしく、一番に答えたのですが、イエス様には、明確な意図がありました。

 長血を患った女は、公の面前で癒されたことが知られなくてはならなかったからです。イエス様は、彼女の病いを癒すだけでなく、彼女が社会的にも疎外されていた、その問題にも解決を与えるべく、彼女の癒されたことを公の事実としようと、彼女が自ら名乗りを上げることを求めたのです。イエス様が誰にさわられたか、わからなかったわけではない。むしろ誰が触ったかをご存知であったから、意図してさわった彼女にのみわかるような言葉を発せられたということなのです。イエス様は、正しいことをなさるお方であり、その人にとって必要な救いを与えることのできるお方だったのです。

 そして自分の身の上に起こったことを知っている彼女だけが、イエス様の質問に答えなければならない自分であるということをわきまえさせたのです。

 46節のイエス様の言葉は、イエス様の癒しの奇蹟がどのように行われるものであったのか、私たちの空想をかき立てる言葉です。しかし、神の御子として、無限の力を持っているようでいて、この箇所では、むしろ限りある人となられたイエス様のことを、イエス様の言葉は伝えているようです。「ご自分の力をお使いになって」イエス様は女を癒された。イエス様は、奇蹟をなさるときにも、何の犠牲も払わずに、力を行使されたわけではないということを聖書は伝えているのです。

 それまで公の人々からは隔離された生活を送っていた彼女は、人前で正体を暴かれることを、どれほど恐れたことでしょうか。しかし、しなければならないことでした。イエス様は、恐れる彼女をあえて人前に出して、彼女の人生を人々と共なる場所へ導いたのでした。彼女の社会生活までも、癒し、回復させたのです。

 48節の言葉は、いつも、私たちの興味を惹きます。信仰があれば、病気は治るのか。しかし、イエス様が何を伝えようとしたかということが重要です。イエス様は、信仰の大切さを彼女に教えたのです。これからの人生でも、彼女はいくつも試練に出会うことでしょう。その時に大切なことは何か。信仰を働かせることです。このときは癒されたけれども、やがて彼女も地上の人生の終わりの日を迎えることになったでしょう。その時に大切なことは、イエス様を信じた信仰を、しっかりと保ち続けることだったのです。

 私たちの人生でも、奇蹟的に神様が助けてくださるという経験があるかもしれません。しかし、私たちにとってより重要なことは、如何なる時にも神様を信じる信仰なのです。奇蹟が起ころうと起こるまいと、より重要な信仰を見失わないように。イエス様の言葉の大切なところを忘れてしまわないようにいたしましょう。

 また「娘よ」とイエス様に呼びかけられた女性は、この女性だけです。イエス様はとりわけ優しい言葉をもって、彼女の神の子どもとしての身分の回復を明白に示されたのでした。もちろん、信仰をもって神様に近づこうとする私たちは、誰もが神の子どもとしていただけるその恵みには変わりはないのですが。彼女は身も心も傷つきボロボロの状態になっていましたからとりわけ暖かい言葉を必要としていたのです。そして、イエス様は御力をもって、御言葉をもって、彼女に新しい命を与えていったのです。

 一方、長血の女が癒されている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのでした。緊急をようする願いだったというのに、ヤイロの失望落胆はどれほどのものだったでしょうか。

 ヤイロは、死にかけている娘を救う力がイエス様にあると期待していました。しかし、死んでしまった娘を助けるイエス様の力は信じていなかったのです。この物語は、私たちにも信仰を問いかけています。病いなら直すことができるけれど、死んだら終わりではないか。そうではない。イエス様は死を克服することのできる力を持っておられることを今日も福音書は私たちに主張しているのです。

 イエス様は、ただ奇蹟を行われただけでない、恐れないで、ただ信じなさいと言われました。わずかの時間ですけれども、失望せず、イエス様に望みをおいて信じることが求められたのです。そして信じた人が奇蹟を見ることになるのです。しかし、ここでは死者の復活は、おおっぴらなニュースとして知られることは、避けなければなりませんでした。イエス様は、地上の王として祭り上げられてはならなかったし、敵対者の脅威となって命を狙われることもまだ避けなければならなかったからです。また少女にとっても、よみがえりの奇蹟を体験した女の子として噂になることは避けなければなりませんでした。

 弟子たちの中で、最も信頼のおける三人が選ばれます。ペテロとヨハネとヤコブ。選ばれることで彼らはこの奇蹟を軽はずみに吹聴してはならない厳粛なみわざとして受け取ることを促されたことでしょう。他には、娘の父と母だけが、娘の復活の場面に立ち会ったということも、この話しが、軽いうわさ話になってしまうことを避けるために重要でした。娘と無関係の他人であれば、いや彼女は死んでいなかったのだとか、色々な解釈を加える恐れがあります。しかし、ヤイロとその妻は、心から娘の死を悲しみ、しかし、そのよみがえりを厳粛な喜びをもって受け止めることになるのです。

 前にもお話ししました。ユダヤの人々は、誰かが亡くなると、その葬儀のために、泣き女という職業があり、おいおいと泣き声をあげることになっていたのです。死は悲しみでした。悲しみを押し殺す親族の変わりには、悲しみを十二分に表現する泣き女、泣き屋は、必要だったのでしょう。共に泣いてくれる人、代わりに泣いてくれる人がいるということは、せめてもの慰めに必要なことです。

  しかし、イエスは言われた。
  「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

 泣かなくてもよい。という言葉は、むしろ泣くのをやめなさいという命令に近い言葉のようです。死んだ娘は、これから命を取り戻すので、死の悲しみは、この場にふさわしくないのだということをイエス様は、言われたのです。死んだのではない。眠っているのです。という言葉は、人間にとっては死なのだけれど、イエス様にとっては眠っているに等しい、そういう意味です。娘が完全な死に至っていなかったという意味ではありません。

 実際53節を見ると、周囲の人々は、ヤイロの娘の死をそのまま受け取っていたことがわかります。

 そしてイエス様に対する嘲笑がありました。信仰ではなく、嘲笑です。あざけりの笑いです。それゆえ、イエス様は、娘のよみがえりという奇蹟を真剣に信じて受け止めることのできる人々だけを、家の中に入れたのでした。

 娘の霊は確かに彼女の肉体を離れていました。それが死というものです。しかし、イエス様はその霊を彼女の体に戻して、彼女を生き返らせたのでした。そして、彼女の体の必要、食事を言いつけられたのでした。

 両親は娘の死をまじめに受け取っていましたので、娘のよみがえりは、当然驚きとなったのですが、しかし、イエス様が呼び起こしてくださった事実も真剣に受け取ったことでしょう。そして、イエス様は、この出来事は言いふらさないようにと命じられたのでした。人間の興味本位な知りたがりに、この若い女の子を曝さぬよう、イエス様は配慮をもってこの家族を取り扱われたのでした。

 御巣鷹山の日航機墜落事故の時にも、川上慶子さんが奇蹟的に生き延びました。インターネットでどれくらい情報が拾えるかとトライしてみたのですが、興味本位の情報は曝されておらず、彼女のその後の生活は守られているようで安心しました。


 出会う一人一人のその人の必要を知って、必要な助けと救いを与えていくイエス様。また今日の箇所では、死を打ち破る力を見せられたイエス様。聖書は伝えていました。そして、私たちに信じることを求めておられる方。必要であれば、奇蹟を行ってくださるイエス様が、永遠の天の御国へ、私たちをいつまでも導いてくださることを信じ、感謝して新しい一週間も歩む者とさせていただきましょう。お祈りいたします。

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