2014年7月24日木曜日

讃美への招きと警告

 昨日は詩篇95篇を学びました。詩篇95篇からは、神讃美の詩篇が続きます。キリスト教会はよく歌う教会、よく歌う宗教ですが、それは旧約聖書の昔からの事実でした。そして、それは、いにしえから神に向き合って歩んで来た神の民が、繰り返し、神様の救いを経験したことに対する、神様への応答でした。

 1節「救いの岩」神様は、暴虐に満ちた地からノアを救い出されました。アブラハムには約束の地を与え、息子イサクを与え、ヤコブの時代には、ヨセフを通して、イスラエルの家族をききんから救い、モーセの時代には、イスラエルの民をエジプトから救い出されました。

 イスラエルの民が、再び約束の地に帰る時にも、戦いを挑む異邦人に勝利を与え、ダビデ、ソロモンの時代にイスラエルは空前絶後の繁栄を迎えます。南北王国は、悪王の悪政によって滅びますが、しかし、ダビデの家系はとだえることなく、ペルシャ王クロスによって帰還命令が発せられ、エルサレムの神殿は再建されます。真の神は救いの神、この神に向き合って、神の民は、今日に至るまで、祝福と守りを受けているのです。私たちも、この神様をほめたたえることをやめてはならない。讃美は、讃美されるべき神様にふさわしいことであり、神様の救いを受けた私たちにふさわしい、神様と向き合う姿勢なのです。

 神様が救いをなしてくださったから、その歌は感謝の歌です。その救いは、すばらしい救いですから、私たちは神様を讃美します。聖書は人の罪深さ、この世のはかなさを鋭く見つめますが、それに終わりません。罪深い私たちを救って、永遠のいのちに入れてくださる恵みの神様の恵み深さを覚える。神様がおられ、私たちを救ってくださることを知っている私たちは、喜び歌う理由があるのです。そして今日も私たちは、沢山の恵みに囲まれて、幸いな人生を生かされているではありませんか。それを当たり前と思うのではなく、神様に感謝することを忘れないものでありたいのです。

 世の中には、様々な宗教があり、人々は様々な神々をまつっている。しかし、聖書の神様は、全てのものを造られた創造主なる唯一の神様でした。他のいかなるものに置き換えることのできない、目に見えない、天におられる神様でした。すべての神々にまさって、大いなる王。私たちは、この天の神様を、他のものと同じように見てはならないのです。

 現在知られている海溝で最も深い地点は、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵と呼ばれる場所です。最新の計測では、水面下1万9百11メートル。エベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さを持った海溝が、日本の南、フィリピンの東側に存在していることがわかっています。しかし、このような深海は、大水圧に阻まれて、21世紀の今日でも、深海探査は容易ではなく、深海のほとんどは未踏の領域のまま、存在しています。人知の及ばざる場所。しかし、天の神様は、すべてを支配しておられる。

 その主なる神様が、地上の住み良い場所に、私たちを生かしてくださっているということは何という不思議でしょうか。そして、それは恵み深いことなのです。ですから、私たちは、創造主なる神様、私たちを生かしておられる神様の御前にひれ伏すことがふさわしいのです。

 この途方もなく偉大な神様が、しかし、私たちに向き合ってくださる。羊飼いのように優しく、力強く導いてくださる。驚くべきことです。私たちは、恐るべき神様に畏敬の念を覚えつつも、その愛のゆえに、親しくよびかけることができる。しかし、それゆえに、詩篇は、讃美から警告へ進みます。途方もなく、偉大な神様が、私たちを愛をもって導いてくださるなら、私たちは心をかたくなにしてはならない、のです。神様の前に、柔からな心をもって、歩まなくてはならないのです。

 メリバでの出来事は、出エジプト記17章、民数記20章に記されています。イスラエルの民は、出エジプトという神様の偉大なみわざを体験し、目撃したにも関わらず、荒野の旅路が始まると、飲み水をくださいと言って、モーセに食ってかかった。人間の愚かさが剥き出しにされました。大いなる救いを体験しても、次の瞬間には別の試練の中で、すぐに不信仰に陥ってしまう。こういうことではいけない、と詩篇は警告しているのです。メリバとは争い、という意味。イスラエルの民がモーセと争い、神様と争ったことの愚かな記録でした。そして、マサは試みという意味。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みた、その過ちの記憶でした。私たちは、主がおられると信ずべきなのです。

 「わたしのわざを見ておりながら」という言葉が重要です。イスラエルの民は、十の災いをもってエジプトを打った主なる神様のみわざを知っていました。最後には海を分けて彼らを渡らせ、海を閉じてエジプトの軍勢を滅ぼした神様のみわざを見ていました。また私たちはさらにすばらしい、すべての人を罪と死の滅びから救い出すイエス・キリストの十字架のみわざを知らされながら、神様を疑い、試すようなものになってはならないということです。

 彼らは、せっかくエジプトを出たというのに、約束の地には入れないものとなってしまったのでした。40年荒野をさすらった。徒歩の旅といえども、まっすぐに約束の地を目指したなら、一週間ほどでたどり着ける場所でした。不信仰という罪が、私たちにどれほどの無駄足を踏ませるのか、学び取り、神様に信頼することの賢さを知るものとさせていただきましょう。

 神様が、イスラエルの民を、約束の地に入らせなかったというよりは、むしろ、彼らが自ら迷い道を選んだと言った方が良いでしょう。それが不信仰の罪なのです。神様がこっちだというのに、そっちへ行かない愚かさです。

 その不信仰から守られるために、私たちは神様を讃美し、礼拝し続けなくてはならないのです。讃美は信仰告白です。神様は信頼に足るお方、すべてにまさる方と歌いつつ、私たちの信仰は守られるのです。そう思えないならば、そう思えない時ほど、私たちは歌わなくてはなりません。

 地の深みは主の御手のうちにあり、山々のいただきも主のものである。


 私たちの知らないことまでもすべてを御心のうちに支配しておられる真の神様が、わたしの羊飼いとなってくださる、今日も導いておられる、そのことを信じ、感謝し、そして、永遠のいのち、天の御国を目指して歩むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。

2014年7月21日月曜日

昨日はチャペルコンサート

 新船橋キリスト教会の昨日の主日は、ハレルヤタイム、主日礼拝を行った後、午後はチャペルコンサートでした。ピッコロトランペットの四本喜一さん、ピアノとソプラノの斎藤とし子さんをお招きして素晴らしい演奏と証しを御聴きすることができました。
 筆者もバロック音楽は大好き。バッハ、ヘンデル、テレマン、スタンレーも演奏したことはありますが、四本さんの光の球を転がすような装飾音符に聞き惚れました。そして、トランペットは昔から神の栄光を現す楽器として用いられて来ました。この楽器にしかない高貴な輝き、めったに聴かないトランペットのソロコンサート堪能させていただきました。また演奏の合間に、くちびるをケアする演奏者。生楽器、生演奏を目の当たりにすると、音楽をするという行為のデリケートさを改めて教えられます。お証しにもあったように、練習の中で、大きなトラブルにぶつかってしまったこと。本当に楽器奏者の現実と思わされました。
 と同時に、率直に、神様の約束の御言葉に信頼して、未来を委ねている様が、信仰者の受ける恵みの素晴らしさを証ししていました。神様とともに歩む人生は素晴らしいですね。
 トランペットの演奏の合間には、斎藤とし子さんが素敵なソプラノを聴かせてくださいました。筆者も一度ピアノレッスンを見ていただいたことのある先生です。また教会福音讃美歌の奉献礼拝では共に奉仕させていただいた鍵盤奏者であり、声楽家です。ヘンデルも素敵でしたが、バッハはさらに素敵でした。ヨハネ受難曲。イエス様の苦しみを描くこのオラトリオに挟み込まれた喜ばしげな音楽に、いつも首をかしげていましたが、斎藤さんの解説を御聴きして、なるほどと納得。バッハの極めて理性的なアプローチに、もう一度「ヨハネ」を味わい直してみたいなあと思ったことでした。
 とても息のあった演奏。今回の演奏者はお二人とも同じ同盟基督教団の教会員であられるということも、嬉しいことでした。いつかこのような賜物をもった方たちが一同に会して、オーケストラでも奏でられるととても素晴らしいでしょうね。

2014年7月16日水曜日

現実の悪に直面した時の祈り

祈祷会7月16日

 メッセージの前には、教会福音讃美歌491番「この世はみな」を歌いました。


詩篇94篇

 詩篇94篇は激しい怒りの思いの込められた詩篇です。こういう祈りがあるのかと驚く人もいるでしょう。しかし、それが祈りであるということが重要です。怒りのままにこぶしを振り上げ、人を打ちのめすのではないのです。怒りをぶちまけるのではなく、むしろ内に秘め、神様にさばきを委ねるのです。これが信仰の在り方でした。神の御前での祈りは、本当に自分の怒りが正しいのかと思いめぐらすことにもつながるでしょう。と同時に、この世にはしばしの悪のはびこりが許されているので、私たちは悪に直面し、聖なる憤りを心のうちに覚え、神様に切に祈らなければならない、そのような霊的な必要もあるのです。悪に直面したときに、どのように祈るか。それが詩篇94篇の教えるところです。

 復讐の神。私たちは「神は愛なり」赦す方を教えられていますが、同時に、正義の神は、悪をさばく神であり、罪無き人を殺すような、そのような悪に対して、必ず報復されるお方なのです。「光を放ってください。」神様の光は、真実を照らす光、そして、正しいことと悪いことを峻別する光。それはさばきの光でもあるのです。

 高ぶる者は悪。私たちは、へりくだるものとさせていただきましょう。

 義憤にかられて高慢になってはなりません。私たちが裁くのではなく、神様が正しい裁きを行われるのです。ですからむしろ私たちは、へりくだって祈り、神様に、報復してください、と祈るのです。

 3節には「いつまで、いつまで」と言葉が繰り返されていますが、私たちは、時の流れの中で、忍耐すべきであると聖書は繰り返し方っています。しばらくは悪がはびこることが許されている。これが現実です。すべてを支配しておられる神様のご計画でもある。しかし、最期には必ず神様の正しい裁きがなされると神様は言っておられる。ならば、わたくしたちは、神様を疑うのではなく、忍耐を働かせて「いつまで、いつまで」と祈るのです。これは疑いではなく、しばらくの間、このように祈り続けなければならないということです。祈らなければ私たちは失望に陥ります。しかし、祈りは、忍耐と希望を助けるのです。悪者どもは、しばしの間、勝ち誇っている、そういうものだ。しかし、それは、いつまでものことではないのです。

 放言、横柄、自慢。いつの時代にも、世の中に法があるというのに、それを勝手に解釈し、法を乗り越えて、わがままな思いのままに行動する人々がいるのです。その言葉の愚かさに、はらわたがにえくりかえることがある。神を信じる者は、その悪を祈りのうちに神様に訴えるべきです。

 5節の「あなたの民」が誰であるか。これは重要な問題です。

 民族、人種の問題ではないでしょう。そうではなく、神の言葉に従うものこそ神の民です。神様は一番大切な教えは何であると言われたか。神を愛し、隣人を愛することです。もう世界中、あちこちで火の手が上がっていますが、その言い分は、相手が悪い、報復するのは当然だという言葉、子どもの喧嘩と同じことが、しかし、いっそうたちの悪い方法で、行われています。しばらくの間、神のことばに従う神の民は、悩まざるを得ないときを過ごすのです。結論を性急に求めず、祈って答えを神に委ねるからです。しかし、それが正しい手段なのです。

 聖書は、誰が悪者か、見分ける手段も一貫して教えています。6節を見ればわかります。

 弱者を虐げるもの。これが悪者のしるしです。

 7節のうそぶいている言葉。実は、悪者は、神様の存在を知っているのですが、耳をふさぎ目をふさいで悪を行い続けるのです。しかし、その言葉、心の思いは、真実に目を向けない、偽りなのです。嘘の言葉に騙されてはいけません。またその嘘がしばらく真実のように見えたとしても、やがて化けの皮は剥がれるのです。

 詩篇の時代、民の中に悪者がいたということはやはり神の民が人種、民族のことでないことを教えているでしょう。神のことばに従って、愛を行い、正義を行っているかどうか。それが重要です。

 そして一時、世をはばかり、己の意のままに世の中を動かしているように見える悪者は、じつはまぬけで愚かなのです。何を知らない愚か者なのか。

 私たち、人間に耳、目を与えた神が、聞いていないわけはない。見ていないわけがない。あなたの耳を聞こえているなら、神は、もっとよく聞いているだろう。あなたの目が見えているなら、神はもっとよく見ているだろう。信じる者は、神様が何もかもすべてご存知であるということに平安を持つことができるでしょう。神様が見過ごしにしている悪はないのです。

 さらに、この神様は、国々を戒めるお方でもある。

 国家権力というものも、神様が人間に恵みとして与えておられるものです。政府があり、行政があり、人々の暮らしは秩序の中で、守られる。しかし、その政府が暴走するとき、神様の御旨を超えるとき、神様は戒められる。人の知識もすべて神様が人に与えてくださったものであり、神様こそ、人の知識を超えて、知恵をもっておられる方ですから、何の裁きも行われないかのように、我が物顔で暴走し続けることはできないのです。

 そして、23節ある詩篇の中心12節に、神に祈る人の幸いが輝きます。

12節「主よ。なんと幸いなことでしょう。
    あなたに、戒められ、
    あなたのみおしえを教えられる、その人は。」

 まさに、神のことばを聴き、それを行うものが幸い、その人こそ、まことの神の民、その心の平安は揺るがないのです。

 13節は幸いな人と不幸な人の対比です。

 幸いな人は、わざわいにあっても、心に平安がある。しかし、悪者は、世をはばかっているように見えて、悪を行い続ける限り、墓穴を掘り続けているのだということです。むしろ私たちはそのような人たちのためにも、最終的に神のさばきを受けて永遠の滅びに陥るような惨めなことにならないように、神様憐れんでください。と祈ることができるでしょう。

 そして、神の声に聞き従う民は幸いなのです。

 正義が行われる日を待ち望み、忍耐を働かせるものには希望があるのです。

 その確信は、祈りの中で、強められるのです。

 歌には修辞の技巧が凝らされます。

 だれがだれが、もしももしも、と繰り返されます。

 どんなリズム、どんなメロディーで歌われたことでしょうか。興味深いですが、当時の音楽を知ることはできません。機会があれば音楽をつけてみるのも良いでしょうがたい、今日は、この詩が何を強調しているかに注目しましょう。だれがだれが、もしももしも、という繰り返しの中で、詩人が言わんとしていることは、何か。

 主が私の助けであるということです。主の恵みが私をささえてくださいますように、という祈りです。確信を持つだけでなく、祈りつつ過ごすということが教えられています。

 私たちが人間である限り、絶えず、思い煩いはやってくるのです。焦燥感が生じる。だから私たちは祈らなければなりません。自分の言葉で祈れないなら、詩篇を開いて、神の言葉に教えられてそのままに祈る。詩篇はやはり祈りの手本です。そして、実際に、祈るとき、静かにたましいの喜びが心を満たすようになるのです。

 正義を行うはずの法廷が、悪をたくらむような状況すら、詩篇は想定しています。そんなことになったら、どこに正義があるだろうかと私たちは絶望するかもしれませんが、神様はそこにおられない。真の正義の高みにいまして、悪を行う法廷に対してもさばきをくだされるから、私たちは希望と平安を持つことができるのです。

 詩篇94篇が描く悪の法廷は、イエス・キリストの時代に実現しました。ユダヤの議会はこぞってイエス様を死刑にしようと話し合い決断したのです。しかし滅んだのはユダヤ。40年しないうちに、エルサレムは徹底的に破壊されることになります。

 祈りの言葉を一回となえて確信が得られなければ、もう一度、唱えます。

 滅ぼされる側の悪にならないように、また悪に加担にしないように。


 しばしの忍耐を求められる側になったとしても、神の御心を行い、神様に支えていただくものとさせていただきましょう。

2014年7月14日月曜日

興味を抱く

 主日礼拝説教2014年7月13日(日)「興味を抱く」

天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。すぐる週は、台風の接近に伴い、各地で大雨が降り、死者も出ました。悲しみのうちにある方々、困難に遭遇した方々にあなたの慰めと助けがありますように。しかし、また、台風の後には、美しい虹が空にかけられていました。あなたがこの地上を今も滅ぼすことなく保っておられます恵み深さを感謝いたします。どうぞ生かされてある限り、あなたの御心をわきまえ、地上であなたの御旨を果たすものとさせてください。私たちは今日もあなたの御言葉を求めます。聖書の言葉を通して、私たちの務めを教えてくださいますように。また喜んで従う心を私たちのうちにお造りくださいますように、救い主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。アーメン。

 私たちは、これまでに、イエス様のガリラヤ湖周辺での宣教活動の記録を学んで来ました。ゲラサの地では墓場に住んでいた男を救われ、また、その後には、長血を患っていた女性を救われ、会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせました。

 人々を悪霊から解放し、病いから救い出し、実に、死からも生き返らせる、神の御子、救い主としての姿を、見せられたのですが、

 今日、9章を読むにあたっては、9章の51節のことば、「天に上げられる日が近づいて来たころ」という時の理解が必要です。イエス様が、奇蹟を行って、ご自身の神の御子であられることを明らかにすることは必要なことでしたが、しかし、これがイエス様の全てではありませんでした。

 イエス様は、すべての人の罪の贖いのために、十字架で死に、よみがえるために地上に来られました。そして、その後の教会形成と宣教のわざは、12人の弟子たちを土台として、残された人々に委ねられなければなりませんでした。それで、イエス様は、ガリラヤ宣教の終わりの頃に、弟子たちに必要な訓練を施されたのです。

 1節の、十二人を呼び集めて、という言葉は、彼らが、世間の生活を全て捨てていなかったことを告げています。イエス様や他の弟子たちとともに行動することもあった。しかし、自分の生活の場に戻ることもあった。そのような12弟子が、改めて招集されたのです。それは、イエス様が十字架に架かられる前に、必要な訓練を受けるためでした。そして、この1、2節から学ばなければならないことは、12弟子が何を目的として、どんな力をいただいたか、ということです。神の国を宣べ伝えるため、病気を直すため、。言い換えるなら、これは、人間の心の必要と体の必要を満たすためと言って良いでしょう。

 イエス様は、人間のたましい、心の必要を満たすものを持っておられました。その力を、12弟子にも、分け与えられたのです。また、イエス様は人間の体の必要を満たす力をも持っておられました。それを12弟子に分け与えられたのです。

 歴史上、キリスト教会が、単に教えを教える宗教であるだけでなく、教育、福祉、医療においても、世の中に小さからぬ貢献をしてきたのは、このガリラヤ宣教の終わりの頃の十二弟子の派遣に、働きの源をみることができるものです。

 日本の国ではクリスチャンは人口比1%にも満たない少数者です。しかし、キリシタン禁制の解かれた明治時代以降、社会の様々な場面における重要な貢献は、クリスチャンによってなされていることが、今日も日々、明らかにされて、驚くばかりです。会津出身の新島八重らは、看護婦のさきがけとなったと言われています。それまで日本の国では、傷つき倒れた病人を相手に、仕事をするような看護婦は、卑怯な商売だとみなされていたそうです。看護婦の仕事の尊さを知らなければ、これに献身する人もあらわれないし、支えられないのです。そして、そのためには、キリストの愛を知った人々の働きが必要だったということです。

 また様々なキリスト教の社会貢献を、厳しく批判したとしても、キリスト教が、日本の女子の教育に与えた貢献だけは、否定することができないと、言われています。いまだに女性に対する蔑みの言葉が後をたたない日本ですが、男女の平等を正しく認めた聖書のことば、神様の御前にある平等な人間ということを、どこまでもしっかりと学び、また主張して行かなければならないと覚えさせられます。

 イエス様は、人の心を満たし、からだの必要も満たす働きを弟子たちに委ねられた。私たちは、真心から、人の心の求めに答え、目に見える必要にも答える奉仕をなしてゆきたいものです。

 そして、この尊い奉仕について、イエス様は、驚くべき心がけを教えられたのでした。

 日常的なことではありません。たとえて言うならば、オリンピックの短距離走者が、いざ、ピストルの音を聴いて、スタートする瞬間に、ただ走ることだけに集中する、そういう時のことです。弟子たちが、人の心の渇きにこたえ、身体の必要にこたえる、もっとも大切な働きをするときに、余分なものを切り捨てる、余計な心配事に心を奪われず、大切な働きに集中すべきということを教えているのです。クリスチャンは下着を二枚もっちゃいけない、そう言っているわけではないのです。自分の目の前に、イエスキリストの救いを必要としている人があらわれた時に、他のことを気にして、大切なその人のたましいの救いのことをないがしろにしてはならない、そういうことなのです。また、その時に、必要なものは神様が与えてくださる、神様に対する信頼を根底においていることも、イエス様は教えているのです。誰かを助けようとするとき、それがわたしのすべきことなら、神様は、必要を備えてくださる。

 4節には、具体的な知恵も記されていました。一つの町に遣わされたなら、あなたの働きを理解して、支えようとする人が必ずあらわれるでしょう。多くの人の支援を受ける必要はないのです。あなたを理解したその人から支援を受け、その人が支援出来る限り、その町で働きなさい、という、極めて具体的な助言なのです。その人が支援できなくなったら、と気をもむのではなく、それがその町での働きの終わりであると。今日でも多くの宣教師が文字通りそのままでなくても、その中身においては、イエス様の派遣の言葉の通りに、支えられる人々によって、一人一人のたましいを救いに導き、そして、次の町へまた派遣されているのです。私たちは、誰もがそのような仕事に派遣されているわけではありませんが、働き人を支える働きも、直接、人のたましいに関わる働きとともに、ともに重要な働きとなっているわけです。それで私たちは海外宣教に出かける宣教師を支援し、また国内で開拓伝道に励む働き人を、可能な限り支援し続けるわけです。私たちは、献金をささげなくとも、まず祈りに覚えていく、それが大切なことではないでしょうか。

 5節の言葉は、まずユダヤ人に伝道すべきであった弟子たちの状況を背景に理解する必要があります。神の民、ユダヤ人は、メシヤを待ち望んでいる人々でした。その人々に救い主イエス・キリストの到来、神の国の到来を知らせたというのに、受け入れなかったということは、日本人にイエス様のことを伝えたのに、信じなかったということとわけが違います。

 足のちりを払い落としなさい。これは、異邦人と関わったあとには、汚れを洗い清めなければならないというユダヤの律法に関わる教えでした。つまり、イエス様を待ち望むべき人々がイエス様を受け入れない場合は、彼らを異邦人と等しく見なしなさいということなのです。

 日本の場合は、イエス様のことを伝えるにしても、多くの人が聖書のことをよく知らない人々ですので、大変、困難であるということは、ある意味、当然のことなのです。少々のことで、驚いてはならないですし、諦める必要もないのです。

 汚れを絶つということは、ミイラ取りがミイラにならないように、と言い換えても、良いでしょう。日本の国に住んでいれば、神を知らない他の日本人と同じようにしていた方が、楽だし、居心地がよい、ということがあるでしょう。しかし、神を知り、キリストを知ったがゆえに、ゆずれない生き方が出て来るのです。空気を読んで、右から左へ、左から右へと流される生き方から変えられて、揺るがない神様を中心として、イエス様を中心として生きる、そういう人が、実は今の日本の社会に必要とされているのではないでしょうか。足のちりを払い落とすとは、そのような意味で、流されるままの世の生活から、自分を清く保つ、自分を神に従うものとする、そのような意味と言ってよいでしょう。

 イエス様は、十字架に架かられる前に、まず、選ばれた12人の弟子に、必要な訓練を施されたのでした。

 そして、今日、もう一つの話し。興味を抱く、というタイトルは、国主へロデがイエス様に興味を抱いたということから名付けたメッセージのタイトルです。

 聖書には、同じ人が違う名前で出て来るし、同じ名前で違う人が出て来るので分かりにくいのですが、

 一人は、イエス様の誕生の頃、子ども殺しをしたヘロデ大王。彼は、偉大な建築家としても世界史の中で知られるヘロデですが、イエス様30歳の頃にはすでに亡くなっていました。紀元4年に死んでいますので、救い主を殺そうとした時はすでに彼の晩年だったということがわかります。今日登場するヘロデはその息子の国主へロデと呼ばれます。国主というのはガリラヤ地方の国主であって、ユダヤの王とはみなされなかったということです。三人目は使徒の働きに登場するヘロデアグリッパ1世ですが、今日は触れずにおきましょう。

 国主へロデは、他の福音書にも登場します。彼の妻ヘロデヤがバプテスマのヨハネの処刑を命じたことで有名です。オスカー・ワイルドの戯曲、サロメの元となった聖書の話しです。それはヘロデの妻ヘロデヤが、ヘロデの兄弟の妻であったのを、兄弟の妻を奪ったという姦淫の罪を、バプテスマのヨハネが非難したことから、ヘロデヤは、ヨハネのことをいまいましく思い、夫以上に、ヨハネのことを憎んだのでした。

 7節からの記述は、この国主へロデが、バプテスマのヨハネの死の場面に立ち会っていたということからくる行動です。そのことは、マルコの福音書6章のみに記されています。そこを見ると、ヘロデは、ヨハネに対しても興味を抱いていた様子が記されています。彼は自分を非難するヨハネに怒りを燃やすよりも、むしろ真実を語る彼の言葉に惹かれていたのでした。それゆえに、イエス様に対しても興味を抱いたのでした。

 人々のうわさの第一は、重要な誤解を示しています。

 「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」

 神の民イスラエルの中には、来るべき救い主は、死を克服してよみがえるお方であるという信仰がありました。それゆえ、人々が偉大な預言者と認めたヨハネが、よみがえって、イエスとして現れた、そういう間違った解釈が生まれたということです。そして、この言葉が、ヨハネに興味を持ち、しかし、ヨハネの死に立ち会ったヘロデを、当惑させた、動揺させた、そして、イエス様に興味を抱かせたということなのです。

 二つ目と三つ目のうわさは、さほど重要ではないでしょう。イスラエルの人々は、偉大な神の人があらわれる度に、エリヤの再来、昔の預言者の再来とうわさしたのです。バプテスマのヨハネのときもそうでしたし、そして、イエス様に対してもそうだったということです。

 ヘロデは、しかし、第一のうわさに、もっとも興味を惹かれていました。自分が殺したヨハネがよみがえったなら、それは、真の救い主かもしれない。イエスに会ってみたい。

 ヘロデの考えは少し間違っていて、しかし、ある部分あたっていたのでした。

 バプテスマのヨハネはよみがえっておらず、しかし、ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、ご自身がよみがえられた真の神の御子、救い主キリストであることを示されたからです。

 この記事は、ルカの福音書におけるイエス様の復活の伏線になっているともいえるでしょう。ヨハネのよみがえりとうわさされたイエス様は、イエス様ご自身がよみがえられて、救い主であることを示された。

 しかし、今日は、国主へロデの末路について伝えるにとどめたいと思います。それは歴史家ヨセフスの伝える所によるものですが、ヘロデが姦淫の罪を犯して娶ったヘロデヤは、夫に、ローマの皇帝に王位を求めるようにと勧めたのでした。パレスチナの田舎、ガリラヤの国主の地位に甘んずるのではなく、父のようなユダヤの王になれという勧めでした。ところが、妻の勧めに従って、王位を求めたヘロデを、時の皇帝カリグラは、危険視して、紀元39年、ヘロデの国主の地位を剥奪し、ガリアへ追放、ヘロデは、妻とともに、流刑地ヒスパニアで最期を遂げることとなったのでした。

 イエス様に興味を抱きながら、自分の罪を悔い改めて清算することがなかったヘロデは、結局、姦淫の罪のゆえに、妻の言う所に従って、自分の身に滅びを招くことになったといってよいでしょう。興味を抱いても、イエス様に出会って自分の生き方を変えるのでなければ、何の意味もないということです。

 イエス様に興味を抱いたなら、聖書をひもとき、真実のイエス様に出会うことです。そして、この方が神の御子、神ご自身であられる方、救い主キリストであることを知り、信じ、自分の生き方を変える、それが神様の祝福を受ける道です。

 この方を知って信じた、尊い恵みにあずかったことを心から感謝しましょう。

 先週は、東京基督教大学の夏期卒業式が行われましたが、そこで語られたメッセージに改めて教えられました。私たちが信じる者とされたのは、神様の選びによることであって、謙遜になるべきだとのこと。なぜなら、それは神様が、私たちにイエス様の救い主キリストであることを啓示されたのであって、それは何ら誇るべきことではないから、ということでした。

 私たちが人よりも賢かったので、イエス様の救い主であることがわかったということではないのだということです。神様が、イエス様を、わたしに啓示してくださった、それは神様によることなのです。

 恵みによって私たちをこの信仰に導いてくださった神様に、ただただ感謝するより他ありません。そして、私たちがイエス・キリストを宣べ伝える時にも、神様がその人にイエス・キリストを啓示してくださるのでなければ、人は信仰に導かれないのですから、祈りつつ、この人にもイエス様を明らかにしてくださいと私たちは、証しするだけのものなのです。

 人が容易にイエス様を信じなかったとしても失望し、諦める必要はありません。悟りは、神様が与えてくださるものなのです。祈りつつ、あかしのわざに励むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。


天にいます父なる神様、尊いお名前を心から讃美いたします。あなたの御子イエス様は、地上の生涯を終える前に、弟子たちに必要な訓練を施し、人のたましいを救いに導き、また人々のあらゆる必要に答える務めを教会に委ねられました。私たちは小さな群れですが、どうぞその働きを、力の限り担えますように、あなたの導きと助けを今日も与えてください。そして、イエス様に興味を抱きつつ、生き方を変えることのなかったヘロデのようになってしまわないように、あなたの恵みによって、私たちをあなたの御心にかなうものと、日々変えてくださいますように。また私たちが祈りつつ、イエス様のことを証し、あなたの恵みによってキリストを知る人と出会えますように、死を克服しよみがえり、救い主であることを示された、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2014年7月9日水曜日

今日は牧師の故郷新潟市が、かなりの豪雨に見舞われました。

 実家は、大丈夫だったようです。佐渡の教会に浸水がありました。沖縄や九州の方々のためにも、またその後の台風の進路のためにも祈りが必要です。

 祈祷会7月9日

 詩篇93篇

 今日はたった5節の詩篇ですが、短いからこそ、言わんとしていることは、明白に伝わってきます。19世紀の哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、神は死んだという言葉を残したことで有名ですが、しかし、神は死んだと言ったニーチェは死んだ、神は生きておられる、これが真実ではないでしょうか。

 神が永遠に生きておられて、そして、生きとし生けるものの存在を支えている。それが聖書の教える世界観です。また、生き物ばかりでなく、天も地も、全宇宙を支えているのが、神である。それが聖書の世界観です。

 みいつという言葉は、御威光と書きます。威光、だけでもみいつと読みますが、さらに御をつけて、みいつとしたのでした。第二次世界大戦が終わるまでは、日本人は、天皇こそ、御威光をまとっておられると唱え続けてきましたが、戦後、人間宣言をした天皇に、私たちは「みいつ」などという言葉を使うことは、なくなっていったわけです。天皇も、私たちと変わらない人間であることを、誰もが知っている。天地万物の創造者なる神様と、ならぶべくもないのです。

 しかし、主なる神様は、まことの神様であって、まことにみいつをまとって、おられる方。尊厳のあるお方、威光のあるお方なのです。また力をまとっておられるという。そして、この方の存在があって、初めて世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。神様がこの世界をあらしめようと願われる限り、世の終わりは来ない、このような信仰も大切なのです。

 尋常でない台風が、沖縄、九州と日本列島に災害をもたらすことが懸念されています。今までになかったような、ゲリラ豪雨、暑さ寒さに、驚かされますが、ゲリラ豪雨も、局地的である限りは、ノアの経験したような大洪水にはならない。私たちは今日も、繰り返し、虹を見ることができます。神様は、まだこの地球を保っておられる。局地的には、天上が落ちて来るような豪雨もありますが、まだ世界は堅く建てられている。これも事実なのです。

 それは目に見える世界の向こうに、目に見えない神様がすべてをたなごころに治め、支配しておられるからです。そして、この神様は、善なる神様、義なる神様、愛なる神様なので、無意味に地上に混乱をもたらさないのです。

 しかし、詩篇の詩人は、造られた世界の脅威にまなざしを向けます。

 昔から、日本の国も、川の氾濫を如何に防ぐか。治水は、政治の大きな課題でした。船橋の海老川も、海老のように飛び跳ねる、よく氾濫する川であったと聞いています。そして、人間も力を尽くし、堤防を築き、ダムを築き、川の流れをコントロールしてきました。新潟も日本一の信濃川が流れており、この分水路を造るまでは、本当に、洪水に悩まされ続けていました。しかし、人の治水事業が進んでも、洪水が溢れる時には、洪水が溢れる。皆さんの知っている間にも、地震、洪水は新潟で繰り返されています。そして、2011年の震災は、東北地方、三陸地方が、繰り返し大津波に襲われて来たということを現代人にも思い出させる大災害となりました。歴史をひもとけば、繰り返しそうでした。いまだかつて経験したことのないという意味の「みぞうの」という言葉は、精確では無いのです。

 しかし、聖書は、それよりも力強い神に目を向けるべし、と語ります。詩篇の詩人のメッセージです。

 詩篇の詩人は、大水のとどろきの恐ろしさを知っていました。海の波の恐ろしさを知っていました。しかし、それに終わらず、海を造られた神を知っていました。それゆえ、無用に恐れることは無いのです。

 そして、5節、聖なることがあなたの家にはふさわしい。私たちは、聖なる神様を、地上のどのような恐るべき現象とも同じくしてはならないのです。聖なるものを聖とする。俗なるものと同じにしない。これが大切です。

 海が荒れ狂えば、海の神様をなだめる。山に登れば山の神様、そういう神信仰は、真の神様に対する侮辱であり、天地万物を創造された唯一の神様を知らない愚かさです。しかし、聖書は世界が人の犯した罪のゆえに呻いているといいます。怒りもあるかもしれません。

 また私たちの行き先、天の御国は聖なる場所でもあるということを忘れてはならないでしょう。イエス・キリストの贖いを受けて、罪を洗い流されなければ、入ることのできない清い場所なのです。聖なることが神の家にふさわしいなら、汚れたままでは入ることはできないのです。

 イエス・キリストを通して、真の唯一の神様を知り神様に立ち返る道を教えられたことの幸いを思い起こしましょう。真に偉大な唯一の神様が、今日、私たちを、子どもとして愛しておられるとは、なんと心強く、安心なことでしょう。この神様に今日も守られ、生かされていることを感謝して歩んで行きましょう。

2014年7月7日月曜日

二人の女性の救い

 主日礼拝説教2014年7月6日(日)「二人の女性の救い」

 先週私たちは、ゲラサ人の地、墓場に住んでいた男を救われたイエス様のみわざを学びましたが、場面はまたガリラヤ湖の北西側に戻ります。ガリラヤ湖の東側は異邦人の地、救い主に対する待望のない地でした。

 しかし、ガリラヤ湖の西側はユダヤ人たちの住んでいる場所。イエス様が救い主であることについて、熱烈な期待があり、またそれゆえに、イエス様を地上の王に祭り上げようとする人々がいました。

 40節の言葉は、ガリラヤ湖の西側の人たちが、イエス様を救い主として歓迎していたことを伝えています。

 そしてイエス様の助けを切実に求めている人が、イエス様を尋ねてきました。会堂管理者ヤイロです。

 ユダヤ教は、神殿が破壊されて以来、各地の会堂、シナゴグと呼ばれる会堂で聖書朗読を中心とした礼拝を行うようになっていました。会堂管理者は律法の教師ではありませんでしたが、安息日の礼拝に関するすべての準備の責任を彼が負っていたのですから、その地域の名士、世間に名の知られた人物であったといってよいでしょう。彼は礼拝の祈りを導いたり、聖書を読んで説教をする人を選んだりしていました。その人物がイエス様の足もとにひれ伏したというのですから、ただならぬ願いがあったのでした。

 十二歳の一人娘が死にかけている。父親にとってどれほど可愛い娘であっただろうか、想像にかたくありません。もちろん、年寄りだったら死んでもかまわないとか、大勢の息子のうちの一人だったら死んでもかわまないとか、そんなことはないでしょうが。

 悪い虫がつかないように、この子は幾つになったら結婚し、孫の顔はいつ見れるのか、そう思っていた娘が、死にそうになっている、緊急を要することです。

 ところが、ヤイロを落胆させるできごとが起こったのでした。群集がみもとに押し迫って来た。イエス様が身動きのとれない状態におちいり、またもう一人癒しを必要とする別の女性がイエス様に近づいたのでした。

 長血とは、子宮からの出血が不規則に長く続く状態で、もちろん、病いの苦しみが彼女を苦しめていたことでしょうが、それだけでありません、彼女の社会生活にも影響を与えたものであっただろうと想像されます。なぜなら、この病いのゆえに彼女は、汚れたものとみなされ、礼拝やその他の公の行事に、人々と同席することはできなかっただろうからです。

 ですから、彼女は、人前に堂々と姿をあらわすことはできませんでした。おそらく顔も覆いですっぽりと隠し、人に知られないように、イエス様に近づき、イエス様の着物にふれることを選んだのです。着物のふさは、ユダヤの人々が、左肩にかけた布の、角に、ふさをつける律法のさだめに従ったところのふさでした。

 彼女が願ったことは、彼女に実現したのでした。

 人ごみでごった返している状態で、イエス様が「わたしにさわったのは誰ですか」と言われたので、ペテロが、そんな質問はおかしいとばかりに、彼らしく、一番に答えたのですが、イエス様には、明確な意図がありました。

 長血を患った女は、公の面前で癒されたことが知られなくてはならなかったからです。イエス様は、彼女の病いを癒すだけでなく、彼女が社会的にも疎外されていた、その問題にも解決を与えるべく、彼女の癒されたことを公の事実としようと、彼女が自ら名乗りを上げることを求めたのです。イエス様が誰にさわられたか、わからなかったわけではない。むしろ誰が触ったかをご存知であったから、意図してさわった彼女にのみわかるような言葉を発せられたということなのです。イエス様は、正しいことをなさるお方であり、その人にとって必要な救いを与えることのできるお方だったのです。

 そして自分の身の上に起こったことを知っている彼女だけが、イエス様の質問に答えなければならない自分であるということをわきまえさせたのです。

 46節のイエス様の言葉は、イエス様の癒しの奇蹟がどのように行われるものであったのか、私たちの空想をかき立てる言葉です。しかし、神の御子として、無限の力を持っているようでいて、この箇所では、むしろ限りある人となられたイエス様のことを、イエス様の言葉は伝えているようです。「ご自分の力をお使いになって」イエス様は女を癒された。イエス様は、奇蹟をなさるときにも、何の犠牲も払わずに、力を行使されたわけではないということを聖書は伝えているのです。

 それまで公の人々からは隔離された生活を送っていた彼女は、人前で正体を暴かれることを、どれほど恐れたことでしょうか。しかし、しなければならないことでした。イエス様は、恐れる彼女をあえて人前に出して、彼女の人生を人々と共なる場所へ導いたのでした。彼女の社会生活までも、癒し、回復させたのです。

 48節の言葉は、いつも、私たちの興味を惹きます。信仰があれば、病気は治るのか。しかし、イエス様が何を伝えようとしたかということが重要です。イエス様は、信仰の大切さを彼女に教えたのです。これからの人生でも、彼女はいくつも試練に出会うことでしょう。その時に大切なことは何か。信仰を働かせることです。このときは癒されたけれども、やがて彼女も地上の人生の終わりの日を迎えることになったでしょう。その時に大切なことは、イエス様を信じた信仰を、しっかりと保ち続けることだったのです。

 私たちの人生でも、奇蹟的に神様が助けてくださるという経験があるかもしれません。しかし、私たちにとってより重要なことは、如何なる時にも神様を信じる信仰なのです。奇蹟が起ころうと起こるまいと、より重要な信仰を見失わないように。イエス様の言葉の大切なところを忘れてしまわないようにいたしましょう。

 また「娘よ」とイエス様に呼びかけられた女性は、この女性だけです。イエス様はとりわけ優しい言葉をもって、彼女の神の子どもとしての身分の回復を明白に示されたのでした。もちろん、信仰をもって神様に近づこうとする私たちは、誰もが神の子どもとしていただけるその恵みには変わりはないのですが。彼女は身も心も傷つきボロボロの状態になっていましたからとりわけ暖かい言葉を必要としていたのです。そして、イエス様は御力をもって、御言葉をもって、彼女に新しい命を与えていったのです。

 一方、長血の女が癒されている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのでした。緊急をようする願いだったというのに、ヤイロの失望落胆はどれほどのものだったでしょうか。

 ヤイロは、死にかけている娘を救う力がイエス様にあると期待していました。しかし、死んでしまった娘を助けるイエス様の力は信じていなかったのです。この物語は、私たちにも信仰を問いかけています。病いなら直すことができるけれど、死んだら終わりではないか。そうではない。イエス様は死を克服することのできる力を持っておられることを今日も福音書は私たちに主張しているのです。

 イエス様は、ただ奇蹟を行われただけでない、恐れないで、ただ信じなさいと言われました。わずかの時間ですけれども、失望せず、イエス様に望みをおいて信じることが求められたのです。そして信じた人が奇蹟を見ることになるのです。しかし、ここでは死者の復活は、おおっぴらなニュースとして知られることは、避けなければなりませんでした。イエス様は、地上の王として祭り上げられてはならなかったし、敵対者の脅威となって命を狙われることもまだ避けなければならなかったからです。また少女にとっても、よみがえりの奇蹟を体験した女の子として噂になることは避けなければなりませんでした。

 弟子たちの中で、最も信頼のおける三人が選ばれます。ペテロとヨハネとヤコブ。選ばれることで彼らはこの奇蹟を軽はずみに吹聴してはならない厳粛なみわざとして受け取ることを促されたことでしょう。他には、娘の父と母だけが、娘の復活の場面に立ち会ったということも、この話しが、軽いうわさ話になってしまうことを避けるために重要でした。娘と無関係の他人であれば、いや彼女は死んでいなかったのだとか、色々な解釈を加える恐れがあります。しかし、ヤイロとその妻は、心から娘の死を悲しみ、しかし、そのよみがえりを厳粛な喜びをもって受け止めることになるのです。

 前にもお話ししました。ユダヤの人々は、誰かが亡くなると、その葬儀のために、泣き女という職業があり、おいおいと泣き声をあげることになっていたのです。死は悲しみでした。悲しみを押し殺す親族の変わりには、悲しみを十二分に表現する泣き女、泣き屋は、必要だったのでしょう。共に泣いてくれる人、代わりに泣いてくれる人がいるということは、せめてもの慰めに必要なことです。

  しかし、イエスは言われた。
  「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

 泣かなくてもよい。という言葉は、むしろ泣くのをやめなさいという命令に近い言葉のようです。死んだ娘は、これから命を取り戻すので、死の悲しみは、この場にふさわしくないのだということをイエス様は、言われたのです。死んだのではない。眠っているのです。という言葉は、人間にとっては死なのだけれど、イエス様にとっては眠っているに等しい、そういう意味です。娘が完全な死に至っていなかったという意味ではありません。

 実際53節を見ると、周囲の人々は、ヤイロの娘の死をそのまま受け取っていたことがわかります。

 そしてイエス様に対する嘲笑がありました。信仰ではなく、嘲笑です。あざけりの笑いです。それゆえ、イエス様は、娘のよみがえりという奇蹟を真剣に信じて受け止めることのできる人々だけを、家の中に入れたのでした。

 娘の霊は確かに彼女の肉体を離れていました。それが死というものです。しかし、イエス様はその霊を彼女の体に戻して、彼女を生き返らせたのでした。そして、彼女の体の必要、食事を言いつけられたのでした。

 両親は娘の死をまじめに受け取っていましたので、娘のよみがえりは、当然驚きとなったのですが、しかし、イエス様が呼び起こしてくださった事実も真剣に受け取ったことでしょう。そして、イエス様は、この出来事は言いふらさないようにと命じられたのでした。人間の興味本位な知りたがりに、この若い女の子を曝さぬよう、イエス様は配慮をもってこの家族を取り扱われたのでした。

 御巣鷹山の日航機墜落事故の時にも、川上慶子さんが奇蹟的に生き延びました。インターネットでどれくらい情報が拾えるかとトライしてみたのですが、興味本位の情報は曝されておらず、彼女のその後の生活は守られているようで安心しました。


 出会う一人一人のその人の必要を知って、必要な助けと救いを与えていくイエス様。また今日の箇所では、死を打ち破る力を見せられたイエス様。聖書は伝えていました。そして、私たちに信じることを求めておられる方。必要であれば、奇蹟を行ってくださるイエス様が、永遠の天の御国へ、私たちをいつまでも導いてくださることを信じ、感謝して新しい一週間も歩む者とさせていただきましょう。お祈りいたします。

2014年7月2日水曜日

主に感謝することは、良いことです。

 詩篇92篇は安息日のための歌。旧約聖書の神の民は、天地創造の神様のみわざを覚え、7日目に休まれた神様に習って、土曜日は休息の日、安息の日として、すべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。他方、新約聖書では、イエス様が十字架に架かって、私たちの罪の贖いを成し遂げ、三日目によみがえって、永遠のいのちの希望の初穂となられたので、救いのみわざの成就を記念して、日曜日が安息日となりました。いずれにせよ、神様のなしてくださったみわざを覚えて感謝し、自分の仕事をひとまずわきに置いて神様を礼拝する、これが安息日です。

 一週間の間で、自分の為したこと、人の為したことに目を向けるなら、そこには成功もあれば失敗もある、喜びもあれば、悲しみや怒りもあるかもしれません。色々なことが起こります。

 しかし、信仰者は、変わらない神様に目を向けることができる。目に見える世界の向こうに、目に見えない真実な神様がおられることを知って感謝できるから幸いなものなのです。その幸いを忘れてしまわないように。週に一度、私たちの創造者なる神様に向き合う。私たちの救い主なるイエス様に感謝をささげる、そのようにしてたましいの健康を保つものとさせていただきましょう。感謝や讃美は、もちろん、何か感謝すべきことがあったときには、心から感謝をささげるべきですが、自分の感情によることではなく、むしろ意志的に、常に感謝をささげる、その姿勢が、さらなる感謝を呼び込む幸いな人の人生になっていくのです。

 また感謝、讃美をささげるのは、週に一度きりでありませんでした。聖書の中の信仰者は、日に三度、神に祈りをささげる、これが習慣でした。

 私たちも、食前の祈りをかかすことがなければ、日に三度神様に祈りをささげることができます。

 朝昼晩と食べる物が充分に与えられている生活も、決して当たり前のことではありません。地震が来て、津波が来て、電気がとだえ、物流も止まったなら、たちまち買い占めが起きる、人間の生活は、決して万全なものではないのです。しかし、今日は、幸いな生活が守られている。ならば、感謝。もし欠けがあるなら、なおのこと、神様に祈りつつ、求めつつ、生きるものとさせていただきましょう。不平、不満ではなく、祈りを。そして、神様に信頼するなら、私たちは神様と共に生きていくことができるでしょう。

 少年の頃、立琴の名手であったダビデのことが思い起こされます。彼は羊飼いの仕事をしている時も、立琴を奏でながら働いていました。時には、悩み苦しむサウル王のたましいをなだめるためにも、彼の音楽の才能は有効なものでした。人のたましいは、悩み苦しみ、妬みや怒りに支配されることがあるのですが、音楽の調べは、そのたましいの苛立ち、悶えを、やわらげることができるのです。感謝できない、讃美出来ないではなく、感謝する時、讃美する時、私たちの心が、悪い状態から守られ、明るい状態に変えられていくのです。

 私たちは神様のしてくださった良いことを忘れがちなものですから、思い出して、神様を讃美すべきです。

 人生の様々なことを経験すると、神様のご計画の深さが、少しづつわかってゆくでしょう。初めは、なぜこのようなことが、と戸惑うだけの経験だったことにも、意味があったことを教えられる。そのようにして、神様の御計画が、実に深い意味のある計画だったということを知らされていく。確かに初心者には分からないことが、年数を経るとわかるようになっていく、そういうことがあるものです。

 そして今日の詩篇は、讃美の詩篇であると同時に、教訓の詩篇でもあります。

 感謝すること、讃美することが、人をどれほど幸いな人生に導くだろうか。しかし、愚かな人は、感謝、讃美が少なく、感謝、讃美が少ないと、実際に、感謝できること、神様を讃美できることが減っていくのです。悪循環です。

 神様は、悪者でも青草のようにもえいでることを許してくださるのです。栄えるチャンスも与えてくれるのです。しかし、愚か者は、その時に感謝することがない。神の御名を崇めることを忘れている。すると、彼が手にしたものは、指の間をすり抜けて、落ちて行く砂のようになってしまうのです。いつも感謝。感謝なことがあったら、なお感謝。そのような人生が賢い人の人生なのです。

 天には愛と正義の神様がおられることを仰ぎ見て生きる。

 どれだけ不法がはびこっても、神様は、それを放置されることはない。そう信ずべきです。

 そして、正しい人は決してないがしろにされない。

 現実に、滅びるものと神様からの祝福を受けるものの、二つの道があるのです。私たちは、誰もが平等に同じ結末に到達すると考えるべきではありません。救いはすべての人に開かれています。しかし、そこに入るか入らないかは、自分自身の選択です。

 老いてもなお実を実らせる。年を取るといろいろなことが思うようにいかなくなる現実にも直面するでしょう。しかし、神様と共に歩むなら、年老いて実る実を知ることにもなるのです。人生、どこまでも期待をもって歩んで良いのです。年とって悪いことばかりでない。


 今までを導いてくださった神様が、これからも、永遠に私たちを導き祝してくださることに期待を置いて、歩む者とさせていただきましょう。