2011年12月31日土曜日

他人の利益

新船橋キリスト教会では、ディボーションブック「マナ」を用いています。今日はコリント人への手紙第一の10章でした。24節「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」ぼんやり生きていると、いつのまにか自分のしたいことばかり心を支配するようになり、狭い人間になってしまいます。目の前の人が心から喜んでくれること、それを考えるだけで、世界が広がっていくような気がします。皆様も、良き年の暮れ、年の始めを迎えられますように。

2011年12月25日日曜日

クリスマス礼拝

今日はクリスマス礼拝。「ここに愛がある」と題して説教をしました。クリスマスが神様の愛のしるしであること、皆さんに伝わったでしょうか。礼拝の後は、祝福式に来れなかったご家族、子供たちのための祝福の祈りの時をもって、愛餐会。皆さんの持ち寄りのご馳走、定番のE兄のヴァイオリン演奏、K姉とU兄のリードによるクイズ大会、たくさんの方々とクリスマスの喜びを分かち合えて感謝でした。

キャロリングとキャンドルサーヴィス

昨日はキャロリングとキャンドルサーヴィスでした。昨年初めて東武ストアの前で歌って、今年はじっと聞いていてくださる方、興味深げに近寄って来る子供たち、遠巻きにあいさつしてくれる知人、感謝でした。その後は教会で礼拝。暗闇の中、キャンドルの光が照らす心の光。クリスマスの喜びを改めて覚えることができました。皆さんありがとうございます。

2011年12月22日木曜日

トップリーダー

詩篇21篇はイスラエルが王制の時代、それはどのような構造を持っていたのか、教えています。「王は神の力を喜ぶ」上に立てられた最高権力者が頼りにしているのは神、信仰によって神の言葉に従い地上を治める王様を神は祝福してくださる、これがイスラエルの王制国家でした。トップに立つ人が自分の欲しいがままに振る舞うのではなく、最高善の神に対して謙遜であること、現代においても通じるリーダーシップではないでしょうか。リーダーには権限が委ねられているものです。悪を恐れず、勇気をもって決断をくだし、責任をとってもらいたいものです。そして民は、立てられた指導者がよくその力を発揮できるよういつも祈り続けるものなのです。

2011年12月19日月曜日

地獄

今日は地獄について学びました。私たちが使っている新改訳聖書では地獄という言葉は使われていません。ゲヘナとカタカナで書いてあります。でも別の訳の聖書を持って来られた方の聖書には地獄と書いてありました。それは地獄という言葉で考えることがそれぞれ違うから、聖書にはゲヘナと書いてある、それはどういう所なのか精確に把握する必要があるということでしょう。そして、人や自分を躓かせてゲヘナに行くようなことになってはならないというイエス様の言葉を学びました。また塩が塩気を失ってはならないということを学びました。手や足や目が自分を躓かせたケースも分かち合いました。小さいものを躓かせるということがどういうことなのかも、具体的に考えました。今月も大変盛り上がり有意義な学びをすることができました。出席してくださった皆さんに心から感謝いたします。

もう一人の助け主

昨日も私達はヨハネの福音書を学びました。十字架に架かられる前のイエス様。弟子たちを励まして「あなたがたは大きな働きをする」「祈りはすべて答えられる」「真理の御霊が助け主として与えられる」絶大な約束を与えられて、今日に至ります。弱々しい弟子たちが始めた働きは今や全世界に広がり、イエス様の言葉の真実であったことを証ししています。今日、私たちは何をすべきでしょうか。神のみ旨にかなう歩みを、希望をもってたどることができますように。

2011年12月15日木曜日

苦難の日に

「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。」昨日は詩篇20篇を学びました。油注がれた王のための執り成しの祈りでした。国民を統治するための王の政策なのでしょうか。いやそうではない、たしかにこれは民の喜ばしい光栄な努めなのです。また王の勝利を共に喜べる、これも幸せな国の様子を伝えています。軍備ではなく、目に見えない神を誇りとしたイスラエルの王、この時期イスラエルは空前絶後の繁栄を迎えていました。

2011年12月12日月曜日

アドヴェント 第3主日

昨日はヨハネの福音書14章から聖書の言葉を学びました。あなたがたは知っているとイエス様がおっしゃるのに反論するトマス。イエス様がどれほど身を低くして弟子たちと共に歩まれたのか、そんな空気を察知することができます。そして私たちは神について救い主について聖書について色々なことを知らないのですが、しかし、それでも大切なことが分かっているということを改めて教えられました。

2011年12月9日金曜日

婦人クリスマス会

昨日は婦人クリスマス会でした。マタイの福音書1章からメッセージをしました。初心者には意味不明のカタカナの名前たち。しかし婦人たちはこれまで聖書の学びを積み重ねてきました。アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図、ここまでにおよそ2000年ほどの時が経過していると言われています。そして、わたしたちはイエス・キリスト生まれたおよそ2000年後を生きている。何か不思議な感じがします。

2011年12月5日月曜日

アドヴェント 第2主日

昨日は待降節第二主日でした。聖書はヨハネの14章から。天の父の家には住まいがたくさんあります、というイエス様の言葉。天国のことなんて、それこそ浮世離れした話しですが、わたしたちはイエス様の復活されたことを信じています。今も生きておられることを信じています。そのイエス様の言われたこと、わたしたちの地上の生涯の後の希望のこと。イエス様の言われたとおりに信じたいと思います。また同じイエスさまが、私たちを迎えに来てくださる、再び地上に来てくださると言われた言葉も、ただイエスさまがそう言われたという理由によって信じて、今日も生かされている時を喜んで歩んで行きたいと思います。

2011年12月1日木曜日

詩篇18

詩篇18は、すべての敵、特にサウルから、主がダビデを救い出したことを歌った詩篇です。これまでの詩篇の中では最も長く、言葉が尽くされています。1節、主を慕う。これが18篇を貫く基調でしょう。そして2,3節は言葉を尽くした讃美。戦人ダビデが主を何かに言い換えるとしたら、という言葉が続きます。4,5節は、戦を知らない私達からしたら、ひどい妄想と思えますが、目の前で敵が味方が命を落とす場面を日常茶飯に経験していたダビデです。その運命が自分に襲いかかる場面を想像しないことはなかったでしょう。しかし命の危険を知っているからこそ、最後の時には神に叫ぶよりない、そういうことを幾度も経験し、そして助けられたのでしょう。興味深いことに7節以降はありとあらゆる天災が描写されます。地震、火山の噴火、垂れ込める暗雲と竜巻、雷鳴、雹、引き潮と台風。ダビデ自身も津波にのまれたようです。ところが主の御手が彼を救う。そしてこれが敵に対する勝利であった。聖書は、災が人に等しく及ばないと述べているようです。神により頼むものは、水に飲まれても引き上げられる。少なくともダビデはそうでした。決して強くないのに生き残った。その理由が20節以降展開されます。主の道を守ったから、悪を行わなかったから。正しい神は私を救ってくださり、なお立たせてくださる。46節以降は、未来に向けての讃美でしょう。ところで戦人ダビデの正しさはどんなところにあらわれていたでしょうか。自分の命を付け狙うサウルを殺す機会を得たのに、手をかけなかった、そんなことが思い出されます。