2014年6月30日月曜日

墓場にいた男

 今日の聖書の出来事は、ゲラサ人の地方での出来事であるとルカは記しています。ゲラサという名前は、今日、ジェラシュという町で知られる古代遺跡のよく保存された町です。ただし、マタイの福音書ではガダラでの出来事となっており、また古い写本ではゲルゲサでの出来事となっており、いったいイエス様は、どこで悪霊に憑かれた人を癒したのかということが問題になっていますが、おそらくガリラヤ湖に一番近いゲルゲサ、今日クルシと呼ばれる場所が、今日の聖書の舞台となった場所であると推定されています。地図で言うならガリラヤ湖の右の方。東側で、大切なことは、イエス様が初めの頃に活動されたガリラヤ湖の北西の側には、ユダヤ人たちが住んでいたのですが、ガリラヤ湖の東側は、ほとんど聖書のことを知らない異邦人たちが住んでいたということです。来るべき救い主に対する期待もない、彼らに対するイエス様の活動は、おのずから、旧約聖書の預言を知っている人々に対する伝道とは異なるものとなったのでした。

 登場する人物は、悪霊につかれていた男。悪霊が人にとりつくことなど信じられないという人は、この人は何かの精神病だったのではないかと考えたりします。そのような聖書解釈もあります。しかし、聖書の記述を見ると、精神病では説明のつかない部分も見受けられるようです。その人自身のたましいでない、別の霊が、この人にとりついて、この人を尋常でない状態にさせてしまっていた。聖書のシンプルな記述でも明らかです。彼は、長い間着物も着けず、家には住まず、墓場に住んでいた。

 人々が、手に負えない、尋常でない、人物。その人に救いを与えるのがイエス様でした。イエス様がその人に出会うと、今までになかった全く新しい状況が起こるのでした。

 28節には、大切な二つのことが記されています。男に取り憑いていた悪霊は、霊的な存在なので、イエス様がいと高き神の子であるということを理解したということです。私たち、人間は、イエス様が神の子、神ご自身であるかどうか、瞬時に見抜くことはできません。しかし、悪霊は、それがわかるのです。そして、イエス様は確かに神の御子、神ご自身であられるお方でした。

 もう一つ重要なことは、イエス様の登場に悪霊が恐れおののいているということです。人間に悪さをする悪い霊の働きがあったとしても、私たちが信じている神様は、天地万物の創造者にして支配者なる神様ですから、悪霊が、人間に、どれほどの悪さをしようとも、最後には、滅ぼされ、地獄においやられる運命なのです。そして、イエス様の登場は、悪霊に、その終わりの時の到来を予感させるものだったのでした。イエス様は、悪い者から人間を救うために来られたからです。

 誰が人を好んで鎖や足かせでつなぐでしょうか。しかし、悪霊がこの人を繰り返し荒野に追いやる。せめて墓場につなぎとめることが周りの人のできる精一杯のことでした。彼は自分の人生を台無しに、人にも多大な迷惑をかけるだけの存在になってしまった。そして、彼の家族が、一番苦しんでいたことでしょう。

 一つの悪霊につかれただけでも、その人の人生は台無しになってしまうでしょう。ところがこの人には、沢山の悪霊がとりついていたのです。レギオンというのはローマの兵士団の呼び名で、6千名ほどの兵士からなる一団のことをレギオンと呼んだそうです。多少の誇張はあるかもしれませんが、たくさんの霊がとりついている、別人格がこの人物を通して幾つもあらわれる、そういう状況から、レギオンという呼び名が彼につけられたのだと思われます。あるいは、別の解釈として、彼がローマの兵士団に加わって活動していた時に、大変、ショッキングな出来事に出会った、精神に障害をきたしてしまったのではないかと推測する学者もいます。

 戦争にでかけて、人を殺したり、殺されるような場面に出くわしたなら、人間は、その心に、深い傷を負わずにいられるのでしょうか。イラクに派遣された自衛隊員から28名の自殺者が出たといわれています。生きて帰ってきて良かったで終わらない、戦争には、人間の存在を根底から傷つけるものが、負けたもの、殺されたものだけでなく、生きて帰って来た人にもあるのです。

 しかし、イエス様は、たくさんの悪霊に憑かれたこの人を、救うことができないお方ではありませんでした。

 悪霊たちは、彼らの最終的な行き場を知っていました。そして、しばらくの猶予だけをイエス様に願ったのでした。底知れぬ所。そんな場所が本当にあるのかと現代人は言うかもしれませんが、およそ2000年前の悪霊は、自分たちがさばかれて最終的にはそこへ行かなければならないということを知っていたのでした。

 私たちは、イエス様の贖いを信じて、神の国へ入れていただける約束をいただいた、それは本当に感謝なことなのです。そして、その救いについての信仰をしっかりと保ち続けなくてはならないのです。

 32節のイエス様の悪霊に対する許可は、必ず疑問の生じる場面です。その前に、この節のゆえに、今日の箇所は、精神疾患とは言い切れない側面があることを覚える必要があるでしょう。明らかに、悪霊が、一人の人物から豚の群れに乗り移って、豚を溺死させたのです。その人自身の問題でない、とりつかれた、それがときはなたれた、ということを、聖書は伝えているのです。

 しかし、多くの人が疑問に思うでしょう。人が救われるのは良いとして、豚は死んで良いのか。そして、聖書が告げる結果としても、人々は、人の救われたことを喜ぶのではなく、イエス様を歓迎することにもならなかった。

 悪霊のしわざは、そのとりついたものを滅ぼすことでした。彼らがとりついていた男は、人間だったので、まだ自殺からは免れ、沢山の悪霊に抵抗していたのかもしれません。しかし、豚は、即、死を選んだ。恐ろしいことです。悪霊と関わりをもつことは、危険なことなのです。悪霊は人をだましますし、最終的には滅びに至らせるのです。

 聖書を読むと、墓場にいた男が、正気に戻っていたことがよくわかります。シンプルな記述ですが、彼は、着物を着ていた。そして、普通にすわっていた。彼は、人間でした。鎖や足かせなど必要ない、尊厳ある人間でした。ただ、しばらくの間、悪霊に支配され、自分の意志すら行使できないような、大変な困難の状況に置かれていたのでした。しかし、権威あるイエス様は、悪霊をしかりつけ、追い出すことのできるお方。最高、最強の霊である、神の霊、聖霊と共に働かれる真の神様でしたから、人の解決出来ない不可思議な問題を立ち所に解決することのできるお方だったのです。

 しかし、人々がイエス様を信じないとはどういうことなのでしょう。信じない人は信じない。奇蹟を見ても信じない、そのケースがここにもあるでしょう。

 あるいは、人々にとって、大量の豚が死んだということの方が迷惑であったという可能性があります。ともすると私たち人間が、一人の人の救いよりも、経済的な利益、物質的な欲望の満足を優先する危険があります。男が救われるのは良いとして、豚が死ぬのはいかがなものか、という疑問は、そういう考え方に陥る危険があります。私たちは豚肉は食べるけれども、人肉は食べないでしょう。ただし、そう言ったからといって、すべての疑問が消えるわけではありません。イエス様、他に方法はなかったのですか、という疑問は残ります。ただし、その場合の答えは、私たちはイエス様のお考えをすべて知ることができるわけではないということです。

 そして、今日の物語は大切な結論に続いて行きます。男はイエス様の「お供をしたいとしきりに願った」という言葉から、彼が、イエス様のみわざをどれほど感謝したかが伺い知れます。本当に台無しになっていた彼の人生、ひどい状態から、イエス様は、彼を解放し、救い出してくださったのです。

 しかし、彼がしなければならないことは、イエス様についていくことではありませんでした。家に帰って、証しすること。家族に、神様のみわざを知らせることでした。

 注意深い方は、イエス様が、人々に、話すなという場合と、話せという場合があることに気付かれるでしょう。教会のわざは告げ知らせることだというのに、福音書のイエス様は、誰にも話すなということをたびたび語られる、不思議に思われる場面です。

 イエス様はユダヤの地方では、初めの頃、話すなということを多く語られています。騒ぎになって必要な働きが妨げられてはならないからです。敵対者によって十字架に架けられる日も、どの日でもよいという話しではありませんでした。

 しかし、今回のわざは、ガリラヤ湖の東側、異邦人たちの多く住む地でしたので、イエス様がいつまでも滞在する訳にはいかなかった。むしろ証し人が残り、神様のみわざを伝える必要があったのです。

 イエス様は、今日の彼には、まず家族に神のみわざを伝えるように命じられた。その都度その都度、イエス様は正しいことを命じられたのです。

 私たちは、何をしなければならないか。自分の置かれた場所を見極めて、語る時に語り、口を閉ざす時に、余計なことを言わない、そのような判断が問われるでしょう。

 時には、無用な混乱を巻き起こさないように、口を閉ざす。また時には、反対者がいても、大胆に真実を語らなければならない場面があるでしょう。今日の箇所では、他に語る人のいない場所で、イエス様の救いのみわざを受けた彼が、そこに残って語り伝える必要がありました。

 イエス様のすばらしい救い、これは家族には、誰よりも他に、わたしが伝えなければならないことである、これは多くの場合、私たちにも共通のことでしょう。そして、家族だけでなく、自分にとって大切な身近な人々に、すばらしいイエス様のことを知っていただくこと。

 しかし誰もがすぐに信じてくれるわけではない。今日のゲラサの人々も、多くは、ただ出来事に恐れをなすばかりでイエス様のことを知ろうとしませんでした。今日も、多くの人が、宗教は怖いもの、と近よろうとしないケースが多いかもしれません。

 しかし、私たちは、真の救い主イエス様のすばらしさを知ったのですから、与えられた機会にイエス様のすばらしさを伝えるものとさせていただきましょう。

 また今日の箇所に登場する人物のように、困難の中で、自分の人生を台無しにしているような人がいないでしょうか。私たちはイエス様でありませんから、たちどころにその人を救い、問題から解放することはできないかもしれません。しかし、苦しんでいる人のために祈り、関わる中で、神様のみわざを見せていただけることになるかもしれません。祈るものとさせていただきましょう。そして、困難の中にいる人が、一人でも救われるように、そのように祈りつつ歩むものとさせていただきましょう。

 お祈りいたします。


天にいます父なる神様、あなたの尊いお名前を心から讃美いたします。今日はゲラサの地、墓場にいた男の救いの話しを学びました。イエス様は、人には困難な問題も力強く解決してくださる権威をもった方であることを知ることができました。どうぞ私たちが試練に出会う時にも、共にいて、私たちが悪に負けてしまうことのないように、力づけてください。また私たちの周りには困難に向き合っている方々もいます。どうぞあなたが共にいて必要な助けを与えてくださいますように。そして、あなたは救われた男に、神のみわざを証しするつとめを与えられました。私たちもあなたのすばらしさを知っているものですから、それを隠さずに、隣人に証しすることができますように。失われた人を救うために地上に来られ、十字架で死んでくださった救い主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。

2014年6月25日水曜日

詩篇91篇

 前回の詩篇90篇は、人の命のはかなさを歌った詩篇、人生のむなしさの中で、神様の助けを祈り求める、神の人モーセの晩年の祈りでした。それとは対照的に、詩篇91篇は、神を見上げて天に舞い上がるような詩篇です。人間は小さくて乏しい存在、しかし、神を見上げる信仰によって私たちは信仰による力強さを得るのです。

 いと高き方、天にいます神様を、隠れ場とする者は、全能者、すなわち、どんなことでもおできになる方の陰にいるのだ。私たちが、イエス・キリストの御名によって祈るとき、それはどれほど力強い方を頼りにすることかと思い出さなくてはなりません。私たちの祈りの声は小さいかもしれませんが、それを聞いておられる方は、恐るべき力をもったお方、人の思いを遥かに超えた知恵をもっておられるお方なのです。この神様が私たちの祈りを聞いて、最善をなしてくださるということは、どんなの素晴らしいことでしょうか。

 狩人のわな、それは、獲物の予想もしないところに、仕掛けられている。私たちの人生も、サタンは、おもいがけないところに霊的なわなを仕掛けているので、私たちは、私たちの想像の及ばない所に、神様の助けを求める必要があるのです。恐ろしい疫病。はやり病いは、昔も今も、人をおびえさせるものでした。不思議なことですが、ある病いが医学によって克服されると、また別の新しい病気が登場して来る。しかし、神様は、その病いからも私たちを守ってくださるというのです。

 きじが、子育てのころ、親鳥がこどもたちを連れて歩いていました。そこに出くわした時に、親鳥がひなをかばうように、荒々しく翼を広げてひなたちをかばおうとした姿には驚かされました。主の羽はどのような羽でしょうか。高い空をゆうゆうとすべる大鷲の羽のようでしょうか。神様の優しく力強い翼の下に、信じる私たちは身を避けることができる。

 主の真実は大盾である。大きな盾なので、私たちの身をすっぽり隠して、飛び来る矢から守ってくれる。主なる神様が偽りを言われない、言われたことは、必ず実行されるお方であるということは、なんと感謝なことでしょうか。

 聖書の時代は電気のない時代。夜の暗やみはどれほど暗かったことでしょうか。それで人は火を用い、明かりをともすのです。しかし、火がなくても、あかりがなくても、電気がなくても、神様が守ってくださる、そのことに信仰者は平安を得るのです。戦人ダビデは、戦火を何度もかいくぐった人生でした。飛び来る矢で倒れる人々を何人も見たことでしょう。しかし、彼は生き延びたのです。神様が守ってくださったことを何度感謝したことでしょう。そして、私たちも、今日、守られて、生かされているのです。 

 また神様の前にいつも罪を悔い改め、自分の問題が処理してあるなら、私たちは、恐れる必要はないのです。愛には恐れがありません。結婚式のおりに、ヨハネの手紙で学んだとおりです。

 主なる神様がその本性として愛を第一にもっておられるということは、何と感謝なことでしょうか。その愛のうちに、私たちを匿ってくださる、力強く、真実で変わることのない愛です。

 すんでのところで、天使のようなものがあらわれて、救われたという話しをたびたび聞くことがあります。それを信じるか信じないかは、人それぞれですが、聖書は、御使いが神様の命令を受けて、信じるものを守るようにされると言う。私たちは、天使の守りを信じてよいのです。

 年をとるとやたらとタンスの角に足をぶつけたり、あざがなかなか消えなかったりするものですから、わたしたちは、神様に祈りつつ生きて行く必要があるでしょう。

 年老いて弱ったライオンではありません。人生のさかりとばかりに力を振るう若獅子。かみつけば、猛毒をもっているコブラ。そして蛇という言葉からはサタンも連想されるでしょうが、それを踏みつけることができるのがアダムの子孫なのです。どちらも動物園で見ることができるということは、ある意味、聖書の真実を証明しているのかもしれません。だからといって人間がおごりたかぶってはなりませんが。

 信じる祈りは、やがて、神ご自身の言葉を聞く祈りと変えられていきます。

 信仰者にも苦しみはあります。苦難の時が訪れます。そのような時こそ、詩篇91篇のような祈りをもって神様の助けを仰ぐ必要があります。そして、14節、15節のように語ってくださる神様を信じる信仰を働かせるのです。

 いのちを与えてくださった神様は、私たちの命が無為に終わることを望まれず、生かされてある限り、幸いであることを望んでくださるでしょう。


 そして、生涯の終わりには、天の御国を見せてくださる。その日にも希望を置きつつ、今日の神様の守りを確信して生きるものとさせていただきましょう。お祈りいたします。