2012年11月5日月曜日

信じて義と認められる

昨日は創世記15章を学びました。14章では甥ロトを取り返すことに成功したアブラハムですが、成功は新たな緊張を生み出す可能性があったことでしょう。戦いは敵を生み出します。しかし神様は「アブラムよ、恐れるな、わたしはあなたの盾である。」とアブラハムに語りかけたことでした。神様は信じる者に語りかけてくださる神様です。そして、わたしはあなたの盾であると言ってくださる。目に見える防具の盾なら、それを用いる人の能力、相手の戦闘能力、武器の強度によっては、防具になる場合、ならない場合があります。しかし天地万物の創造主なる神様が盾であるなら、防げない敵はない。

そしてこの章ではアブラハムが信じるがゆえに神様に問いかける言葉を学ぶこともできます。子孫は、親族から得るのですか?という問いかけに、神様は、あなた自身から、と力強く語られます。約束の言葉を与える神様を信じているから神様に問いかけ、さらなる詳細の答えをいただける場合があるのです。信仰とは、黙って信じるだけでない、信じるがゆえに問いかける、人格的な交わりです。語られる神の言葉をそのままに信じたとき、アブラハムは義と認められたのでした。義と認められるとは、一定の基準に達した、よし、合格と言われたようなものです。完璧になったわけではありません。しかし、神様は信じるものを、信じるということのゆえに、よしと認めてくださるお方なのです。義と認められたアブラハムには、さらに土地所有の約束も与えられたのでした。

ここでもアブラハムは神様に問いかけます。すると儀式を通して神様の誠実さはアブラハムの目の前に見える形で示されたのでした。

中でもここに戻って来るとき、それはエモリ人の咎が満ちるときと語られた言葉が重要です。この地に悪が満ちるまでは、神様は、この地への侵入を許されなかったということです。イスラエルのパレスチナ侵入は、この地域が神様の前に甚だ罪深くなった時に、この地へのさばきとして許可されたのだということがわかります。そうでなければ先住民の地に、侵略してよいということはなかったのです。神の民の戦は、神がよしとされるのでなければ、あり得なかったということです。

翻って、今日に見られる戦争の正当化は、どうなのでしょうか。神や、宗教、信仰を人間が自分の目的のために利用しているなら、それは過ちです。真の宗教は、むしろ自分自身が正しいのかを十分に顧みる所にあるのではないでしょうか。自分のために宗教を利用するようなことがあってはならないのです。

聖書全体をひもとくときに、悪を行うものは、神の民イスラエルであろうと、異邦の国々であろうと、神のさばきを受けて、高慢の鼻をへしおられるのでした。逆に、異邦の国であろうと、悪を行うイスラエルに対しては、神のさばきをあらわす国として用いられもするのです。また神のあわれみをあらわすために用いられることもありました。聖書が告げているのは、どの民族も、どの国も、その歩み自体を神から問われる存在なのだということです。

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