新船橋キリスト教会日記
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2011年3月30日水曜日
健全な自尊心
今日はヨブ記の31章を学びました。ヨブの最後の主張です。彼自身の善行の羅列です。こういうことを主張しうる人物が本当にいたのだろうか、という疑問も湧きますが、信じて読んでみます。
私たちはこれほど完全な人間にはなれないだろうと思います。でも今日一つ良いことを行えたなら、おごりたかぶるのではなく、自信をもっていいのではないでしょうか。30章には誰からも疎んじられているヨブの姿がありました。しかし同じ人物が、ただ自分の信念だけを頼りに、苦痛と闘い、神の善を信じ、自分を信じ、忍耐しているのです。そして想像を超えた神に出会っていく。
ヨブの言葉、その存在は、信じ難い人物なのに、今日の私を確かに励ましてくれる存在となっていきます。
2011年3月27日日曜日
預言者故郷に入れられず
今日3月27日の礼拝説教の聖書箇所はヨハネの福音書4章43節から54節でした。故郷では歓迎されないイエス様が、ガリラヤで歓迎され、王室役人の息子を癒し、この家族はイエス様を信じた。
この個所、私たちが人間的な関心で読みますと、わからなくなってしまう可能性があります。イエス様はある人を癒し、ある人を癒さないのか。神がおられるなら何故地上に病気で苦しむ人がいるのか。しかしイエスキリストには地上に来られた理由、働きの目的がありました。
聖書は初め息子の癒しのみ求めていた男が、次第にイエスキリストご自身の本当の姿に目覚めていく様をシンプルな言葉で示しています。イエスキリストが自分の息子を助けてくれた時、彼はこの方が単に病いを癒すだけのお方ではないということを悟るに至ったのです。彼は単に息子の病いを癒していただいただけでなく、家族ごと神のくださる永遠のいのちの恵みにあずかることとなったのです。
2011年3月23日水曜日
あなたはお答えになりません。
今日、夜の祈祷会は計画停電の時間帯に入っています。でもまだ電気、通じています。電気が落ちる前に今日のブログを投稿できますでしょうか。
今日はヨブ記の30章でした。ヨブの最後の主張、29章の幸いな過去の回顧と対を為す、現状の掘り下げ。かつて誰からも敬われた過去と対照的な、誰からも蔑まれている現状、そして、共におられた神が答えてくださらないように見える現状のつらさ。ヨブは神様が自分を「泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。」と現状を告げます。
この章ほど、先のヨブの妻の言葉にリアリティを与える章はないのではないでしょうか。「神を呪って死になさい。」
しかしヨブは苦しみに悶えながらも、信仰を手放さないのです。答えられないように見える神が答えてくださらないとは思わない。
そして聖書は、そのヨブの信仰の選択が間違っていなかったと私たちに教えています。どのような時にも善なる神様がおられることを否定する必要はないのだ。信じ続けることが間違っていないのだ、聖書はそう教えているのです。
2011年3月20日日曜日
一人として滅びることを願わない神
今日は近隣の五教会で講壇交換を行います。新船橋には行徳の山本真仕牧師が来てくださいます。ヨハネの福音書3章からメッセージしてくださいますが、山本牧師より聖書のテキストを伺って驚きました。今日、私が習志野台キリスト教会で扱う聖書のテキストと一緒だったからです。私たち五教会は千葉宣教区の中でもさらに親しい交わりを持っていますが、祈りの一致といいますか、御霊の一致といいますか、今、語らなければならないこと、同じ神様に導かれて、同じ言葉を与えられているのだと思いました。
私たちはこの世を造られた神様が、私たちを愛しておられることが分からなくなる時があります。神は怒っておられるのではないか?世を裁こうとしておられるのではないか?
聖書の中の小聖書と呼ばれるヨハネの3章16節はこう語ります。
「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。」
2011年3月16日水曜日
絶望してもおかしくないのに
今日は祈祷会でヨブ記29章を学びます。ヨブ記29章はヨブの幸いな過去の回顧です。子どもたちの命も、すべての財産も、自分自身の健康も奪われて、絶望してもおかしくないのに、幸いな過去を回顧するヨブは何を考えているのでしょう。つらい現実からの逃避とは異なるものが聖書から読み取れます。正しく歩んだ過去に対する自信を失わないことが、何もかも奪われてなお力強いヨブの姿です。
12節それは私が
助けを叫び求める貧しい者を助け出し、
身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
今日もわたしたちがよきわざを行うことができるように力をください。イエスの御名により。
2011年3月14日月曜日
目を上げて色づく畑を見なさい
3月13日はヨハネの福音書4章27節から42節を学びました。神様の御心に従った働きを為すことをご自身の糧とするイエス様。疲れ果ててしまいそうなわたしたちに、何を為せば働いていてもそこで力を得ることができるのか教えていただきました。体の限界を持った私たち。しっかり休み、しっかり食べて、養われる必要がありますが、しかし、このような時、「良き業」に励むことは疲れ果てることではない、そのような励ましをいただきました。
2011年3月9日水曜日
本当の知恵の所有者
本日の祈祷会ではヨブ記28章を学びました。前回からヨブの自分の格言を取り上げて語る言葉を学んでいます。28章はヨブの鉱物学でしょうか?古い書物でありながら、地上の生き物の目に触れることのない地下の世界、炭坑夫のような視点でヨブは知識を披露します。しかしそれはこれらのことを知っていてもなお自分は知恵を見つけることのできない者なのだと語るためでした。本当の知恵の所有者は神お一人である。いわゆる「無知の知」ということだと思いますが、肝心なのは、この認識のゆえに、ヨブが現在の自分に満足していることでしょう。納得出来ないことがある。でも自分は全てを悟ったものではないのだから、納得出来なくても仕方ない。色々な不幸を言い訳にせず、悪に手を染めない理由がある、そう信じて行動していることです。
2011年3月6日日曜日
決して渇かない水
本日の礼拝では一年間奉仕実習をしてくださったO実習生が立証してくださいました。大学一年生で母教会、母教団を離れての実習、初めてのことも多々ある中、精一杯やってくださいました。心から感謝いたします。
説教はヨハネの福音書4章。サマリヤの女。ぱっと見、不思議に思えるイエス様の言葉の一つ一つが、サマリヤ人女性に対する愛と配慮に満ちた言葉であることに驚かされました。
しかも暖かく包み込むような愛だけでなく、問題点に切り込む時の大胆さ。しかし、本当に彼女の救われることを願って、誠実にことを進めるイエス様の姿、その愛は私たちにも向けられたものであるのだと思いました。
もし今、現実の自分を受け入れることができず心の渇きを覚えているなら、イエス・キリストに求めてみませんか。イエス・キリストは「わたしがあなたを永遠に満たし続ける」そう言われ、実行されるお方なのです。
2011年3月2日水曜日
神学、言葉のうわっつら
今日の祈祷会はヨブ記27章でした。後半は悪を必ず裁かれる神への確信を語るヨブの言葉。同じことを語る友人たちと何が違うのか。ヨブ記も27章まで読み進めると、違いは明白です。いやそもそも違っていたのですが。
同じ言葉を語っていても、現実と格闘して中身のある希望の言葉を語る人がいます。同じ言葉を語っていても、人を傷つけ現実が見えていない人がいます。
自分はどちらだろうかと問われたことでした。
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