2013年10月30日水曜日

サウルが人々を遣わして、ダビデの家の見張りをさせた時

今日は詩篇59篇を学びました。表題にある出来事はサムエル記第一の19章に記されています。ダビデへの殺意を隠そうともしないサウルは、ダビデの家に刺客を送り、朝にはダビデを殺害しようとしたところ、妻ミカルがダビデを窓から逃がし、事無きを得たことですが、王に命をつけ狙われたダビデの心境、その不安や恐怖はいかばかりのことであったでしょうか。しかしそのような時にダビデは、逃げ出す手はずを考えるだけでなく祈って主の助けを確信し逃げおおせたということが重要です。危険や試練が襲って来たとき、私たちは人間的な救済手段を思いめぐらすだけでなく、すべてを支配しておられる神様の助けに信頼するため祈りを深める必要があります。
ダビデはゆえなく命を狙われていることを神様に訴えています。訴えもまた祈りです。神様はまどろむこともなく眠ることもない方ですが、しかし、目を覚ましてください、とダビデは祈ります。祈りの中で敵の姿が次第に変化して行き、誰をも恐れないように見える敵が、神によってさばかれる姿が見えてくるようになります。
救い出される前に、10節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。」とダビデは救いを確信しました。確信するまで祈る。そして、ダビデは最後、神をほめ歌うまでに変えられました。ダビデの生涯はこのような祈りが無意味でなかったことを私たちに教えているのです。

2013年8月14日水曜日

神の民こそさばかれる

今日は詩篇50篇を学びました。

1節、神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。6節には、天は神の義を告げ知らせるとあり、まことに神こそは審判者であるとあります。詩篇50篇のテーマは「神の審判」。人間を取り囲む、地と天が証人となって、その人の生き様を陳述するのですが、さばかれるのは誰か。

4節、神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せる。

神を崇めないものがさばかれるのではありません。神の民こそがさばかれる、信じていると言っている者が、神を礼拝していると言っている者が、その偽善をさばかれるというのです。

それゆえ偽善的な宗教行為ではなく、14節、真心からの感謝、神に対する誓いを果たす実践を伴った行動、そして、15節、神に対する信頼、これこそが必要だと読者を教えるのです。

いけにえをささげるということは旧約時代、神の民にとって重要な礼拝でした。しかし、それが真心からの感謝を伴ってささげられなければ、そして、神を礼拝して神の言葉に従う生活がなければ、責められさばかれる偽善に陥る危険性があったのです。

16節以降で批判される悪者も、主のおきてを語り、主の契約を口にのせる、見かけは神の民でした。ところが実質は聖書の命令を憎んでいる。それを投げ捨てて拾おうともしない。

最大の悪は、神を自分と等しい者だと思っている。創世記3章、人間の最初の罪も神のごとくなろうとする罪でした。自由を与えてくださった神様からのたった一つの戒めを破る、これによって創造主なる神、被造物なる人間のあるべき秩序を人は自ら破ったのです。

詩篇の表題にはアサフという名前があります。ダビデ時代の神殿礼拝、楽器演奏を担った人物であり、彼が手にしていたのはシンバルでした。シンバルは音楽の決定的な場面を演出する楽器です。神のさばきも、のべつまくなし表されるのではなく、神様は人間の歩みを忍耐深く見守っておられる。しかしその時代は永遠につづくものでなく、審判の時が来るのです。時代の流れにもクライマックスがあるのです。

聖書の言葉が真実であったことは歴史が証明しています。古代イスラエル王国は、神への反逆によって南北に分裂し、そのどちらもが帝国によって滅亡させられます。イエスの時代も、イエスの死後、ユダヤ戦争の時に、壊滅的に滅亡させられました。神の言葉に従わない、中身のない信仰は、滅びにつながったことを神の民イスラエルは身をもって証明したのでした。

すべてのことが明らかにされ、神の審判にさらされるとき、神の救いを見るものとさせていただきたいのですが、聖書を読むわたしこそまずその座に立たせられるということを覚えて歩みたいものです。

2013年8月7日水曜日

恐れ

どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。

今日は詩篇49篇を学びました。詩篇の詩人は「恐れなければならないのか」と問いかけているようでいて、かなりの恐れを覚えているようです。わざわいに会っており、また彼のことを悪意をもって中傷しようとする人がいる。しかも彼らの方が財産や富を誇りにして、不幸な私をあざけっているようにみえる。

動揺することです。そんな現実の中に身をおいてしまったならば。しかし詩人は言葉を紡ぎ続けます。神のくださる教訓に耳を傾けるのです。

12節「しかし人は栄華のうちにとどまれない。」

15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」

20節「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」

移ろい行くものに心奪われ、不安にさいなまれるものではなく、「悟り」を得て、恐れないものとされたいと願わされました。

2013年8月1日木曜日

大王の都

昨日は詩篇48篇を学びました。ソロモンの神殿が存在していた時の情景、しかし讃うべきは宮ではなく、そこにいます神。2節に不思議な言葉が登場します。北の端なるシオンの山は大王の都。古代オリエントの神話では、神々が北の山に住まうという、その神話を逆手にとって、天地万物の創造主なる唯一の神が住むシオンこそ、その「北の山」なのだ、神々ではなく、諸王でもなく、全宇宙に唯一の「大王の都」なのだと歌うのです。
しかし今やエルサレムの都はかつての姿を失っています。ユダヤの民はこの詩篇と現状を見比べた時に何を思うのでしょう。
イエスを信じる者には、マタイの6章の言葉が響いてきます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」神が装わせた野の百合の方が美しいと。まして人間は野の草よりも神に愛されていると。
またパウロは言います。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていると。
他ならぬわたしが神の霊を宿す事のできる尊い存在であること、忘れずに生きるものとさせていただきましょう。

2013年7月29日月曜日

最後の災いの予告

昨日は「最後の災いの予告」と題して、出エジプト記11章から学びました。主なる神様はこれまでに九つの災害をもってエジプトを打ちましたが、パロは心を頑にしイスラエルの民を解放しようとしません。しかし、この繰り返しも終わりの時が近づいていました。理由無くイスラエルの民を苦しめたパロ。悔い改めることなく、神に逆らい続けたパロにさばきがくだされる時がもうそこまで近づいていました。神様は、悪を行うパロをそのままに放っておかれる方ではないのです。地に正義を行われるお方なのです。また不思議にもイスラエルの民はエジプトにあってエジプトの民から好意を持たれていました。モーセもまた尊敬されていたと聖書は語ります。そして最後の災いにおいては家臣たちはもはやパロに嘆願せず、直接モーセに語りかけることになると言います。パロは人々の尊敬すら失い、徹底的に打ちのめされることになります。悪を放っておかれない神様、地に正義を実行される神様のことを知って、この神様に祝福される生き方を選びとりたいものです。

2013年7月11日木曜日

王の婚礼

詩篇45篇で詩人は王の婚礼をたたえて歌います。麗しい王の姿、それは「くちびるから優しさが流れ出る」様だと言います。イスラエルには減税を願う民を恫喝して、国を分裂においやる愚かな王がいました。しかし、一方で恵まれない者に憐れみを施す賢い王がいました。神からの祝福をしっかりと受け取っている王は、寛大なのです。高い地位にいるからということで、居丈高に振る舞わないのです。そして剣を身に帯び、威光に輝いている。しかし、その威光は「真理と柔和と義のため」でした。イスラエルの王はあくまで正義に立つことが重んじられていた。指導者が正義を重んじている、これはその国に住む者の幸不幸を分ける問題です。6節、7節は理解の難しい所がありますが、王が神に喜ばれてこそ、神の示す公正を重んじてこそ、王としての職務を果たしうることを歌っているのでしょう。詩人はさらに嗅覚、視覚、聴覚に訴えるシンボルを用いて、王を讃え、焦点を王妃に移していきます。王の婚礼において王の右に立つ王妃、どれほどの美しさであったことでしょうか。しかし詩人は美しさをたたえる前に、11節の教訓を伝えるのです。あなたの夫である王の前にひれ伏すなら、王はあなたの美を慕う、と。古代イスラエルにおいて、花嫁と花婿の関係は神と神の民との関係をあらわすものでした。そしてキリスト教会においては、キリストと教会の関係をあらわすもの。神の民が神の御前にひれ伏してこそ、民は神の愛顧をふんだんに受け、祝福されるのだということです。12節、異国の民も、国内の有力者も、王に愛される王妃におもねります。美しい衣装に身をまとった王妃は、喜ばしく王宮へ進んで行きます。結びは、王家の祝される様。この詩篇が42篇から続く試練の詩篇の後にあることが印象的です。神の民は試練の中で苦しみ祈るだけでない。やがて神とお会いする神の民であり、真の花婿の花嫁として、美しく飾られる日が来るのだとの幻、教えているのです。キリストの花嫁、教会もまた、この幸いな日を、いつか迎えるものなのです。

2013年6月27日木曜日

あなたの光とまこと、それらが私を連れて行きますように。

詩篇43篇は詩篇42篇と同じ結びの句を持っていますので、関連性を指摘する学者もいますが、内容には異なる側面もあります。1節、神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。とあるように、詩人は不当な扱いを受けて苦しみ、そこからの助けを神に祈り求めています。私たちの向き合う世界の現実は、天地創造の時の麗しい世界ではなく、人間が罪を犯した後の堕落した世界、そこには不公平、不公正もはびこっている、そういうものと私たちは向き合わなくてはならないということを教えられます。その時に、だから正義の神はいないのだ、信仰なんてもっても無意味なのだという無神論に陥らないように、不条理を見ても、不条理の中でも、やがて正義の神が真実をあらわしてくださるということを信じる信仰の中に自分を保つために、詩篇43篇のような祈りを祈り続ける必要があるのです。この詩篇を自分の祈りとして祈る人は、信仰の中に自分を保つのです。2節、あなたは私の力の神。詩人は神との関係性の中で神に祈ります。神は特別な意味で「私の神」なのです。先日の主日説教でも神が契約のゆえにイスラエルを救われるとの言葉を学びました。詩人もこの神を私の神とした、自分を神の民とした、その契約に基づいて神の応えを求めているのです。信じると約束したその約束は祈りの答えを確かにするものです。しかし、神様が自分を拒んでいるように感じられる、私は敵の辱めを受けている、このことをどう理解したらよいか。契約は破棄されていません。祈り求めれば良いのです。何を求めるか。3節、この時の詩人も公の礼拝、都エルサレムの神殿での礼拝から遠ざけられている状況にありました。しかし、神様が光とまことを送り、詩人をエルサレムへ連れ帰ってくれるように、願ったのです。回復の時を祈りのうちに思い描くことも私たちの忍耐の助けになります。4節、かつての神殿礼拝を思い起こしながら、未来を思い描いて詩人はがっくりときている自分の心をを叱咤激励したのでした。
5節「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
   なぜ、私の前で思い乱れているのか。
   神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
   私の顔の救い。私の神を。」
神様はやがて顔と顔を合わせて相まみえるように、親密な交わりを回復してくださる、そのことを信じて詩人は祈りを終えたのでした。