2013年12月11日水曜日

おお牧場は緑

今日は詩篇65篇を学びました。これまでは戦いや試練の詩篇が続いていましたが、詩篇65篇は、神の前に静まり、また賛美し、罪赦されたものとして礼拝の恵みにあずかる、平安の詩篇です。5節から8節では、驚くべき自然界の姿も、神の支配の中にあることが歌われ、9節以降は、地に水を注がれる神、穀物を与えてくださる神、自然の恵みが豊かに歌われていました。「おお牧場は緑」を歌いたくなりましたので、調べてみましたら、なんと訳者は中田羽後先生、ヘンデルのメサイア他、おびただしい聖歌を翻訳された教会音楽家の氏が、NHK「みんなの歌」の一番最初に歌われたものを訳詞されていたとは驚きです。そして筆者は個人的に推測します。「おお牧場は緑」を訳される時に、中田羽後先生は詩篇65篇の言葉など、頭の中にあったのではないかと。

2013年12月4日水曜日

苦いことばの矢

今日は詩篇64篇を学びました。今日の詩篇も敵との戦いの中にある詩人の祈りですが、敵の姿が3、4節に描写されています。
「苦いことばの矢を放っています。」
ところが、詩の後半7節で、今度は、神様が、その人々に向かって同じように矢を射掛けられるという。
不法に人を傷つける言葉を吐く輩は、その仕打ちが我が身にかえってくるということでしょう。
詩篇は詩篇を自分の祈りとして祈るだけでなく、そこに登場する悪者に自分は該当していないか、ということを問われる言葉でもあります。それぞれの置かれた立場を思いやる事もなく、自分の立場から勝手な文句ばかり口にして、人を不用意に傷つけていないか。自分を顧みさせられたことでした。

2013年11月29日金曜日

年老いて

私たちの教会では、毎月第四木曜日の午前、ピレモンへの手紙を学んでいます。教科書は「ピレモンへの手紙講録」(小畑進著、いのちのことば社刊)。昨日は十五、白頭掻けば、まで進みました。自分のことを年老いて、と描写するパウロ。イエス・キリストに出会う前の熱心なユダヤ教徒であったパウロと、逃亡奴隷のとりなしのために言葉を尽くす老境のパウロ。イエス・キリストに出会うということが、人間をどれほど変えるのか、愛の人とするのか、思い知らされたことですが、年老いてとは何歳を指すのか。注にあげられた聖書解釈者たちの諸説に注目が集まりました。「先生はどこに入る?」「わたしはどこに入る?」メンバーはみなパウロの言う”プレスブテース”を遥かに超えた”ゲローン”にあたるということがわかりました。パウロもまだ若い?いえいえ、伝道者生涯を駆け抜けて、最後はローマで時を過ごしている彼は、肉体の衰えを日々痛感していたのでしょう。しかしその中で、また新しく生まれたクリスチャン、逃亡奴隷オネシモのために、骨折る労をいとわなかったのです。

2013年11月27日水曜日

荒野を聖所とする

詩篇63篇は、ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに、と記されています。それだというのに、2節では「聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」と歌われています。ダビデは荒野にいるのか?聖所にいるのか?そう問いかけると、ダビデは荒野を聖所に変えたのだ。それは彼の神を求める切なる思いがもたらしたものなのだと教えられます。多くの注解者がこの詩篇を高く評価するのもうなづける所です。詩篇63篇は神との交わりをこそ求める詩人の美しい信仰の思いに溢れているからです。エルサレムに神殿の建設される前のこと。おそらくダビデ試練の中の逃亡生活が背景にあると思われますが、彼は荒野に祈りの宮を築いたのでした。私たちも、神を求める思いさえあれば、どのような場所をも聖所とすることができるのです。詩篇に教えられ、神との豊かな交わりの中を生きるものとさせていただきましょう。

2013年11月20日水曜日

王となってからのダビデ

 ダビデの前半生はサウル王に命を狙われる危険という試練がありましたが、後半生は、姦淫の罪を犯した後、罪は赦されますけれど、家庭内の問題が子どもたちの王位継承権争いにつながり、またまた大変な試練を経験します。最終的にはソロモンに王位を渡し、神殿建設準備を成し遂げて、地上を去るダビデは、一人の罪人でありながら、神様と共に歩み続けた、やはりイスラエル最高の王様、詩篇62篇はそのダビデの祈りの世界を伝えているのでしょう。
 3節、命の危険がある。4節、彼を王位から突き落とそうとする人々がいる、この困難な時を、彼は祈りで乗り切りました。
 1節、私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
 彼は試練の時もまた神様の支配の中にあることを信じていましたから、やがて神様の御心の時には、救いが訪れるだろうと信じる信仰に立つことを選び、黙したのです。人につぶやかない。自分で策をろうしない。アブシャロムと戦わずに逃げたダビデは、賢明な信仰の道を選んだと言えるでしょう。
 2節、神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。やぐらと訳されている言葉は、要塞です。古代イスラエルの要塞の遺跡は、石造りの堅固な城とも言えるようなもの。これならば敵との戦いに役立つだろう。しかし、ダビデは今、その要塞で敵を迎え撃つことが勝利につながるとは考えていませんでした。サウルから逃亡した時に、どこに逃げても、目に見えない神ご自身より頼りになるお方はいないと確信したダビデは、人生の後半で、もう一度、その信仰に立つ祈りをささげ、確信を深めたのでした。11節、神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。という言葉は、神の教訓が昔から変わらないこと、しかし、人はその教訓を、経験のごとに、確かな信仰へと変えていくものなのだと教えられます。
 王であるダビデが10節、圧制にたよらなかったこと、略奪をも繰り返さなかったこと、富にもより頼まなかったことは、大変、知恵深い道と言えるでしょう。この世の多くの権力者が、おのれの力に頼り、富に頼り、滅んでいくことと、実に対照的なのです。

2013年11月6日水曜日

ダビデ北方遠征中に

今日は詩篇60篇を学びました。この詩篇は、ダビデの王権が確立する直前、エドムに勝利する戦の少し前の状況を背景としているようです。サムエル記第二を見ますと、勝利のみ記されていますが、困難な状況を経ての勝利だったようです。1〜3節では、神に拒絶されている様子、大地が揺らぎ、主の癒しを必要としているような、地震でもあったのでしょうか。そして3節、苦難をなめさせられている。よろめかす酒を飲まされた、とは、足がふらついて立つこともままならないような、試練、恐怖が彼らを襲っていたことを推測させます。
しかし、4節、主は主を恐れる者のために旗を残された。本丸はまだ落ちていない。振り仰げば力を得られる助けがある。
その希望通りに、5節、詩人が助けを求めると、6節、聖所から主の勝利の約束の言葉が与えられます。
9節から、しかしイスラエルは辛酸をなめました。おそるおそる戦いに主が同行されるのかと問いかけます。しかしこれは不信仰、疑いではありません。主が共にいてくださらなければ、戦うことはできない、主よ共にいてくださいという祈りです。
だから結論、11節、人の救いはむなしい。12節、神によって、私たちは力ある働きをします。と信仰を告白するのです。
イスラエルは勝利に酔いしれて、神によりたのまなくなっていたのでしょうか。成功の時に、それを自分の力のゆえであるかのように過信することが、私達にはあるのです。しかし、多くの状況が神様によって整えられることなしには、私たちの成功は存在しないのです。
神によって、力ある働きをする、人生の秘訣をこころえたいものです。

2013年10月30日水曜日

サウルが人々を遣わして、ダビデの家の見張りをさせた時

今日は詩篇59篇を学びました。表題にある出来事はサムエル記第一の19章に記されています。ダビデへの殺意を隠そうともしないサウルは、ダビデの家に刺客を送り、朝にはダビデを殺害しようとしたところ、妻ミカルがダビデを窓から逃がし、事無きを得たことですが、王に命をつけ狙われたダビデの心境、その不安や恐怖はいかばかりのことであったでしょうか。しかしそのような時にダビデは、逃げ出す手はずを考えるだけでなく祈って主の助けを確信し逃げおおせたということが重要です。危険や試練が襲って来たとき、私たちは人間的な救済手段を思いめぐらすだけでなく、すべてを支配しておられる神様の助けに信頼するため祈りを深める必要があります。
ダビデはゆえなく命を狙われていることを神様に訴えています。訴えもまた祈りです。神様はまどろむこともなく眠ることもない方ですが、しかし、目を覚ましてください、とダビデは祈ります。祈りの中で敵の姿が次第に変化して行き、誰をも恐れないように見える敵が、神によってさばかれる姿が見えてくるようになります。
救い出される前に、10節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。」とダビデは救いを確信しました。確信するまで祈る。そして、ダビデは最後、神をほめ歌うまでに変えられました。ダビデの生涯はこのような祈りが無意味でなかったことを私たちに教えているのです。

2013年8月14日水曜日

神の民こそさばかれる

今日は詩篇50篇を学びました。

1節、神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。6節には、天は神の義を告げ知らせるとあり、まことに神こそは審判者であるとあります。詩篇50篇のテーマは「神の審判」。人間を取り囲む、地と天が証人となって、その人の生き様を陳述するのですが、さばかれるのは誰か。

4節、神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せる。

神を崇めないものがさばかれるのではありません。神の民こそがさばかれる、信じていると言っている者が、神を礼拝していると言っている者が、その偽善をさばかれるというのです。

それゆえ偽善的な宗教行為ではなく、14節、真心からの感謝、神に対する誓いを果たす実践を伴った行動、そして、15節、神に対する信頼、これこそが必要だと読者を教えるのです。

いけにえをささげるということは旧約時代、神の民にとって重要な礼拝でした。しかし、それが真心からの感謝を伴ってささげられなければ、そして、神を礼拝して神の言葉に従う生活がなければ、責められさばかれる偽善に陥る危険性があったのです。

16節以降で批判される悪者も、主のおきてを語り、主の契約を口にのせる、見かけは神の民でした。ところが実質は聖書の命令を憎んでいる。それを投げ捨てて拾おうともしない。

最大の悪は、神を自分と等しい者だと思っている。創世記3章、人間の最初の罪も神のごとくなろうとする罪でした。自由を与えてくださった神様からのたった一つの戒めを破る、これによって創造主なる神、被造物なる人間のあるべき秩序を人は自ら破ったのです。

詩篇の表題にはアサフという名前があります。ダビデ時代の神殿礼拝、楽器演奏を担った人物であり、彼が手にしていたのはシンバルでした。シンバルは音楽の決定的な場面を演出する楽器です。神のさばきも、のべつまくなし表されるのではなく、神様は人間の歩みを忍耐深く見守っておられる。しかしその時代は永遠につづくものでなく、審判の時が来るのです。時代の流れにもクライマックスがあるのです。

聖書の言葉が真実であったことは歴史が証明しています。古代イスラエル王国は、神への反逆によって南北に分裂し、そのどちらもが帝国によって滅亡させられます。イエスの時代も、イエスの死後、ユダヤ戦争の時に、壊滅的に滅亡させられました。神の言葉に従わない、中身のない信仰は、滅びにつながったことを神の民イスラエルは身をもって証明したのでした。

すべてのことが明らかにされ、神の審判にさらされるとき、神の救いを見るものとさせていただきたいのですが、聖書を読むわたしこそまずその座に立たせられるということを覚えて歩みたいものです。

2013年8月7日水曜日

恐れ

どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。

今日は詩篇49篇を学びました。詩篇の詩人は「恐れなければならないのか」と問いかけているようでいて、かなりの恐れを覚えているようです。わざわいに会っており、また彼のことを悪意をもって中傷しようとする人がいる。しかも彼らの方が財産や富を誇りにして、不幸な私をあざけっているようにみえる。

動揺することです。そんな現実の中に身をおいてしまったならば。しかし詩人は言葉を紡ぎ続けます。神のくださる教訓に耳を傾けるのです。

12節「しかし人は栄華のうちにとどまれない。」

15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」

20節「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」

移ろい行くものに心奪われ、不安にさいなまれるものではなく、「悟り」を得て、恐れないものとされたいと願わされました。

2013年8月1日木曜日

大王の都

昨日は詩篇48篇を学びました。ソロモンの神殿が存在していた時の情景、しかし讃うべきは宮ではなく、そこにいます神。2節に不思議な言葉が登場します。北の端なるシオンの山は大王の都。古代オリエントの神話では、神々が北の山に住まうという、その神話を逆手にとって、天地万物の創造主なる唯一の神が住むシオンこそ、その「北の山」なのだ、神々ではなく、諸王でもなく、全宇宙に唯一の「大王の都」なのだと歌うのです。
しかし今やエルサレムの都はかつての姿を失っています。ユダヤの民はこの詩篇と現状を見比べた時に何を思うのでしょう。
イエスを信じる者には、マタイの6章の言葉が響いてきます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」神が装わせた野の百合の方が美しいと。まして人間は野の草よりも神に愛されていると。
またパウロは言います。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていると。
他ならぬわたしが神の霊を宿す事のできる尊い存在であること、忘れずに生きるものとさせていただきましょう。

2013年7月29日月曜日

最後の災いの予告

昨日は「最後の災いの予告」と題して、出エジプト記11章から学びました。主なる神様はこれまでに九つの災害をもってエジプトを打ちましたが、パロは心を頑にしイスラエルの民を解放しようとしません。しかし、この繰り返しも終わりの時が近づいていました。理由無くイスラエルの民を苦しめたパロ。悔い改めることなく、神に逆らい続けたパロにさばきがくだされる時がもうそこまで近づいていました。神様は、悪を行うパロをそのままに放っておかれる方ではないのです。地に正義を行われるお方なのです。また不思議にもイスラエルの民はエジプトにあってエジプトの民から好意を持たれていました。モーセもまた尊敬されていたと聖書は語ります。そして最後の災いにおいては家臣たちはもはやパロに嘆願せず、直接モーセに語りかけることになると言います。パロは人々の尊敬すら失い、徹底的に打ちのめされることになります。悪を放っておかれない神様、地に正義を実行される神様のことを知って、この神様に祝福される生き方を選びとりたいものです。

2013年7月11日木曜日

王の婚礼

詩篇45篇で詩人は王の婚礼をたたえて歌います。麗しい王の姿、それは「くちびるから優しさが流れ出る」様だと言います。イスラエルには減税を願う民を恫喝して、国を分裂においやる愚かな王がいました。しかし、一方で恵まれない者に憐れみを施す賢い王がいました。神からの祝福をしっかりと受け取っている王は、寛大なのです。高い地位にいるからということで、居丈高に振る舞わないのです。そして剣を身に帯び、威光に輝いている。しかし、その威光は「真理と柔和と義のため」でした。イスラエルの王はあくまで正義に立つことが重んじられていた。指導者が正義を重んじている、これはその国に住む者の幸不幸を分ける問題です。6節、7節は理解の難しい所がありますが、王が神に喜ばれてこそ、神の示す公正を重んじてこそ、王としての職務を果たしうることを歌っているのでしょう。詩人はさらに嗅覚、視覚、聴覚に訴えるシンボルを用いて、王を讃え、焦点を王妃に移していきます。王の婚礼において王の右に立つ王妃、どれほどの美しさであったことでしょうか。しかし詩人は美しさをたたえる前に、11節の教訓を伝えるのです。あなたの夫である王の前にひれ伏すなら、王はあなたの美を慕う、と。古代イスラエルにおいて、花嫁と花婿の関係は神と神の民との関係をあらわすものでした。そしてキリスト教会においては、キリストと教会の関係をあらわすもの。神の民が神の御前にひれ伏してこそ、民は神の愛顧をふんだんに受け、祝福されるのだということです。12節、異国の民も、国内の有力者も、王に愛される王妃におもねります。美しい衣装に身をまとった王妃は、喜ばしく王宮へ進んで行きます。結びは、王家の祝される様。この詩篇が42篇から続く試練の詩篇の後にあることが印象的です。神の民は試練の中で苦しみ祈るだけでない。やがて神とお会いする神の民であり、真の花婿の花嫁として、美しく飾られる日が来るのだとの幻、教えているのです。キリストの花嫁、教会もまた、この幸いな日を、いつか迎えるものなのです。

2013年6月27日木曜日

あなたの光とまこと、それらが私を連れて行きますように。

詩篇43篇は詩篇42篇と同じ結びの句を持っていますので、関連性を指摘する学者もいますが、内容には異なる側面もあります。1節、神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。とあるように、詩人は不当な扱いを受けて苦しみ、そこからの助けを神に祈り求めています。私たちの向き合う世界の現実は、天地創造の時の麗しい世界ではなく、人間が罪を犯した後の堕落した世界、そこには不公平、不公正もはびこっている、そういうものと私たちは向き合わなくてはならないということを教えられます。その時に、だから正義の神はいないのだ、信仰なんてもっても無意味なのだという無神論に陥らないように、不条理を見ても、不条理の中でも、やがて正義の神が真実をあらわしてくださるということを信じる信仰の中に自分を保つために、詩篇43篇のような祈りを祈り続ける必要があるのです。この詩篇を自分の祈りとして祈る人は、信仰の中に自分を保つのです。2節、あなたは私の力の神。詩人は神との関係性の中で神に祈ります。神は特別な意味で「私の神」なのです。先日の主日説教でも神が契約のゆえにイスラエルを救われるとの言葉を学びました。詩人もこの神を私の神とした、自分を神の民とした、その契約に基づいて神の応えを求めているのです。信じると約束したその約束は祈りの答えを確かにするものです。しかし、神様が自分を拒んでいるように感じられる、私は敵の辱めを受けている、このことをどう理解したらよいか。契約は破棄されていません。祈り求めれば良いのです。何を求めるか。3節、この時の詩人も公の礼拝、都エルサレムの神殿での礼拝から遠ざけられている状況にありました。しかし、神様が光とまことを送り、詩人をエルサレムへ連れ帰ってくれるように、願ったのです。回復の時を祈りのうちに思い描くことも私たちの忍耐の助けになります。4節、かつての神殿礼拝を思い起こしながら、未来を思い描いて詩人はがっくりときている自分の心をを叱咤激励したのでした。
5節「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
   なぜ、私の前で思い乱れているのか。
   神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
   私の顔の救い。私の神を。」
神様はやがて顔と顔を合わせて相まみえるように、親密な交わりを回復してくださる、そのことを信じて詩人は祈りを終えたのでした。

2013年6月20日木曜日

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように

昨日は詩篇42篇を学びました。この詩篇は何らかのかたちで公の礼拝に出る事が妨げられている信仰者の神との交わりへの渇望を謳った詩篇です。神の御前に出ることができない、人からの罵りがある。しかし、彼は信仰を弱らせるのではなく、かつての礼拝の喜びを思い出して、自分のたましいを叱咤激励するのです。6節から、詩人の訴えは、一層、激しさを増し、神からの隔たりを、ヘルモンの地になぞらえ、雪解けの濁流が、自分を飲み尽くそうとしている、今の試練に押し流されそうな自分を、神に訴えるのでした。8節のみがこの暗闇の詩篇に一筋の光明を投げかけています。「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。」思い起こせば、昔も今も、主の恵みを数えることができる。恵みを数えれば、感謝の歌が生まれて来る。しかしだからこそ今の不自由を詩人は神に訴えずにはおれないのです。9節、10節で心情の吐露は最も深い地点に到達します。敵の罵りは「私の骨々が打ち砕かれるほど」身体の奥まで痛みが到達するほどの痛みを彼にもたらすものでした。しかし、心情の吐露は、祈りの終焉を導きます。ほぼ5節に等しい自分のたましいへのよびかけが繰り返され、祈りは終わっていきます。ただし5節の結びは「御顔の救いを。」となっていたものが、11節の結びでは「私の顔の救い、私の神を。」となっています。神が御顔を見せて救ってくださる。この神が御顔を見せてくださる時、私の顔と、顔を相まみえさせて、親密な交わりを回復して下さる、これが詩人の待望した救いでした。旧約聖書において、モーセは神との親密な交わりを持ったと言われています。新約聖書において、主イエス・キリストの来臨の時には、私たちは顔と顔を合わせてまみえると言われています。信じる者と親密な交わりを持ってくださるキリスト、この方にやがてお会いする日が来る事を待望して、今日を生きるものとさせていただきましょう。

2013年6月12日水曜日

ソロモンの堕落

本日は列王記第一の11章より、ソロモンの堕落を学びました。700人の王妃としての妻と300人のそばめがいた。彼の生活はどんなものだったのか、想像もつきません。この時代、王が政略結婚をし、外国との和平を講じることはありうることであったと言い訳ができるかもしれません。そして年を取るまでは、大勢の妻達のいいなりになることもなく、その知恵によって切り盛りしていたのかもしれません。しかしソロモンのように知恵深い人であっても、晩年、彼の信仰は、堕落してしまいました。妻達に誘われて、異教の神々を礼拝するようになったと聖書は語ります。シドン人の神アシュタロテは、バアルの妻で多産と快楽の神。その神殿には神殿娼婦がいたといいます。そういう宗教に関わったということは、ソロモン自身そういう行動に身を委ねたということでしょう。またミルコム、ケモシュはいずれも人身供具を要求する戦の神。戦いに勝利するために子どもを生け贄としてささげる忌まわしい宗教でした。そういう神々に従ったということは、そういう考え方を肯定したということ。およそ神に喜ばれることとはほど遠い晩年でした。そして主はソロモンを戒めるために、彼に二度も現れたと言います。それなのにソロモンの悔い改めは一切記されていません。罪は犯したけれども即座に否を認め悔い改め罰を受けた彼の父ダビデとは大違いでした。ソロモンの罪ゆえ、栄えたイスラエル王国は、今後、分裂の憂き目を見ることになったのです。南からはエドム人ハダデが、北からはエリヤダの子レゾンが、イスラエルに敵対する勢力となり、ついにネバテの子ヤロブアムも登場し、ソロモンの死後、蜂起することになります。

2013年6月5日水曜日

シェバの女王

本日は列王記第一10章より、シェバの女王のソロモン訪問を学びました。神殿を建設し、王宮を建設し、町々を建設し、さらに外交、交易も祝福されて、イスラエルの歴史は空前絶後の繁栄に到達します。この記録の中で、1節「主の名に関連して」シェバの女王はソロモンに関心を抱いたこと。9節「主がイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。」と評価していること、24節「神が彼の心に授けられた知恵」を人々は聞きたがったことなどが注目に値します。並外れた知恵を持ち、並外れた富を所有し得たソロモンも、その祝福の源は、神と共に歩んでこそであったと聖書は伝えているのです。その証拠に、列王記は次の章で、偽りの神々によって真の神から離れてしまったソロモンには、さばきの宣告がくだされるのです。目に見えぬ神の御心に従ってこそ祝福がある。私達の今日の歩みは、天におられる真の神のみこころにかなう歩みなのでしょうか。問われるところです。

2013年5月29日水曜日

ソロモンの祈りへの神の応え

今日は列王記第一の9章を学びました。9章はソロモンの祈りに対する神様の応えで始まります。聖書の神様は、真心からの祈りと礼拝に応えられる神様です。そして、御言葉に従うなら王国の王座は永遠に確立する、しかしそうでなければ神殿も民も投げ捨てる、イスラエルは諸国の物笑いとなり、なぶりものになるとの約束の言葉が与えられました。聖書の神様は、決してイスラエル民族に対する無条件の神ではなく、神に従うものを祝される、正義の基準を持っておられるお方でした。聖書の歴史は人が主役ではなく、人の歩みを見つめる神ご自身が確かにおられるのです。章の後半は、様々な事業を成し遂げ、神様の祝福をいっそう確かなものとするソロモンの歩みが記されています。神様は、神様を礼拝し、御言葉を守り行う彼と彼の民を、確かに祝福しておられたのです。

2013年5月19日日曜日

若き日のモーセ

今日は、若き日のモーセと題して出エジプト記2章からメッセージをしました。若き日のモーセと言っても、0歳から80歳までですから、イスラエルを救う指導者として立つ前のモーセと言った方が精確かもしれません。神様に守られて、パロの娘の子として成長することがゆるされたモーセの誕生も、印象深い物語ですが、大人になったモーセが迫害されている同胞に同情するあまり、エジプト人を殺害してしまい、エジプトに居れなくなってしまうことは、非常に興味深いことです。同胞を救いたいというモーセの若き日の願いは挫折したのでした。彼の行動は、パロの敵意をかっただけでなく、同胞にも理解されないものであった。恐怖と失意の中で、モーセはミデヤンの地に逃れたことでしょう。そこで、同胞を救うなどという夢は捨てて80歳の時を迎えようとする。砕かれたモーセでした。しかし、このモーセが、後に謙遜なリーダーとして使命を成し遂げる。若き日の失敗は、神様のご計画の中にあって決して無駄なものではありませんでした。失敗を乗り越えてこそ、用いられる器になる、私たちを用いようとしておられる神様に期待させていただきましょう。

2013年5月15日水曜日

ソロモン王の宮殿建設

今日は列王記第一の7章、ソロモン王の宮殿建設を学びました。6章38節、神殿建設が7年しかかからなかったのに、自分の居場所、宮殿のためには13年かけた。その大きさも2節によると神殿よりも広い。ソロモンは神よりも自分を大切にしたのか、と誤解しそうになりますが、そうではありません。神殿建設を何よりも重要なことと考えた彼は、先の7年で神殿を建設し、宮殿は後回しにしたということなのです。広さは広いですが、その記述は12節までで終わるおおざっぱなものです。7章のほとんどの部分は、神殿の周囲にあるもの、また神礼拝に用いられる青銅の製品についてのおびただしい記録になり、これらのものが完成して、主の宮のための工事終了が宣言されます。イスラエルは確かに祝福され、金がふんだんに用いられた神殿、レバノン杉がふんだんにもちいられた宮殿、そこに必要な様々な道具、滞りなく作ることができたのでした。列王記という書物が完成したのは、イスラエル王国が滅んだ後のことです。かつては神と共に歩む王、ダビデ、ソロモンの時代に、本当に神様はイスラエルと共にいて祝福してくださった。そのことを胸に刻むことは、なぜその祝福を失ったのかという深い反省、悔い改めにつながっていく歴史を通してのメッセージなのです。

2013年5月8日水曜日

ソロモンの神殿建設

今日は列王記第一の6章より、ソロモン王の神殿建設を学びました。まず1節で出エジプト以来の年月が数えられていることに注目させられます。約束の地を与えるとの神様の約束が、ただの土地の所有だけでなく、1つの国民として繁栄をゆるされて、神殿建設にまでこぎつけたことを聖書の記述者は覚えているわけです。アブラハムからおよそ1000年、モーセからおよそ500年、目に見えない神様の忍耐深い導きを覚えさせられると同時に、またその神を信じて歩んだイスラエルの民の信仰も教えられます。そして、2節から10節までは神殿の各部分のサイズ、14節から36節は内装その他。神殿の目に見える部分の概要が記録されている、その記述の間にはさまって、11節から13節のもっとも重要な主の言葉が記録されています。「…もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、…。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」神殿は、幕屋を受け継いだ「神、ここに居ますしるし。」しかし、しるしはしるしであって、その本質は「御言葉」を守り行う神の民と、神は共にいてくださる、その本質は忘れてはならないことでした。神の言葉に聴いて従い行う、信仰の生活の実質があってこそ、神は共におられるお方なのでした。ですから、ソロモンの晩年の堕落、偶像礼拝は王国に分裂をもたらし、やがて国は滅亡の時を迎えるのです。

2013年4月17日水曜日

知恵を求める

本日は列王記第一の3章、ソロモンがその治世の初めにあたって、主に知恵を求めたことを学びました。王とされたから、我が物顔に振る舞う、ではなく、王であるからこそ、正しく判断する知恵をいただかなくてはならないと考えたソロモンの願いは、神様の御心にかない、ソロモンは、求めた知恵をいただき、富も誉れも約束されたものとなります。神様が、ソロモンの願わなかったものを列挙している言葉も、示唆にとんでいます。自分のための長寿、自分のための富、敵のいのち、王が欲するもの、しかし、これらは第一に求めるべきものではなかったということです。そして、聖書は、ソロモンが具体的にどのように知恵を働かせたかを述べます。上に立つ人に求められる資質は何なのでしょう。上に立つからこそ、その上におられる神を恐れる知恵、これが重要なのです。

2013年4月10日水曜日

ソロモンの王政の始まり

本日は列王記第一の2章、ダビデの死とソロモン王政の始まりを学びました。多くのことが語られていますが、メインは、ヨアブ、シムイ、アドニヤ、エブヤタルの処分でしょう。
ダビデの時代に不問いにされてきた彼らの行為について、ふさわしく対処するようにとダビデは遺言を残します。また先に命拾いしたアドニヤは、不穏な動きを見せたために処刑されます。
現代の私達からしたら王が変わっただけで処刑される人たちがいるということに、それは正当な理由があったのか、とまどいを覚える箇所ですが、だからこそ事実が何を語るのか深く考えさせられることです。
ダビデ王の時代に確かに有能で役割を果たしたヨアブでしたが、彼の冷酷さは、ソロモンの治世にはふさわしくないと判断されます。シムイのダビデに対する敵意は、ダビデの時代には見逃されましたが、要注意人物であることは変わらず、自ら犯した過ちの中で、彼も処分されます。エブヤタルもアドニヤに加担した罪を問われ、祭司職を解かれて行きます。アドニヤは、なぜ父のそばめを手に入れようとしたのか。その思いをソロモンに知られるような過ちを犯したのか。確かに王位継承権を持つという身分はそうかもしれませんが、その立場の微妙さをわきまえない愚かな行為でした。
そしてこれらの処分はソロモンの王国確立のためには必要であったということです。
しかして私達は、主イエス・キリストの救いによって永遠のいのちをいただき神の国に入れられて行くもの。しかし、自分の振る舞いが、やがて確立する神の国の支配に対してふさわしいものであるかどうか。
御言葉に導かれ、御霊に導かれて、賢く正しい道を選択したいものです。

2013年3月11日月曜日

ユダの誕生

昨日はユダの誕生と題して創世記29章からメッセージをしました。アブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの息子、第4男のユダです。ヤコブの嫁探しは、彼の父イサクの嫁探しと比較すると、大違いのぎこちなさ、困難に遭遇するものとなりました。アブラハムのしもべがリベカと出会ったのと共通するのは井戸端ということだけ。ヤコブは土地の風習も知らず、勝手に石のふたをころがし、羊に水を飲ませます。リベカがどのように振る舞うのか、じっと見ていたアブラハムのしもべとは対照的です。用件を話すまで食事をとらず、用が済むと翌朝旅立った、これに比較しても、いきなりあらわれて、一ヶ月も滞在したヤコブは、大変な目にあうことになるのです。約束の7年の労働の後に、初夜を共にした女性は愛するラケルでなく、姉のレアでした。ラバンに言いくるめられて、ラケルのためにもう7年労働することになります。父を騙し、兄を出し抜いたヤコブは、今度は叔父に騙される。人にした悪は自分に返ってくるのです。神様の公平さはレアとラケルという2人の姉妹にもあらわされます。美貌やスタイルは異なっていました。神様は私たち人間の一人一人に、異なったものを与えておられるのです。不平不満を言っていては自分が不幸になるばかりです。しかしヤコブがレアに愛情を注がなかったということについては別でした。神様はこれをあわれんで、レアに最初の4人の男の子を与えていくのです。その名付けにレアの心境の変化があらわれています。3人の息子までは、夫から愛されることを切に願っていた彼女の心の痛みがうかがえます。しかし、4人目が生まれた時に彼女は、ただ神様をほめたたえるものと変えられていました。神様は、悲しんでいる者の悲しみを聴き、慰めを与えられるお方なのです。そしてヤコブの意図しない所で、彼の家族が大家族になっていく、神様の約束の実現は着々と進んでいたのでした。彼の父イサクの見なかった壮大なスケールの神の祝福、約束の実現を、ヤコブは苦労の人生の果てに見るものとなっていくのです。

2013年3月6日水曜日

神を恐れて治める者は

今日はサムエル記第二23章からダビデの最後の言葉を学びました。「主の霊は私を通して語り」と霊感を強調するダビデが語った帝王学は、「神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光」と歌います。地上の王国イスラエルを繁栄に導いた最大の立役者ダビデ王の信念、神から教えられたことは、神を恐れて国を治める王こそ、国に繁栄をもたらす、若草を勢いよく成長させる陽の光であると言っているのです。
人の上に立つ指導者が、その行動の動機をどこに持っているか、これが重要です。民意をくみとることは、民主主義の社会においては当然のことでしょうが、しかし、上に立つ指導者に必要なのは正義。反対者がいても信念を貫ける、目に見えない神を恐れて、民のために行動する者、そのようなリーダーがいてこそ、民草は陽の光を受けて育つ初夏の植物のように、それぞれの力を発揮して、結果、国が栄えるということなのでしょう。
私たちの住むこの国もそのような国であることを願うものです。

2013年3月3日日曜日

ヤコブの梯子

本日はヤコブのはしごと題して創世記28章のメッセージをしました。欧米では雲間から太陽光が地上に注ぐ様を指してヤコブの梯子と言うそうです。その謂れが創世記28章の事件です。
兄に憎まれベエル・シェバの家を出なくてはならなくなったヤコブ。彼は母の兄ラバンの家を目指しておよそ800キロの旅にでます。彼の祖父が彼の母を嫁として連れ帰る旅は、らくだ十頭、贈り物と従者を携えての用意周到なものでしたが、ヤコブは身一つ。食べ物も着物も、旅先で神様が与えてくださると願うしか無い、心細い一人旅でした。そんな徒歩の旅、一日か二日いかないうちに、彼は神様からすばらしい夢を見せていただき、すばらしい約束の言葉をいただくのです。
神が人に夢を見せるだろうか、神が人に言葉を語りかけるだろうか。現代人はそんなことも考えるかもしれませんが、聖書の証言によると、彼が見た夢、彼が聞いた言葉は、彼の想像による産物ではありませんでした。しかし、彼は見せていただいた幻、語られた約束の言葉を信じて、長い旅路を全うすることになるのです。これが信仰の道でしょう。信じないこともできる、しかし、信じてたゆみ無く生きることもできる。
そして聖書の記録が証明していることは、ヤコブが見た夢、ヤコブが聞いた神の約束の言葉が、彼の生涯で実現しているということです。
天上と地上を結ぶはしご、そこを行き交う御使いは、神に至る道が開かれており、彼の祈りは聞かれ、答えを得、天上の恵みは降り注ぐ事を意味していました。そして地上のヤコブのかたわらに、神が共におられる。必ず父の家に連れ戻してくれる。
ヤコブは生涯の終わりをエジプトで迎えますが、ミイラにされるという丁重な扱いを受け、先祖たちの墓まで運ばれ、荘厳な葬儀を行うことになります。旅立ちの日から何年の歳月が経過したことでしょう。しかし、神の幻、神の言葉は真実でした。
そして、イエス・キリストは、この事件のおよそ2000年後、すべての信じる人の天上と地上をつなぐ梯子となって救いのみわざを成就してくださいました。信じる者には、天上と地上をつなぐ梯子が今も見えるのです。神は信じる者の祈りを聞いてくださり、答えを天から注いでくださる。私たちも信じて、自分の人生を全うさせていただきたいと願うものです。

2013年2月27日水曜日

救ってくださったのは目に見えない神

今日はサムエル記第二の22章を学びました。21章からがサムエル記の結びとする解釈もありますが、私は22章からではないかと思われました。ダビデの生涯の中の最も感謝すべき感謝が歌われているように思えたからです。人生の良き時に、神様に向かってほめ歌を歌う、ダビデはやはり信仰の人でした。
36節「あなたの謙遜は〜」と歌う言葉は興味深い言葉です。神様が謙遜だとダビデは言うのです。言われてみればダビデの神様は目に見えない神様。ダビデが神様のしてくださったことを感謝して歌っても、その姿が見えるわけではなく、人に見えるのは神様に選ばれ、祝された王様ダビデです。
しかしだからこそダビデは37節「あなたは私を大またで歩かせます。」と語ったのでしょう。自分に王としての振る舞いをなさせてくださるのはご自分では姿をあらわされない神であると。
感謝の歌はもっともふさわしい言葉で結ばれます。51節は神様がダビデとその子孫と契約をかわされたことの背景を伺わせます。彼が王として祝されたのは、契約を取り交わされた神の誠実さゆえにほかならないことなのです。
今日の私たちには、イエス・キリストのゆえに新しい契約を取り交わしてくださった神様がおられます。イエス・キリストを信じる信仰のゆえに私たちに誠実にこたえてくださる神様を信じて歩むことは幸いと教えられました。

2013年2月25日月曜日

禍根

本日はサムエル記第二の21章1節から14節を学びました。サウルの時代に残された禍根があった。ヨシュア時代に交わされた盟約違反によるギブオン人殺害の罪でした。主の前に取り交わした約束よりもナショナリズムの昂揚を目的としたサウルと、主との誓約のゆえにメフィボシェテを惜しんだダビデが対照的です。親の罪で子が殺される陰惨な結末にはサウルの犯した過ちの重さを教えられます。

兄と弟

昨日は兄と弟と題してエサウとヤコブの兄弟の話しをしましたが、母リベカの不妊と彼らが誕生するために神に願ったイサクの祈りもとても大切なことと教えられました。とある注解書に、神様は、特別の祝福の前に、特別な試練を与えられると記されていました。本当にそうだなあとうなづけるケースが聖書には幾つも記されています。当たり前のように受ける事に慣れてしまわず、祈って受けることを通して、神様の恵み深さを忘れないものとされることの幸いを考えさせられました。

2013年2月17日日曜日

イサクの嫁探し

本日は「息子の嫁探し」と題して、アブラハムの息子イサクの嫁を探すために、アブラハムのしもべが行動した様を告げる創世記24章を学びました。
晩年を迎え、あらゆる面で祝されていたと言われるアブラハム。信仰によって目に見えないものを信じて旅立った彼の生涯が、確かな答えを、その都度、得たことを教えられます。
しかし信仰の歩みは、決して自己中心でありません。晩年の大切な時に、アブラハムは「委ねる」という信仰の行動を私たちに見せてくれます。約束の息子の嫁、それはアブラハムにとって、どれほどきがかりのことだったでしょうか。しかし彼は、息子の嫁探しを、しもべに委ねなくてはならなかったのです。彼は委ね、そして、すべてを支配しておられる神様に、委ね、信頼したのでした。
しもべは主人の願いを知って、忠実に事を運びます。目的の町の外の井戸端で、どのように行動すべきか、どのような言葉で女性に語りかけるべきか、思慮深い行動です。また何よりも、神の御心にかなう祈りをささげ、神様に応えていただいているということが重要です。
何を求め、何を祈るべきか、私たちは、熟慮した方が良いのです。なぜなら御心にかなう祈りは、即刻、答えを見るからです。
さらに、ふさわしい女性を見つけた後のしもべの行動も、賢明な、目的を達成するための正しい道のりを進んだことも、教えられることです。目的を達成するためには、何をしてはならないか、何を真っ先に進めるべきか。
かくして、イサクはリベカをめとることになります。
その後の歴史を見るなら、リベカをめとったことで万事OKということではなかったということがわかります。けれども、この章では、信仰の父アブラハムの最期の懸念事項に、神様が確かな答えをくださったということを私たちは教えられるのです。
目に見えない神様は、確かにおられ、信じて歩む者に、確かに報いてくださる方であるということを、私たちも信じて、生きるものとさせていただきたいと教えられたことでした。

2013年1月17日木曜日

本日は

10時半よりウェストミンスター小教理問答の学びをいたします。少人数の学びです。

2013年1月16日水曜日

人のはかりごと、神のはかりごと

本日の祈祷会はサムエル記第二の17章を学びました。都落ちしたダビデを、一万二千の兵士で襲い、ダビデの首を持ち帰ろうと王に申し出る軍師アヒトフェル。彼の言葉は人々の同意を得る賢いはかりごとでアブシャロムと全長老の同意を得るのですが、アブシャロムは、フシャイの意見も伺い、確信を得ようとしました。
フシャイはアヒトフェルの助言を打ち壊すために、彼も知恵を尽くして彼のはかりごとを述べます。アブシャロムに疑われることのないように、言葉を選び、アブシャロムの自尊心をくすぐり、人々の考えを自分になびかせることに成功します。
しかし聖書は、主がそれを願っておられたからだと、主なる神様のはかりごとが成ったのだということを告げます。
それを証明するような事件がやがて起こったのでした。
フシャイがアブシャロムを騙した後、ダビデに逃亡の時を知らせる密使、ヨナタンとアヒマアツの行動が、アブシャロムにばれて、彼らに危険が近づいたのですが、彼らは無名の婦人によって匿われ、初めて目的を達成することができました。
人のはかりごとが、どれほど入念に考えられ、実行に移されたとしても、神の助けがなければ、物事は成就しなかったのだ、そう聖書は告げているのです。一時、時代の追い風を受けたかに見えるアブシャロムは、やがて滅んで行く事になり、今、辛酸を舐め、忍耐を強いられているダビデが、再び王座に返り咲くことになります。神の御心がどこにあるのか、見極め、憐れみ深い神様と共に歩むものとさせていただきましょう。

五教会新年聖会

すぐる1月14日は五教会新年聖会を行いました。
私たち新船橋キリスト教会は日本同盟基督教団、千葉宣教区に所属していますが、近隣の五教会はスイスアライアンスミッションの宣教によって生まれた教会として関わりが深く、我孫子のラザロ霊園に共同墓地を持っています。そして墓地を共有するだけでなく、五教会青年の「ゴパンの集い」や新年聖会を共に行っています。
今年の新年聖会では午前中の礼拝で下川牧師がメッセージをし、また「教会福音讃美歌」の紹介をいたしました。昼食をはさんで午後には、恒例の教会紹介、そして吉村美穂姉(ソプラノ)、岩塚多佳子姉(ピアノ)による讃美コンサートを行いました。どの曲も素晴らしく、またお二人のお証しも感謝でした。個人的にはアンコールの「主の祈り」、力強い神様への讃美で締めくくられていたことが印象に残っています。素敵な声、しかし、それすらも神様のゆるし無くしては、決して自分の力だけで完全にコントロールできるものではない、神様の前での謙遜な姿勢に教えられたことでした。
外はどんどん雪が降り積もり、野田線の本数も少なくなっていくことが感じられましたが、暖かい会堂の中では打ち解けた和やかな雰囲気で、新しい年の交わりが続いたことでした。
大雪に見舞われたこの日は、帰途はそれぞれに大変であった報告をうかがっています。雪国であればたいしたこともない降雪量ですが、慣れていない私たちには大事件でしたね。新しい年も、主の守りを祈りつつ、共に歩んでまいりましょう。

2013年1月13日日曜日

ソドムの滅亡

今日は創世記19章から「ソドムの滅亡」と題して説教をしました。説教題を外看板の掲示板に掲載してから、恐いタイトルだなあと思っておりましたが、「聖書が語っていることですから、ちゃんと語ってください」と言ってくださる方に励まされて、今日、お話しをしました。
旅人を、アブラハムと同じように丁重にもてなすロト。しかしその人々に、破廉恥な乱暴を働こうとするソドムの人々。
この詳細な記述は、ソドムの街がいよいよ赦しがたい、全く悪に染まった街であったということを私たちに告げています。
前章でのアブラハムの執り成しに、意味がなかったということではないのです。アブラハムの執り成しを、確かに主は聴いてくださっていたのです。それなのに、たった一人も正しいことを訴える人もいなかった、ソドムは、滅亡することになるのです。
主なる神様は、ご自分の造られた人を、最期の最期まで忍耐深く、悔い改め、神に立ち返ることを待っておられます。しかし、善と悪をさばかない方であるということではない。悪にはさばきを、明白にされる正しい神なのです。
ソドムの滅亡に際して、興味深い人間の行動が聖書には記されています。
ロトを介した警告の言葉を「冗談」としかとらない婿たち。
ロト自身も脱出という選択肢について「ためらう」。
そして逃亡した後で禁じられていた後を振り返るという行為によって「塩の柱」とされてしまうロトの妻のこと。
決して、太古の神話ではありません。今日も、私たちを襲うかもしれないさばきの時に、免れ、生きのびるものとなるすべを教えています。
警告を侮ってはならないこと。ためらわずに、即座に逃げ出さなければならない状況があるのだということ。
逃げる時には、とにかく安全な場所までたどり着くまで後を振り返ってはならないこと。いずれも、私たちが最近経験した事実と合致することです。
聖書は、私たちに、いきのびるすべを教えている。あらかじめ教え、今日の私たちが、賢明に生きることを、真の神様は望んでおられる。愛の故です。私たちを愛し、私たちの幸いを望んでおられる神様を信じ、今日を、明日を、生きるものとさせていただきましょう。

2013年1月5日土曜日

わたしはよみがえりです

昨日わたくしたちは愛するH姉を天に送りました。2013年に誕生日を迎えれば88才になる、波瀾万丈の人生を送られた方でしたが、幼少の頃からキリスト教に触れる機会に恵まれ、洗礼を受ける恵みにあずかられたことでした。訪問して伺ったお話し、一緒に楽しく食事をしたことなど思い出され、お別れの時は悲しくもありますが、しかし、私たちは親しくさせていただいた兄弟姉妹を天に送るごとに、いっそう天国が身近に感じられる恵みを味わいます。目に見える地上の現実ばかりに心奪われて、永遠の時の流れの中での今の自分という事を忘れかけている、そのことに気付かされます。ヨハネの福音書11章25節でイエス・キリストはこう言っておられます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。イエス様がそう言っておられるのでなければ、到底、信じがたい言葉ですが、イエス様はそう言われた。死んでも生きる、永遠のいのちに移されたH姉のことを覚えつつ、私たちも地上の生涯を生かされている限り生き抜くものとなりましょう。

2013年1月2日水曜日

本日(1/2)はお休み

本日の聖書の学び・祈祷会は、午前、夜、ともに、各自・各家庭となります。よろしくお願いいたします。

2013年1月1日火曜日

あなたがたは世界の光です。

今日は元旦礼拝でした。マタイの福音書5章13−16節より「あなたがたは世界の光です。」と題してメッセージをしました。第一に大切なことは、イエスさまが弟子たちに、塩になりなさい、光になりなさいと言われたのではなく、塩です、光ですと言われたことです。イエス・キリストを知り、信じた人は、そのことで、世にはない塩気、世にはない輝きをすでに身に帯びているのだということを認識すること。これが大切です。その上で、塩は食材の中に入り込んで、腐敗をくいとどめる働きをする。あかりは台の上に置いて周りを照らすためのものであり、隠された所に置く人はいない。そのように、外へ出て、塩として、光として役割を果たすよう、私たちはイエスさまから期待されているということを覚えたことでした。世の中が朽ち果てて行くようならば、塩気を働かせないクリスチャンが問題なのです。世の中が暗いなら、あたりを照らさないクリスチャンが問題なのです。神様から与えられた使命をまっとうする教会でありたいと教えられたことでした。