2011年12月31日土曜日

他人の利益

新船橋キリスト教会では、ディボーションブック「マナ」を用いています。今日はコリント人への手紙第一の10章でした。24節「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」ぼんやり生きていると、いつのまにか自分のしたいことばかり心を支配するようになり、狭い人間になってしまいます。目の前の人が心から喜んでくれること、それを考えるだけで、世界が広がっていくような気がします。皆様も、良き年の暮れ、年の始めを迎えられますように。

2011年12月25日日曜日

クリスマス礼拝

今日はクリスマス礼拝。「ここに愛がある」と題して説教をしました。クリスマスが神様の愛のしるしであること、皆さんに伝わったでしょうか。礼拝の後は、祝福式に来れなかったご家族、子供たちのための祝福の祈りの時をもって、愛餐会。皆さんの持ち寄りのご馳走、定番のE兄のヴァイオリン演奏、K姉とU兄のリードによるクイズ大会、たくさんの方々とクリスマスの喜びを分かち合えて感謝でした。

キャロリングとキャンドルサーヴィス

昨日はキャロリングとキャンドルサーヴィスでした。昨年初めて東武ストアの前で歌って、今年はじっと聞いていてくださる方、興味深げに近寄って来る子供たち、遠巻きにあいさつしてくれる知人、感謝でした。その後は教会で礼拝。暗闇の中、キャンドルの光が照らす心の光。クリスマスの喜びを改めて覚えることができました。皆さんありがとうございます。

2011年12月22日木曜日

トップリーダー

詩篇21篇はイスラエルが王制の時代、それはどのような構造を持っていたのか、教えています。「王は神の力を喜ぶ」上に立てられた最高権力者が頼りにしているのは神、信仰によって神の言葉に従い地上を治める王様を神は祝福してくださる、これがイスラエルの王制国家でした。トップに立つ人が自分の欲しいがままに振る舞うのではなく、最高善の神に対して謙遜であること、現代においても通じるリーダーシップではないでしょうか。リーダーには権限が委ねられているものです。悪を恐れず、勇気をもって決断をくだし、責任をとってもらいたいものです。そして民は、立てられた指導者がよくその力を発揮できるよういつも祈り続けるものなのです。

2011年12月19日月曜日

地獄

今日は地獄について学びました。私たちが使っている新改訳聖書では地獄という言葉は使われていません。ゲヘナとカタカナで書いてあります。でも別の訳の聖書を持って来られた方の聖書には地獄と書いてありました。それは地獄という言葉で考えることがそれぞれ違うから、聖書にはゲヘナと書いてある、それはどういう所なのか精確に把握する必要があるということでしょう。そして、人や自分を躓かせてゲヘナに行くようなことになってはならないというイエス様の言葉を学びました。また塩が塩気を失ってはならないということを学びました。手や足や目が自分を躓かせたケースも分かち合いました。小さいものを躓かせるということがどういうことなのかも、具体的に考えました。今月も大変盛り上がり有意義な学びをすることができました。出席してくださった皆さんに心から感謝いたします。

もう一人の助け主

昨日も私達はヨハネの福音書を学びました。十字架に架かられる前のイエス様。弟子たちを励まして「あなたがたは大きな働きをする」「祈りはすべて答えられる」「真理の御霊が助け主として与えられる」絶大な約束を与えられて、今日に至ります。弱々しい弟子たちが始めた働きは今や全世界に広がり、イエス様の言葉の真実であったことを証ししています。今日、私たちは何をすべきでしょうか。神のみ旨にかなう歩みを、希望をもってたどることができますように。

2011年12月15日木曜日

苦難の日に

「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。」昨日は詩篇20篇を学びました。油注がれた王のための執り成しの祈りでした。国民を統治するための王の政策なのでしょうか。いやそうではない、たしかにこれは民の喜ばしい光栄な努めなのです。また王の勝利を共に喜べる、これも幸せな国の様子を伝えています。軍備ではなく、目に見えない神を誇りとしたイスラエルの王、この時期イスラエルは空前絶後の繁栄を迎えていました。

2011年12月12日月曜日

アドヴェント 第3主日

昨日はヨハネの福音書14章から聖書の言葉を学びました。あなたがたは知っているとイエス様がおっしゃるのに反論するトマス。イエス様がどれほど身を低くして弟子たちと共に歩まれたのか、そんな空気を察知することができます。そして私たちは神について救い主について聖書について色々なことを知らないのですが、しかし、それでも大切なことが分かっているということを改めて教えられました。

2011年12月9日金曜日

婦人クリスマス会

昨日は婦人クリスマス会でした。マタイの福音書1章からメッセージをしました。初心者には意味不明のカタカナの名前たち。しかし婦人たちはこれまで聖書の学びを積み重ねてきました。アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図、ここまでにおよそ2000年ほどの時が経過していると言われています。そして、わたしたちはイエス・キリスト生まれたおよそ2000年後を生きている。何か不思議な感じがします。

2011年12月5日月曜日

アドヴェント 第2主日

昨日は待降節第二主日でした。聖書はヨハネの14章から。天の父の家には住まいがたくさんあります、というイエス様の言葉。天国のことなんて、それこそ浮世離れした話しですが、わたしたちはイエス様の復活されたことを信じています。今も生きておられることを信じています。そのイエス様の言われたこと、わたしたちの地上の生涯の後の希望のこと。イエス様の言われたとおりに信じたいと思います。また同じイエスさまが、私たちを迎えに来てくださる、再び地上に来てくださると言われた言葉も、ただイエスさまがそう言われたという理由によって信じて、今日も生かされている時を喜んで歩んで行きたいと思います。

2011年12月1日木曜日

詩篇18

詩篇18は、すべての敵、特にサウルから、主がダビデを救い出したことを歌った詩篇です。これまでの詩篇の中では最も長く、言葉が尽くされています。1節、主を慕う。これが18篇を貫く基調でしょう。そして2,3節は言葉を尽くした讃美。戦人ダビデが主を何かに言い換えるとしたら、という言葉が続きます。4,5節は、戦を知らない私達からしたら、ひどい妄想と思えますが、目の前で敵が味方が命を落とす場面を日常茶飯に経験していたダビデです。その運命が自分に襲いかかる場面を想像しないことはなかったでしょう。しかし命の危険を知っているからこそ、最後の時には神に叫ぶよりない、そういうことを幾度も経験し、そして助けられたのでしょう。興味深いことに7節以降はありとあらゆる天災が描写されます。地震、火山の噴火、垂れ込める暗雲と竜巻、雷鳴、雹、引き潮と台風。ダビデ自身も津波にのまれたようです。ところが主の御手が彼を救う。そしてこれが敵に対する勝利であった。聖書は、災が人に等しく及ばないと述べているようです。神により頼むものは、水に飲まれても引き上げられる。少なくともダビデはそうでした。決して強くないのに生き残った。その理由が20節以降展開されます。主の道を守ったから、悪を行わなかったから。正しい神は私を救ってくださり、なお立たせてくださる。46節以降は、未来に向けての讃美でしょう。ところで戦人ダビデの正しさはどんなところにあらわれていたでしょうか。自分の命を付け狙うサウルを殺す機会を得たのに、手をかけなかった、そんなことが思い出されます。

2011年11月28日月曜日

アドヴェント第一主日

昨日はアドヴェント第一主日、恒例の讃美歌94番「久しく待ちにし」を歌いました。これまでこの歌を歌う時には、救いを待ち望むイスラエルの民を思い出し、イエス様は生まれてくださったのだと過去を思うことが多かったのですが、今年は、今のわたしたちの歌として歌う意味があるのだ、いや、いつだってその意味が存在していたのだと思われたことでした。「主よ、主よ、御民を救わせたまえや。」

2011年11月21日月曜日

洗足

昨日は洗足の場面の説教でした。イエス様に足を洗っていただくことを遠慮するペテロには私たちの犯しやすい間違いが垣間見えています。遠慮という偽善で真実をごまかさないように、恵みを受け損ねないように、そう思わされたことでした。また互いに足を洗い合いなさいと言う教え、今の私達に本当に必要な教えでした。実行したいと思います。

2011年11月14日月曜日

子供祝福合同礼拝&チャペルコンサート

昨日は子供祝福合同礼拝を行いました。私たちの教会にも小さな子供たちが増えてきて感謝です。一歳児二歳児に向かって聖書のみことばを語ります。すべての事を理解できなくても、知ろうとする子供たちの吸収力はすばらしいです。牧師の祈りに、アーメンと唱和する瞬間を待ち構えている子供たち。本当に励まされます。午後はクラリネットの柳瀬洋さんをお招きしてコンサートでした。伴奏は奥様の佐和子さん。微妙な所も呼吸と表現を合わせた演奏、ご夫婦であることもそうですが、呼吸を合わせるという努力の営みを感じさせられました。また幼い頃から一生懸命取り組んできた音楽、これを神に向かってささげることができると気づいた瞬間のこと、神の前に生きるかけがえのない自分に気づいた瞬間のように聴こえました。そして余分な力の入らない演奏ができるようになったこと。絶対者なる神に出会うということは、有限の私達にとってどれほどかけがえのないことかと、改めて教えられたことでした。感謝いたします。

2011年11月10日木曜日

Jesu meine Freude

本日は家庭集会、メンバーのお一人Oさんが、参加している合唱団で取り上げる合唱曲、J.S.バッハのモテット"Jesu meine Freude"を取り上げて、その歌詞と挿入されているローマ人への手紙8章の聖句を学びました。私は教会音楽を専攻に学ばさせていただきましたが、カンタータに比べて地味なモテット、これを正面から学んでみる機会は初めてでした。驚きました。「バッハはこれまでに存在していたあらゆるジャンルで最高の作品を書いた」その言葉が、このモテットにもあてはまることに唸らされた次第です。全6節からなるドイツコラール。その間に挿入された聖書の言葉は、讃美歌の心情の展開を、教理的に裏付けています。そしてその言葉に付された音楽は、言葉をよりいっそう印象的に私たちに伝えています。人間の声のみが素材で、器楽などの助けは、あっても補助的なもの。切り詰められた可能性の中で、しかし、比類なき高み達する芸術、教会音楽作品。かめばかむほど味わいが増す人類の遺産。救われたキリスト者は実際どのようにして成長するのか。家庭集会は小さな集いですが、皆さん意欲的に学んでくださって大変すばらしい時を過ごす事ができました。バッハの音楽がそもそも魅力的ですし。Oさんのコンサート本番が本当に楽しみなこととなりました。

2011年11月6日日曜日

光を信じなさい

本日は「光を信じなさい」と題してヨハネの福音書より説教しました。でも大切な言葉は、この直前にある「光ある内に」という認識です。十字架の死を目前にして、時はいつまでも残されているわけではないということをはっきりと語ったイエス。これは、この言葉を聞いたユダヤの群衆のみならず、現代の私たちにとっても同じことです。時はいつまでも残されているわけではない。ゆるされている時の中で、光に出会い、光の中を歩み、光に属するものとなる。私たち人間は生きている限り、必ず有限の自分の限界と向き合う時がくる、その時の備えがあるか。問われたことでした。来週は、子供祝福礼拝、チャペルコンサートが行われます。

2011年10月31日月曜日

一粒の麦

昨日はヨハネの福音書より、一粒の麦、地に落ちて死なずば、の言葉を学びました。イエス様は、ご自分が死ぬために進んでおられることを明らかにし、また、その道についてくるようにと語られました。自分の命を愛する者はそれを失い、憎む者はそれを得る。我が身可愛さのゆえ、正義を失ってはならないということでしょう。自分の身が切られるようなことがあっても、不利益を被るように見えることがあっても、正義を貫け、ということでしょう。誰が味方に立ってくれなくても、ただ神が報いてくださることを信じて進め。そういう生き方が今私たちに必要なことだと教えられました。

2011年10月27日木曜日

ガラテヤ人への手紙 講解

今日は定例婦人会、定例婦人会ではガラテヤ人への手紙を学んでいます。今日は福音の真理のためにペテロすら非難してやめないパウロの言葉を学びました。人を恐れて自分の心の確信とは違う行動をとるペテロの姿に、自分自身を重ねながら、しかし人の目を恐れて真実をねじまげる生き方はいけない、信念を貫くものとさせていただきたいと教えられました。明日は子育てクラスで料理教室を行います。チヂミなどの作り方を楽しく学びます。

詩篇15

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」幕屋とは神のそこにいますしるし。いわゆる聖なる場所。その場所にふさわしい人の資格を祈りの中で唱えるとは、お願いばかりしている私たちの普段の祈りとは異なります。やはりこういうことを祈りの中で思いめぐらす必要が人間にはあるのでしょう。誰が神様の祝福を受けるにふさわしい資格を持っているのですか?2節、正しく歩み、義を行い・・・。正論は自分に厳しく耳を傾けると、耳を閉じたくなりますが、しかしこのようなことが今、私たちに必要、私たちの社会に必要と教えられたことでした。「このように行う人は、決してゆるがされない。」

2011年10月23日日曜日

エルサレム入場

今日はヨハネの福音書より、イエス様のエルサレム入場の記事を学びました。群衆の期待とイエス様の本当の目的が、重なりつつもずれていたこと。私たちはイエスキリストにふさわしい期待を抱いているか、問いかけたことでした。イエス様がすでに下さっているものがかけがえのないものであることを改めて覚えていただけたなら、私たちは今日も希望を持って生きて行く確かな理由があると思います。

2011年10月19日水曜日

誰も彼も腐り果てている。

今日は詩篇14篇を学びました。前半は地上に善を行う者は一人もいないという聖書的人間観。しかし後半には神の民、正しい者の一族が登場する。聖書の表向きの矛盾をどう理解するのか。信仰者といえども罪人としては同じである謙遜を学ぶこと。この世の中のどのような悪を見ても驚くには値しないこと。その中で神を恐れ、どんな時にも正しいことを行う人となる、そのことの大切さを学びました。

2011年10月17日月曜日

ナルドの香油

昨日はヨハネの福音書12章より、ナルドの香油と題して説教をしました。なぜこのタイミングでマリヤはイエス様の足にナルドの香油を塗ったのか。ナルドの香油は死者の埋葬のために用いられるものです。マリヤは病いで死んだ愛する兄弟ラザロの埋葬のために高価なナルドの香油を購入したのではないか。ところがそのラザロが生き返ってしまった。今日も普通に暮らしている。そこへ愛するイエス様が、ラザロを生き返らせてくださったイエス様が来られた。旅人の足を洗い、迎え入れることはこの地域では普通のことです。そこでマリヤがイエス様に感謝を表明したのは、当然ありうることだったのですが、これが、神の時にかなう、彼女の思いを越えた麗しいわざとなったのでした。

2011年10月13日木曜日

本日は金の子牛

本日は家庭集会。前回、十戒を学びましたので、今日はその直後、イスラエルの民が、禁じられている偶像礼拝の罪を犯したことを学びました。アロンのリーダーシップ、神ならぬ神を求める民の過ち、その中でモーセがなしたこと、神様の忍耐、どれも現代の私たちと共通する問題でした。昼食の交わりの時にも、話題は大盛り上がり。楽しいひとときでした。

昨日は中上先生ご夫妻をお招きして

中国雲南省でのお働きの報告を聞かせていただきました。本当にすばらしい働きをなされていて今後もまた継続して行かれる事を聞いて安心しました。形が変わっても、現地の必要を細かやかに看取り、適切な活動をされていること、時代の移り変わりと、変わらないこと、色々学ばせていただきました。感謝いたします。また夜はEEの学びを進めることができました。感謝します。

2011年10月9日日曜日

本日は講壇交換

私は市川へ行き、船橋は馬込沢のY先生でした。近隣の5教会で年に2回、講壇交換を行っています。幸いな交わりが与えられています。同じ信仰の思いに立つ近隣の教会のことを本当に貴重でありがたい存在と思わされています。

2011年10月3日月曜日

ラザロ復活の後。

昨日はラザロ復活の後、ユダヤの議会がイエス殺害を共謀する箇所を学びました。「イエスをこのままにしていたらローマ軍がエルサレムを滅ぼすことになる。」この偽りの主張は、彼ら自身がイエスを自分の脅威であるということを隠して、自分たちの願望を実現するためのものでした。

この発言が非常に罪深いのは歴史が証明していることです。イエスを拒否したユダヤ人たちは、紀元70年、自らローマ帝国に反旗を翻して、エルサレム滅亡、ユダヤ人離散という歴史の憂き目を見る事になるからです。

神の国は地上の王国ではないと主張するイエスキリストを真の王として迎え入れていたら、エルサレムはどれほど繁栄していたことでしょうか。それは言葉の上では矛盾を孕んでいますが、真理なのだと思います。自分のことしか考えない指導者は、多くの民を滅亡に招く、非常に教訓に富んだ聖書の言葉でした。

2011年9月25日日曜日

わたしを信じる者は死んでも生きる

今日はヨハネの福音書11章よりラザロの復活について学びました。私たちが現実の生活を生きていくうえで、どのような信仰が必要なのか、様々なことを学べたと思います。わたしは命である、と言われたイエス様の姿。根底には愛。そして、ラザロを呼び起こす直前の祈りが、非常に印象的でした。

2011年9月7日水曜日

詩篇10篇

今日は詩篇10篇を学びました。世の中の悪いニュースを聞いていると、神はおられるのか、そんな風に思う気持ちにもなります。古の信仰者もそのような気持ちになることがありました。この詩篇に描かれている悪人のあくどさはひどいものです。その悪を、神は見過ごしておられるのか。しかし詩人には、祈りの中で神様の姿が見えてきます。よるべのない人たちの苦しむ様をじっと見ておられて、必ず助ける神様がそこにいました。14節「不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。」18節あなたは「みなしごと、したげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間が、もはや脅かすことができないように。」

2011年8月28日日曜日

献堂6周年記念礼拝

本日は新船橋キリスト教会会堂、献堂6周年を記念して、前任の小池先生ご家族をお招きし、礼拝、午後の研修会を行いました。本当に喜ばしい時を大勢の皆様と共に分ち合えたこと、このうえない感謝でした。午前も午後も、小池先生の用意された言葉は、離任した後も船橋のことを本当に心に懸けてくださっているからこそ、出てくる言葉だなあと、つくづく思いました。小池先生だけでない、今ここにいない人たちの、多くの祈りに支えられて、今ここにある私たちの歩みがあるのだということを、改めて教えられた幸いな日曜日でした。感謝!!

2011年7月28日木曜日

昨日、本日。

昨日は午前の祈祷会で詩篇4篇を学び、夜の祈祷会ではEvangelic Explosionの第2課を学びました。また四倉、宮古へボランティアへ行かれた方のお話しも伺い、現地に行かなければわからない現地の必要を改めて覚えることができて感謝でした。本日は定例婦人会で「ガラテヤ人への手紙講解」その4でした。航空写真でパウロの生まれた町の今日の様子など眺めてみました。

2011年7月24日日曜日

プレイズ

新船橋の教会では、礼拝の最初の一曲を1ヶ月通して歌います。今月は「あなたの愛で」でした。歌詞を紹介します。

悲しむ人と共に、悲しめる心を、
苦しむ人と共に、苦しむ心を
愛のかけらもない、わたしの心に、
どうか今、与えてください、主よ、今
主よ、あなたは、私のため命まで捨てられた。
大きなその愛に私は生かされているのに。
ただ、わたしは、ひざをかがめ、あなたに求めるだけ。
どうか与える愛でこの心を満たしてください。

私たちは、そのままでは決して愛の十分な人ではないと思います。だからこのような歌を歌いながら、本当の愛の人となることができるように、祈りつつ進んで行く必要があるのだと思います。

2011年7月18日月曜日

真実な自己証言

昨日は「真実な自己証言」と題してヨハネの福音書8:12−20、説教しました。牧師は大学で法学を学ばせていただきましたが、第三者の証言が重視される例、本人の証言が重視される例、それぞれあることを語らせていただきました。イエスキリストというお方は、私たち一人一人が、歴史の中で、またこの広い世界の中で一人きりの存在であるように、やはり唯一の存在であって、その方の自己証言というものは、尊いものなのだと思います。

イエスキリストが、ご自身についてどう言われたのか、どのような生涯を歩まれたのか、聖書の証言を通して、知っていただきたいと思います。これはグッドニュースです。

2011年7月13日水曜日

詩篇2

今日は詩篇第2篇を学びました。信仰の詩人の祈りは世界を見渡しています。私たちの信仰は広い視野を持っているか、考えさせられました。

神の召しを受けて立ったイスラエル、ユダの王たち。しかし、真の王権を確立したわれらの主イエスキリスト。

会の後には、ヘンデル、メサイアから、詩篇2篇に基づく二つのアリア"Why do the nations" "He that dwelleth in heaven"そしてハレルヤコーラスを聞きました。

詩篇2篇はこう結ばれています。
「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」

2011年7月11日月曜日

昨日の礼拝、本日の学び会

昨日の礼拝ではヨハネの福音書8章より「あなたを罪に定めない」というタイトルで説教をしました。姦淫の現場で捕らえられた女性の話し。イエス様の初臨の目的はさばきではなく罪の赦し、永遠の命に私たちを招くためであったとの視点から語らせていただきました。それは再臨の日には異なるということです。                         

今日は月に一回不定期月曜日に行われるマルコの福音書を読む会でした。テキストに従ってマルコの福音書1−8章の復習をしました。これまで学んで来た事を思い出しながらの、とても有意義な学びとなりました。イエスとは何者か、またイエスの弟子となるとはどいうことか、教えられたことでした。

2011年7月6日水曜日

詩篇の学びスタート

 2週間、祈祷会は、各自・各家庭にて、でしたが、本日より、詩篇の学びをスタートしました。どなたも歓迎いたします。

また下川牧師は、日曜日の夜から、友人の牧師と共に、岩手県大船渡市、周辺の被災地を訪問、現況を視察させていただきました。その報告を行いました。報告は日曜日も行いますが、現地にて、物資援助と共に、心の援助が今こそ重要という事を痛感させられたことでした。心を一つにして、困難な状況に立ち向かっていくこと、これがとっても大切なことと教えられたことでした。

2011年6月27日月曜日

本日は

先週の月火水に続いて行われた講習会に、牧師が参加して来ました。後半の学びのスタートでした。9時から5時までの座学があっと言う間に過ぎて行く充実した学びとなりました。明日は実践を行います。水曜日で学びは終了です。これは教会にとってもとても有意義な還元できる学びであることを実感しています。
今週水曜日の祈祷会は各自各家庭にてとなりますが、ご了承ください。聖書を自習されたい方は、一章で終わりになります新約聖書「ユダの手紙」をおすすめいたします。その後は、旧約聖書「詩篇」を共に学んで行きたいと思っています。

昨日は

いつものヨハネの福音書の講解メッセージをいたしました。イエス・キリストが、どこから来て、どこへ帰って行かれたのか、知っていることの幸いを教えられたことでした。
月末は、新しい讃美の歌をみんなで覚えます。今月は讃美グループ「リラ」の「あなたの愛で」を歌いました。阪神大震災の時に、悲しむ人と共に、悲しめる心をください、と祈る心で生まれた歌と聞いています。いつの時にも、本当にそのような愛の心を、神様から教えていただきたいと思いますが、今、日本の国でも必要な祈りの歌と覚えたことでした。感謝します。

先週は

大村昌夫先生をお招きして(といっても当教会に出席してくださっている先生ですが)子育てクラス講演会を行うことができました。いつも集っておられるメンバーの方々が、人生経験豊富な先生と打ち解けた交わりをしてくださり、得るところ多数だったようです。感謝いたします。
また木曜日には定例婦人会がありました。「ガラテヤ書講解」を読み進めています。キリスト教会にとって本質的なこと、時代の変化によって変わっていっても良い事、色々、話題豊富に学び合うことができました。感謝いたします。

2011年6月20日月曜日

今週

今週水曜日は、牧師、伝道講習会参加のため、普段の集会は各自、各家庭となります。ご了解ください。よろしくお願いいたします。

本日は

 牧師が理事として出席しています、福音讃美歌教会の年次総会でした。教会の支援をいただいて、出席できていることが本当に感謝です。ひきつづき、主の御名があがめられることとなりますように、力を尽くしたいと思います。

昨日は

 教会音楽祭へ、初、参加でした。皆様色々ご協力本当にありがとうございました。感謝いたします。不行き届きおゆるしください。

2011年6月15日水曜日

ヨブ記42章 被災地訪問報告

 今日はヨブ記の最終章。これまでの学びを振り返るようなまとめの学びになりました。感謝。そして、午前も夜も、被災地訪問の報告を行いました。なぜ私たちのような小さな教会が有効な支援を行えるのか、理解していただけたら、報告成功と思います。でも皆さん、仕える喜びを覚えてくださったようです。牧師は被災地から新たなリクエストを持ち帰ることができました。早速応えて行きたいと思います。今後も支援を続けます。

2011年6月8日水曜日

被災地救援

 新船橋キリスト教会では、被災地の近くにある教会と連絡をとって、Face to face の救援を行っています。現地の教会が、避難所の必要を精確に伝えてくれています。大量の物資を輸送することはできないですが、必ず役に立つものを届けることができます。今度の日曜日には、他の物資に加え、野菜類を集め、月曜日に移送、火曜日に届ける予定です。もしご協力できる方がいらっしゃいましたら、日曜日、野菜を、集めています。

ヨブ記41章 リヴァイアサン

 今日はヨブ記41章。先週の河馬を見よに続いて、リヴァイアサン(レビヤタン)について語られる神の言葉。私の参考にした解説によると、河馬もベヒーモスで、ここではやはり今日、神話の怪獣と思われているベヒーモス、リヴァイアサンが語られているのではないかとのことであった。ただし、聖書は神話の口調と違う、ということが記されてあった。
 大切なのは、人々が神話の中で恐れた怪獣を、手の内に支配し、さばかれる神がおられるということ。私たちの対処しきれない理解し難い危険、恐怖は確かに存在し、しかし、その背後には、善なる神、愛なる神、忍耐深く、憐れみ深い神がおられる、必ず正しくさばかれる神がおられる、そのことを聖書は主張しているという。
 現実の私たちに本当に必要なメッセージだと教えられた。私たちは希望を失ってはならない。

2011年6月1日水曜日

ヨブ記40章 さあ河馬を見よ

 今日はヨブ記の40章を読みました。38章39章は全知の知識を披露する神の言葉。40章はご自身のみ、神であり、ヨブに対して「あなたはわたしのようになれるか?」と問いかける言葉でした。全能の神ご自身が登場されたわけですから、これ以上、何が言えるでしょう。ヨブは謙遜に手を口にあてます。
 しかしなお語りかける神の言葉に、私たちは自分を吟味させられました。「激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを踏みにじれ。」という神様の挑発するような言葉。わたしが正しいと言い張って、高慢に陥っていることはないか。間違ったならば心からごめんなさいと言える、聖書は私たちに柔らかな心を教えているのではないかと思いました。
 聖書は至る所で私たちの鏡のようになってくれます、私たちが自分の本当の姿をみつめることができるようにしてくれています。そしてそれは正しいですか?とといかけてくれるのです。

2011年5月25日水曜日

ヨブ記39章 だちょうの子育て

今日はヨブ記の39章。だちょうは卵を温めないということを聖書から教わったが、メッセージを終えてから「たまには動物園にでかけて、動物を観察してみなくちゃダメですね。」とお話しをした。集会を終えて、お昼、ちょっとテレビのスイッチを入れてみたら、ちょうど某動物園の新人園員がだちょうの子育てに失敗し、成功するまでのいきさつが語られていて、思わず見入ってしまった。時間をかけて動物の生態の実際に迫っていく飼育者。生き物と関わって色々なことを学んで行く人間の存在も尊いものなのだと改めて教えられた。そのようにして人間の成長することを見守っている神がおられるということも不思議なことと思わされた。

2011年5月18日水曜日

神の返答 ヨブ記38章

 本日の祈祷会はヨブ記38章、いよいよヨブ記もクライマックス、長らく沈黙を守っていた神ご自身がヨブに向かって語られた言葉を学びました。繰り返されるモチーフは私たちの出会うことの出来る自然界、それらを創造し、今も御心のままに保持しているのは、わたし、神であって、あなた、ヨブ、人間ではない、というメッセージです。
 私たちは、自然の現象の大きさの前に、謙遜でなくてはならない、これは多くの人が同意出来る事実ではないでしょうか。問題は、その背後に神がおられるのか、おられないのか。
 聖書は、神が、猛威を振るう自然界を御心のままに動かしているだけでなく、廃墟に若草を生やすのも神のみわざと言います。
 確かにそうです。津波が根こそぎ破壊した土地にも私たちは春の花の咲き乱れるのを見ています。ここより海近くに住んではならないと歴史から学んだ先代の知恵も、そこここに残されていた、これが事実でした。
 信仰者である私たちは、全ての背後に、善にして愛なる神様の存在を信じて、謙遜に、またたゆみなく前進するものとさせていただきたいと思いました。試練はあります。しかし神様は神様に希望を置くものを回復させてくださるお方なのです。

2011年5月11日水曜日

被災地 支援

 3月11日以来、私たちの教会でも被災地支援の救援物資輸送を行っています。現地の教会が被災地の必要を細かく知らせてくれ、必要な所に必要なものを届けてくれるので、こちらも大量のものを送れるわけではないのですが、これまでにも数回物資を届けることができました。
 現在も継続中です。今週は全ての年齢層、男女のための下着を集めています。その他、日持ちのする食料、仙台で避難所とのコネクションを持っている教会を通じて物資を届けます。お志のある方は、教会までご持参いただけると、こちらで取りまとめて輸送することができます。
 今日は祈祷会、ヨブ記、エリフの最後の言葉を学びながら、鳴り響く雷鳴にも、その背後におられる創造主なる神を思う信仰に教えられたことでした。

2011年5月3日火曜日

おとといのことになってしまいましたが、

一昨日、復活節第一主日の午後は、近隣五教会の墓前礼拝、我孫子のラザロ霊園でした。イエス様によって死からよみがえらされたラザロの名のつけられた霊園、一時間近く早く到着してしまい、御墓掃除、そして他の教会の共同墓地、クリスチャンの御墓など見ることができました。先にいらしていたM教会の皆様、学園のN職員、後から来られたS教会の皆様にもお会い出来たことは本当に嬉しいことでした。年に一回の墓前礼拝、ここで皆様にお会いするということは、とても貴重な幸いな経験だと思ったことでした。
説教はI教会のI牧師。死の恐怖を克服することについての真面目なメッセージでした。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたイエス様の言葉を、どのように受け取るか、そういうお話しでした。感謝でした。
そして月曜日はマルコの福音書を読む会。8章22節から33節。マルコの福音書も8章から佳境に入ります。見事な告白をした直後に、ひどい叱責を受けることになるペテロ、その他、出席された方々の近況も交えて、この日も大変有意義な聖書研究の時となりました。感謝いたします。

2011年4月27日水曜日

ヨブ記35章

エリフの言葉は難しい。神の前での正しさを、これほどまでに要求することが、私たちの日常でありうるだろうかとの疑問も湧いて来る。しかしエリフは、義人ヨブの言葉の中に潜みうる過ちを指摘して、ヨブのいっそうの正しさを浮き彫りにし、また、聖書の読者であるわたしたちの祈りからも、不信仰のかなかすを取り除こうとしているように聴こえる。
ヨブの神様に対する言葉は、つぶやきなのか、不平なのか、文句なのか。そうだとしたら問題だというのがエリフの主張。そして問われるのは私たちの神を信頼する祈りだと思う。

2011年4月25日月曜日

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ

昨日は私たちの主イエス・キリストのご復活をお祝いするイースターの礼拝でした。大勢の子供たちも一緒に礼拝をささげメッセージをききました。

わたしたちのために命をささげられたイエス様、そのおかげで私たちは今、神と共に生きる事ができる、なんという力強い励ましでしょうか。人類の最後の敵である死は、イエス・キリストに敗北したのです。

昨日の聖書のテキストはヨハネの12章20−26節でした。イエス様はご自分の死と復活を予告しておられます。そしてそれだけでなく、同じような生き方に私たちをも招いておられました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、…。」

私たちの持っている命は限られた命、その使い道を正しく知らなくては、そして、一日一日を大切に生きなくてはと教えられたことでした。          

2011年4月20日水曜日

ヨブ記34章

 若者エリフの言葉は、あくまでヨブに対する問いかけであって決めつけでない。ヨブの苦しみにかすりもしなかった三人の友人たちと異なり、あくまでヨブの言葉を取り上げ、それが神に対して語り得る言葉か、その中身において不遜ではないか、との問いかけである。私たちは、エリフが正しいか正しくないかではなく、自分の信仰、祈りのあり方が問われる。つぶやくようでいて神を信じているから祈る祈り。これがヨブの言葉だったのではないかと思う。不信仰、失望につながるつぶやきではなく、神信頼に立ち、希望が強くなっていく祈りへ、エリフの厳しい言葉を通して導かれる。

2011年4月13日水曜日

ヨブ記33章

 今日の学びはヨブ記33章でした。真実を語らなかったと評価を下されている友人たちの言葉と違い、エリフの言葉は、何のフィルターもなく、私たちに突きつけられています。だから、そのまま丁寧に読むことが必要。そして丁寧に読んでいくと、エリフが年輩者を立てて長い間沈黙を守っていた若者であり、勇み足を踏むような人物でないのだということを思い知らされます。
 納得出来ないことがあるから語るけれど、自分だけが正しいとも思っていない。そして彼はヨブの言葉をよく聴いています。一般論を語ってヨブの苦しみにも悲しみにも近づくことのなかった友人たちとは大違いです。
 エリフの言っていることはヨブの問題点を確かに突いたのか?わかりません。ただ言えることは、友人たちにも確信を変えなかったヨブに厳しくも丁寧に論じ合って行くエリフの言葉は、正しい信仰の隘路へ、わたしたちを引き上げる力を持っているということです。
 信仰の道を選びとった次の瞬間、不信仰に陥るということが、私たちにはありうることだと思うのです。そしてそれは間違わない方が良い明らかなミスなのです。

2011年4月3日日曜日

よくなりたいか

 今日はヨハネの福音書5:1−29。少し長い個所でしたが、一連の出来事がつながっているので、三つのポイントを学びました。わたしたちの向き合っている現実にも適用できることが沢山ありました。1、イエス様は病いに苦しんでいる人々の中で、誰の援助も受けることができずチャンスが目の前を通り過ぎていくだけの男性を助けられました。私たちの暮らしの中でも誰からも助けてもらえない孤立している人を私たちは助けなくてはならないと思います。2、その援助を律法違反として摘発しようとするユダヤ人の問題。目の前に長年の苦しみから解放された人がいるというのに、共に喜ぶどころか自分たちの権威の拠り所となっているルールを振りかざす無慈悲な人たち。現実の問題の中で優先順位を間違わない人でありたいものです。人間にとって大切なことって何でしょう。3、聞いて、信じる者は、命を持つ、すでに永遠の命がその人のうちではじまっている。説教では聞いて信じることがどうして現実の変化につながるのかということも何の不思議もないことをお話ししました。神様のくださる最も良いものは、信仰によって確かに受け取ることができるものなのです。

2011年3月30日水曜日

健全な自尊心

 今日はヨブ記の31章を学びました。ヨブの最後の主張です。彼自身の善行の羅列です。こういうことを主張しうる人物が本当にいたのだろうか、という疑問も湧きますが、信じて読んでみます。
 私たちはこれほど完全な人間にはなれないだろうと思います。でも今日一つ良いことを行えたなら、おごりたかぶるのではなく、自信をもっていいのではないでしょうか。30章には誰からも疎んじられているヨブの姿がありました。しかし同じ人物が、ただ自分の信念だけを頼りに、苦痛と闘い、神の善を信じ、自分を信じ、忍耐しているのです。そして想像を超えた神に出会っていく。
 ヨブの言葉、その存在は、信じ難い人物なのに、今日の私を確かに励ましてくれる存在となっていきます。

2011年3月27日日曜日

預言者故郷に入れられず

 今日3月27日の礼拝説教の聖書箇所はヨハネの福音書4章43節から54節でした。故郷では歓迎されないイエス様が、ガリラヤで歓迎され、王室役人の息子を癒し、この家族はイエス様を信じた。
 この個所、私たちが人間的な関心で読みますと、わからなくなってしまう可能性があります。イエス様はある人を癒し、ある人を癒さないのか。神がおられるなら何故地上に病気で苦しむ人がいるのか。しかしイエスキリストには地上に来られた理由、働きの目的がありました。
 聖書は初め息子の癒しのみ求めていた男が、次第にイエスキリストご自身の本当の姿に目覚めていく様をシンプルな言葉で示しています。イエスキリストが自分の息子を助けてくれた時、彼はこの方が単に病いを癒すだけのお方ではないということを悟るに至ったのです。彼は単に息子の病いを癒していただいただけでなく、家族ごと神のくださる永遠のいのちの恵みにあずかることとなったのです。

2011年3月23日水曜日

あなたはお答えになりません。

 今日、夜の祈祷会は計画停電の時間帯に入っています。でもまだ電気、通じています。電気が落ちる前に今日のブログを投稿できますでしょうか。
 今日はヨブ記の30章でした。ヨブの最後の主張、29章の幸いな過去の回顧と対を為す、現状の掘り下げ。かつて誰からも敬われた過去と対照的な、誰からも蔑まれている現状、そして、共におられた神が答えてくださらないように見える現状のつらさ。ヨブは神様が自分を「泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。」と現状を告げます。
 この章ほど、先のヨブの妻の言葉にリアリティを与える章はないのではないでしょうか。「神を呪って死になさい。」
 しかしヨブは苦しみに悶えながらも、信仰を手放さないのです。答えられないように見える神が答えてくださらないとは思わない。
 そして聖書は、そのヨブの信仰の選択が間違っていなかったと私たちに教えています。どのような時にも善なる神様がおられることを否定する必要はないのだ。信じ続けることが間違っていないのだ、聖書はそう教えているのです。

2011年3月20日日曜日

一人として滅びることを願わない神

 今日は近隣の五教会で講壇交換を行います。新船橋には行徳の山本真仕牧師が来てくださいます。ヨハネの福音書3章からメッセージしてくださいますが、山本牧師より聖書のテキストを伺って驚きました。今日、私が習志野台キリスト教会で扱う聖書のテキストと一緒だったからです。私たち五教会は千葉宣教区の中でもさらに親しい交わりを持っていますが、祈りの一致といいますか、御霊の一致といいますか、今、語らなければならないこと、同じ神様に導かれて、同じ言葉を与えられているのだと思いました。
 私たちはこの世を造られた神様が、私たちを愛しておられることが分からなくなる時があります。神は怒っておられるのではないか?世を裁こうとしておられるのではないか?
 聖書の中の小聖書と呼ばれるヨハネの3章16節はこう語ります。
「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。」

2011年3月16日水曜日

絶望してもおかしくないのに

 今日は祈祷会でヨブ記29章を学びます。ヨブ記29章はヨブの幸いな過去の回顧です。子どもたちの命も、すべての財産も、自分自身の健康も奪われて、絶望してもおかしくないのに、幸いな過去を回顧するヨブは何を考えているのでしょう。つらい現実からの逃避とは異なるものが聖書から読み取れます。正しく歩んだ過去に対する自信を失わないことが、何もかも奪われてなお力強いヨブの姿です。

12節それは私が
   助けを叫び求める貧しい者を助け出し、
   身寄りのないみなしごを助け出したからだ。

 今日もわたしたちがよきわざを行うことができるように力をください。イエスの御名により。

2011年3月14日月曜日

目を上げて色づく畑を見なさい

 3月13日はヨハネの福音書4章27節から42節を学びました。神様の御心に従った働きを為すことをご自身の糧とするイエス様。疲れ果ててしまいそうなわたしたちに、何を為せば働いていてもそこで力を得ることができるのか教えていただきました。体の限界を持った私たち。しっかり休み、しっかり食べて、養われる必要がありますが、しかし、このような時、「良き業」に励むことは疲れ果てることではない、そのような励ましをいただきました。

2011年3月9日水曜日

本当の知恵の所有者

 本日の祈祷会ではヨブ記28章を学びました。前回からヨブの自分の格言を取り上げて語る言葉を学んでいます。28章はヨブの鉱物学でしょうか?古い書物でありながら、地上の生き物の目に触れることのない地下の世界、炭坑夫のような視点でヨブは知識を披露します。しかしそれはこれらのことを知っていてもなお自分は知恵を見つけることのできない者なのだと語るためでした。本当の知恵の所有者は神お一人である。いわゆる「無知の知」ということだと思いますが、肝心なのは、この認識のゆえに、ヨブが現在の自分に満足していることでしょう。納得出来ないことがある。でも自分は全てを悟ったものではないのだから、納得出来なくても仕方ない。色々な不幸を言い訳にせず、悪に手を染めない理由がある、そう信じて行動していることです。

2011年3月6日日曜日

決して渇かない水

 本日の礼拝では一年間奉仕実習をしてくださったO実習生が立証してくださいました。大学一年生で母教会、母教団を離れての実習、初めてのことも多々ある中、精一杯やってくださいました。心から感謝いたします。
 説教はヨハネの福音書4章。サマリヤの女。ぱっと見、不思議に思えるイエス様の言葉の一つ一つが、サマリヤ人女性に対する愛と配慮に満ちた言葉であることに驚かされました。
 しかも暖かく包み込むような愛だけでなく、問題点に切り込む時の大胆さ。しかし、本当に彼女の救われることを願って、誠実にことを進めるイエス様の姿、その愛は私たちにも向けられたものであるのだと思いました。
 もし今、現実の自分を受け入れることができず心の渇きを覚えているなら、イエス・キリストに求めてみませんか。イエス・キリストは「わたしがあなたを永遠に満たし続ける」そう言われ、実行されるお方なのです。

2011年3月2日水曜日

神学、言葉のうわっつら

 今日の祈祷会はヨブ記27章でした。後半は悪を必ず裁かれる神への確信を語るヨブの言葉。同じことを語る友人たちと何が違うのか。ヨブ記も27章まで読み進めると、違いは明白です。いやそもそも違っていたのですが。
 同じ言葉を語っていても、現実と格闘して中身のある希望の言葉を語る人がいます。同じ言葉を語っていても、人を傷つけ現実が見えていない人がいます。
 自分はどちらだろうかと問われたことでした。

2011年2月28日月曜日

いさぎよさ

 昨日学んだヨハネの福音書3章の結び、印象に残るのはバプテスマのヨハネの潔さです。それは彼にとっては当然のことでしたが、彼の弟子たちがそうでなかったことと比較すると歴然です。
 イエスが来られたというのに、人々がイエスの方に集まることを苛立たしく思う、妬ましく思う。本当に大切なことが見えていないと、私たちは自分を自分の利益を守ろうとして、心の中に間違った思いを培うことになるのです。
 ところがバプテスマのヨハネは、喜んでいました。自分が衰え、その働きを終えていくことが分かっていても、天からいただいた使命を全うし、花嫁の花婿が到着したことを喜ぶ友人のように、多くの人の幸いを共に喜んだのです。
 潔い人生、自分はこのように生きれるだろうかと問われました。

2011年2月27日日曜日

天から来る方

2月27日主日礼拝、説教のタイトルは「天から来る方」です。ヨハネによる福音書の3章の結び、イエスキリストとは何者なのか。唯一の崇むべき方への礼拝の心が導かれますように。

2011年2月24日木曜日

2月24日(木)

 今日は定例婦人会です。ジョン・ホワイト著「新信仰生活入門」の最終章「闘い」を読み、学びます。

2月23日(水)ヨブ記26章

 昨日はヨブ記26章を学びました。友人ビルダデに向かって語るヨブの言葉は、そのまま私たちにも投げかけられているのでしょう。「あなたは無力な者をどのようにして助けたのか。」私たちは自分の親しい関係の人が困っていたら、助けの手を差し伸べようとするでしょう。しかしそれは本当にその人を助けることになっていたかどうか。自分の過去の行動を鏡に映して。それからもう一度初めていきたいものです。また26章にはヨブの神学があります。ビルダデの神学に対抗するように。苦難に会っているというのにヨブの言葉は深みと力強さを増していきます。ヨブ記全42章は、試練が正しい人をどのように強くするのか、その実際を伝えています。ヨブは神について語りながら、結論「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。」すべてを見極めることができない自分に到達します。そしてそのことが疑いや揺らぎではなく、今や彼の力強さになっていくのです。下川羊和

2011年2月21日月曜日

2月20日説教原稿

2月20日(日)
『神様はあなたを愛しています』ヨハネ3章16−21節 下川羊和牧師

天にいます父なる神様、尊いお名前を賛美いたします。わたしたちは今日もあなたの語りかけを待ち望みます。どうぞお語りください。そして聖霊の助けをもって私たちに真理を悟らせてください。ニコデモを通して私たちにも語られたイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

 今日第一に注目すべき言葉は、16節、神は世を愛された。という言葉です。

 それは単に、今日の説教の第一のポイントであるだけでなく、私たちの人生の全てにおいて、第一に信じるべき神の愛です。

 ここから初めていかないと、私たちのすべては暗やみに陥ってしまいます。神の愛は、正しい道のスタートです。今日、改めて私たちは、神の愛を信じることから初めていきましょう。

 しかし、正直に言いまして、この節を読む時に、私自身はいつも違和感を持つものです。

 正しい神が、罪も過ちも持っている世を愛されたというのはどういうことだろう。

 世というのは、私たちの生きているこの世界全てを指しています。人間だけでなく、全宇宙。神様のおつくりになった世界の全てです。しかし、その中で、神の愛に自由な意思を持って応答するのは人間だけですから、世を私たちすべての人間と考えてもよいでしょうが、

 正しい神が、罪も過ちも持っている人間を愛されたという。

 私たちは、自分の考えにとらわれるなら、神様が私たちを愛している神様なのか、私たちを愛していない神様なのか、わからなくなってしまうことがあります。日常の出来事は、私たちを喜ばせもしますし、また悲しませもします。しかし、そういうことで、神様のことが分からなくなってしまってはならないのです。

 なぜなら、一人子をお与えになったほどに、という証拠が、私たちに突きつけられているからです。

 原因と結果をしっかりと心に刻みましょう。

 神の愛は、イエスキリストが地上に生まれる前から、神ご自身の中に存在していました。

 そして、人が罪を犯す前から、人を愛しており、人が罪を犯して神から離れたものとされてからも、変わらずに、人を愛していました。

 神ご自身は、永遠の昔から、変わらず今も、世界のすべてに対して、人類の全てに対して愛、だったのです。

 しかし、罪を犯して、神から離れてしまった人間は、神様がどのようなお方か、分からなくなってしまいました。

 神ご自身が、おられるのかおられないかも分からなくなってしまったというのが、現在の現代の私たちの状況でしょう。神から離れてあまりにも久しいので、神無しに物事を考えることの方が当たり前になってしまっている。

 私たちは、迷い道をさらに迷って、暗やみのどんぞこにいるのだ、そのことに気付かなくてはなりません。そして、聖書の言葉をたよりに、そもそも、私たちは、初めどのような状態にいたのか、今どのような状態にいるのかをわきまえる必要があるのです。

 初めの状態とは、神の愛の中にいたこと。今の状態とは、罪を持って神から離れたものとなったこと、しかし、なお神の愛は私たちに向けられているということです。神の、愛であることは、他の神様の持っておられる本質と同様に、永遠に変わることのない神の本性なのです。

 しかし、神の本性である愛が、分からないものになっている人間に、もう一度伝えられる必要がありました。人が神から離れて神を分からないものになっているからです。

 それで天から、神の一人子が地上にやってくる必要がありました。ご自身、神に等しいお方が、地上の私たちの所に近づいて、神の愛を愛の神を知らせる必要があったのです。

 私たちのニーズであって神様のニーズではありません。ですが、私たちの必要であるにも関わらず、これを満たしたのは神様の方でした。

 なぜですか。神様が私たちを愛しておられたからです。今もなお愛しているからです。そして、私たちは、私たちを愛しておられるお方が、たった一人の唯一の神であるので、この神様の愛を片思いに終わらせてしまってはならないのです。

 神様の愛を、どうしたら信じられるのか、それは神の一人子に注目することによってです。その一人子をお与えになったほどに、と記されているからです。

 イエスキリストを見なければ、私たちの心の中で、神の愛は不確かなものになってしまいます。しかし、イエスキリストを注目するなら、私たちは愛の神を信じ、確信することができるのです。

 毎週礼拝に集うのは、そのためでしょう。毎日聖書を読むのはそのためでしょう。イエスキリストにつながっていなければ、愛の神が不確かなものになってしまうからです。

 今日、第二のポイントに移る前に、第一のポイント、16節の最初のフレーズに「実に」という言葉があることにも注目しておきましょう。

 実に、この言葉には二つの意味があるでしょう。

 事実、本当にその通りだ、という意味と、驚くべきことに、真実にというもう一つの意味です。

 事実、イエスキリストが地上に来られた。聖書が私たちに告げる歴史の事実です。福音書を通して、事実神の御子である方が、地上に来られたということをはっきりと悟らなければ、神の愛は不確かなものになってしまいます。しかし、忠実な聖書記者たちの筆のわざによって、キリストの生涯を、キリストの死と、復活の事実を詳細に確かめることによって、私たちは神の愛を確実なものとすることができるのです。

 そして、これは、驚くべき奇蹟でした。科学は、繰り返し起こる現象について、原因と結果を証明することができますが、一度しか起こらないことについては、証明することも理論づけることもできません。ただ事実を観察することができるのみです。

 わたしたち人間の命がそれであり、これは、永遠の時間の中で、いちどきりしか生じないものなのです。

 そして、キリストが地上に来られたことも、ご自身を神として十字架で死なれたことも、実に驚くべき行動でした。

 なぜ神である方が人間にならなくてはならなかったのですか。なぜキリストは、ご自分を真の神であると主張しつづけて十字架で死ななければならなかったのですか。

 どこにも、普通に考えうる理由はありません。

 イエス様が、死にたくなるような絶望的な人生を歩んでいたとは、誰も考えられないでしょう。人々を愛し、人々に愛され、また人々を助けるイエス様は、誰からも必要とされていました。

 ですが、人間には、イエス様に助けていただく以上に、もっと根源的な必要があったのです。

 私たちが求めもしない、神様との交わりを回復するためです。なぜならそもそも私たちは、永遠に神と共に生きるために、もっともっと祝福された命を生きるように、造られたものだったからです。

 しかし私たちは神無しの人生を選び、神に背を向けた。この罪が解決される必要がありました。

 ケンカをしたなら、どちらかが先にごめんなさいと誤らなくては解決はありません。わたしたちが先にあやまったのではなく、神様が、先に、ゆるしますと言ってくださったのです。神様は愛だからです。

 そして、神様の差し出した和解の手が、地上に生まれたイエスキリストなのです。十字架で、私たちの罪を身代わりに背負って死んだイエス様なのです。

 神に背を向けた私たちの罪の結果は死です。この罪を帳消しにするには、誰かが代わりに命を差し出さなくてはなりません。私たちの身代わりを果たす責任のある人はいるでしょうか。驚くべきことに創造主なる神様が何の必要もないのに、ただ愛のゆえに私たちの身代わりになられたのです。

 罪の代価は支払われました。神様は、愛のゆえに一人子を惜しまなかったのです。イエス様も愛のゆえに、私たちの身代わりとなることを厭わなかったのです。私たちはイエスキリストの十字架に注目するとき、わたしたちを理由無く愛してやまない神様に出会うのです。わたしたちをただ愛のゆえに愛しておられる神様に、キリストの十字架を通して出会うのです。

 今日、第二のポイントを学びましょう。それは何のためか。御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。

 すでに第一のポイント神の愛の中で、第二のポイントまで語ってしまったような気がします。私たちを愛した神様は、全ての人が永遠のいのちを取り戻すように願っておられる。しかし、それは、御子を信じることによって与えられる。正しい手段を聖書は教えています。

 新改訳聖書は、かぎかっこを15節で終わりにしていますが、16節以降の言葉が、ニコデモに対して語られたイエス様の言葉であると解釈することも可能です。

 16節以降が、より普遍的な真理であるので、福音書記者ヨハネの言葉だと解釈するのが新改訳聖書なのですが、しかし、より普遍的な真理であるからこそ、イエス様ご自身がニコデモに向かって、そして、今日の聖書の読者である私たちに向かって語ったと考えることも可能ではないかと思います。私自身はその方が良いように思います。

 第二のポイント、重要なことは、神の愛を受け取る方法が、正しい方法は一つだけということです。神の愛は、すべての人に向けられたものです。わたしたちは何の恐れもなく神の愛を信じるべきです。誰もが安心してここに飛び込むことが許されています。

 しかし、正しく飛び込む方法は一つだけです。神の愛を受け取る仕方は、若干の緊張が必要です。私たちはここをそれたら失敗するのです。

 どうしてイエスキリストを信じなくてはならないのでしょうか。ここまで学んで来た方はすでに気付いておられる方もいらっしゃると思いますが、イエスキリストが神の愛のあらわれであるからです。

 あなたをゆるします。あなたを愛しているからです。あなたがわたしにとって尊い存在だからです。という言葉が、イエス様そのものだからです。

 聖書は、ここで、適切に、御子を信じる者が、と書き記しています。イエスキリストを信じる、ということで曖昧にしません。

 ナザレの人イエスが、神の御子であるということを信じなければ、神の愛を受け取ることができないからです。愛の神に出会うことはできないからです。

 イエス様は14節15節でご自分のことを人の子と言われました。確かに人としてニコデモの前におり、またやがて人として十字架に上げられるご自分のことを指しているからです。

 しかし、その意味については、ニコデモの目の前にいるわたしが、やがて十字架で死ぬわたしが、神の御子なのだということを知り、信じなければならないとおっしゃられたのです。

 ここで道は二つに分かれます。間違った道を最初にお教えしましょう。ナザレの人イエスは、気の狂った救世主願望に取り憑かれた人物だったので、自分を神だと主張し続けて、ユダヤ人たちの怒りをかって処刑されたのだ。あいつは神でも何でもないただの気違いだ。

 そう考えることも可能です。ただし、イエス様を否定するためには、これくらいに考えないと、自ら十字架へ進まれたイエス様の動機を見いだすことはできないのです。

 ところが、聖書をちゃんと読んでいきますと、到底このお方を気違い呼ばわりすることはできない。愛と力をもって、誠実をもって人の前を歩まれたお方が、愛ゆえに私たちのために死なれたということだけが私たちの目の前に呈示されるのです。

 十字架上のイエス様を見上げたローマの兵士が、この方は真に神の子であったと告白せざるを得なかった、驚きがわたしたちを包み込むのです。そして、わたしたちは、十字架のイエス様を通して、神の愛を確信するのです。

 もはや自分を振り返って神様の愛にふさわしいかふさわしくないか、そんなことを考える必要はありません。十字架の犠牲は、今日も私たちの罪を完全にぬぐい去る聖めなのです。

 十字架に架かられたイエス様の背中の向こうに、私たちのあらゆる汚れが、おしのけられている。私たちに差し出されているのは、両手を広げて私たちを抱き締めようとしておられるイエス様の御手なのです。

 神の愛を受け取る方法は、このイエス様の御手に飛び込むこと。間違ってはなりません。なぜなら愛はここに示されたからです。他にはない。愛とはそのような性質のものです。全ての人に開かれている。しかし、扉は一つです。この真理は愛の内側に存在している本質的なものであることを私たちは悟るものとさせていただきたいと思います。

 第3のポイントは今日は詳細に語らないことにいたします。なぜなら第3のポイントは、第一のポイントと第二のポイントを正確に把握したならば、当然出て来る帰結だからです。

 神は愛である。御子は救い主である、この二つのことを順序正しく理解したならば、17節から21節の言葉は、否定しようのない真理となることがわかると思います。ただしそれは第一のポイント、第二のポイントを正しく理解した上でのことです。

 もし、神の愛であることが分からないなら、先へ進まないことです。イエス様の救い主であることが分からないなら、同様に先へ進まないことです。

 第二のポイントの先は分かれ道だからです。イエスキリストは、たった一人の救い主であって、この方以外に救いはないので、他の道にそれたら、私たちは闇の中に自分を置いてしまうことになるからです。そのことは、充分警告してあまりある、大きな危険、取り返しのつかない過ちになります。なぜでしょう。愛の神のあらわれである救い主イエスキリスト以外に神の愛を受け取る方法は、ないからです。

 最後に21節を読みましょう。私たちが進むべき道が示されています。

 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 大切なのは、光の方に向かって進むということです。真理を行うか行わないかではなくて、光の方角を選ぶことです。光の方角を選ぶと、その行いは正されて行く、だから私たちは正しい方向を向かなくてはなりません。そして、光の方へ進む私たちは、神にあってことを成し遂げることができるのです。お祈りいたします。

天にいます父なる神様、尊いお名前を心からほめたたえます。今日は、あなたの御言葉のもっともすばらしい一節を学びました。どうぞこの御言葉を素直にそのまま私の心の中に響かせてください。ここに記されたあなたの愛を私たちは今日新しい気持ちで受け取ります。あなたを求めることを知らない私たちを、いつも限りない愛で愛してくださる愛をありがとうございます。どうぞ今日わたしたちはあなたの愛を受け取りましたから、この愛を忘れることなく、愛に答えて生きていくことができますように。地上の人生のあらゆる営みの中で、変わらないあなたの愛を覚えて、隣人に仕え続けていくことができますように。尽きることのない力をくださいますようにお願いいたします。いつも私たちに神様の愛を教えてくださる十字架の主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 


2011年2月18日金曜日

 2月20日(日)の礼拝説教ではヨハネの福音書3章16節を取り上げます。聖書中の聖書、福音の中の福音、宗教改革者ルターはこの御言葉を「小型の聖書」と呼んだそうです。
 改めて聖書の言葉を眺めていましたが「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。」「神は世を愛された」という言葉が心に飛び込んできました。
 私たちの、神様について理解すべき、大切な、おそらく、第一の教えが、ここに記されているではないですか。神様は愛なのです。神様は私たちを愛しているのです。正しい人、清い人、役に立つ人、を愛しているのではないのです。「世」すなわちこの世界全部です。その証しとして、一人子のイエス・キリストを地上に送られた。
 私たち人間に一番必要なものって何でしょう。愛だなって思います。この愛を神様からしっかりいただくことができたら、そんな風に思って聖書を読んでいます。

下川羊和

2011年2月12日土曜日

2月13日(日) 主日礼拝

 2月13日の礼拝説教のタイトルは「人は年老いて新しく生まれることができる」でした。ヨハネによる福音書3章1節〜15節からメッセージしました。