2012年10月31日水曜日

ウザの割り込み

今日は第二サムエル記6章から、契約の箱をダビデの町に運び込む様子を学んだ。ひっくり返りそうになった箱を押さえたウザが主の怒りをかって即死する場面は、説教後の話し合いでたいへんな話題となった。なかなか理解しがたい。しかしそれまで契約の箱をあずかっていた祭司の息子であるなら、どのような取扱が正しいのか、知らなかったはずはない。聖書は契約の箱、神の臨在に対して、人がどのような姿勢を取るか、一貫して語り続けている。神は神であって、人間の都合のいいように解釈できるお方ではない。畏敬の念、崇め礼拝すべきお方であるという秩序を考えさせられる。と同時に、恐れるだけのお方でもない。そこに神様が共におられるなら、祝福は確かに存在する。私たちは、恐れつつ、喜ぶべきでもある。ちからの限り、歌い、踊った、ダビデ、イスラエルの人々のように、私たちは神の共におられることを心底喜び礼拝をささげているだろうかと問われた。イエス・キリストの贖いのゆえに、信じる者と共にいてくださると約束しておられる神様の臨在は、ちからの限り喜ぶべきことなのだ。

2012年10月29日月曜日

王たちの戦い

昨日は創世記14章を学びました。古代中近東の世界でいくつもの王国がひしめき、王たちがせめぎあう時代、支配的なエラムの王、ケドルラオメルに反逆する人々。この戦のあおりをくって、ソドムの住人となっていたアブラハムの甥ロトは、家族、財産もろとも連れ去られることになりますが、この知らせを聞いたアブラハムは、318人のしもべを招集して追跡、甥とその家族、財産を取り戻すことに成功します。この物語を信仰をもって読まなければ、それはどの王が勝ちどの王が負け、誰が被害を被り、誰が分捕り物を得たというただそれだけの記録に過ぎないでしょう。しかし、信仰を持ってこの物語を読むならば、目に見えない天地万物の創造主なる神の御声を聞いて、人生を歩み始めたアブラハムの生涯が、戦乱の時代にも神に導かれたということの証しなのです。そして、古代の王たちの栄華を引き継ぐ人々はもはや存在しませんが、信仰をもって創造主なる神を仰ぎ見る民は、今日も、面々と続いているのです。アブラハムのもとを訪れるシャレムの王メルキゼデクは、信仰の道を彼に教えます。「祝福を受けよ、天と地を造られた方、いと高き神より。」祝福とは何か?これも地上のことばかり、目に見えるものばかりに心奪われていると理解出来なくなってしまう言葉です。神の祝福を求める生き方、これこそ目標を見失わない、人の目指すべき本来のものなのです。「いと高き神に誉れあれ。」アブラハムを勝利に導かれたのは神ですから、神こそほめたたえられるべきお方。そして他方、アブラハムはソドムの王からの贈り物を拒否します。私たちは何を求め、何を拒んで生きるべきか、考えさせられるところです。

2012年10月24日水曜日

主がしてくださっていることを知る

今日は第二サムエル記5章を学びました。ダビデがいよいよ全イスラエルの王となります。その中で、12節、ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。との聖書のことばが印象的です。やること為すことが成功するさなかで、わたしがやった、ではなく、神様が働いてくださっている、そのことを忘れない人物がダビデでした。自分自身の良き時にも、悪い時にも、働いておられる神様のことがわかるものでありたいと思わされました。

2012年10月14日日曜日

道の選択

今日は創世記13章を読み、アブラハムの道の選択を学びました。祝されて、その土地が狭くなったとき、アブラハムは甥のロトに、行きたい道を選ばさせ、自分はその後に、道を選ぶ、ゆとりを見せました。見目麗しい場所を選んだロトの選択が愚かであったことは、後に明らかになります。ロトに道を譲ったアブラハムのやり方が賢明であったことも後に明らかになります。しかし、ヨルダンの低地を選ぶ、選ばないが本質的な問題ではなかったということを見抜く必要があるでしょう。大切なのは、アブラハムが、主の共におられるゆえに、どこへ行っても、祝福の約束は変わらないと考えたことではないでしょうか。目に見えない神が、約束のゆえに共にいて、約束のゆえに祝福してくださる、そう信じる信仰者は、どんな場合にも、本当の自由を持っていて、祝福に到達するのです。

2012年10月11日木曜日

ユダ・イスラエル戦役

昨日はサムエル記第2の2章から4章を読みました。サウルとヨナタンの死を弔ったダビデは、時熟したかと主に伺いをたて、ユダの町ヘブロンでユダの家の王となります。続いてサウルの葬儀の知らせを聞くと、丁重に返事をしつつ、サウルの陣営に、自分がユダの王となったことを知らせます。サウルが死んだのだから、私とともに、全イスラエルとして立ち上がろうとの思いが読み取れます。しかし、ダビデの思いに反して、サウルの家では将軍アブネルがイシュ・ボシェテを擁立し、ユダに対抗することになったのでした。ユダ・イスラエル戦役です。同じヘブル人でありながら、互いのことをよく知ったもの同士でありながら、戦の最後は、双方に死者を出すことになります。アブネルの部下は360人死に、ダビデの家来は19人と、ヨアブの兄弟アサエルを失うことになったのでした。多くの犠牲が出てから、停戦を呼びかけるアブネルの言葉は、それだけを取り出せば、戦を否定する賢い言葉ですが、そもそもの原因を作ったのは彼自身です。人間とはこのようなものなのでしょうか。戦争をして初めて戦争の愚かさを知る。しかし、話しはこれでは終わりません。形勢は次第にダビデの家がサウルの家を圧倒するようになります。すると将軍アブネルは王イシュ・ボシェテを裏切り、ユダの家に投降するのです。これを寛大に受け入れるダビデと、王であるダビデを無視してアブネル暗殺を実行に移すユダの将軍ヨアブの姿が非常に対照的です。敵であっても考えを変えるなら受け入れようとするダビデ。相手が油断した隙に、亡き弟の無念をはらすヨアブ、人間の選択する道は色々です。私たちはどのような道を選択するのでしょうか。アブネルの死を心から悼むダビデの姿は、民の目に信頼に足るリーダーと映っていったのでした。4章にはイシュ・ボシェテの最期が記されていますが、この章で特に動きのないヨナタンの息子メフィボシェテが登場するのが不思議です。後にヨナタンのゆえにダビデ王家に迎えられて行くメフィボシェテ。メフィボシェテにこのように振る舞ったなら、イシュ・ボシェテにも誠実を尽くすダビデであったはず。それなのに王を殺して恐れないバアナとレカブの行動は、死に価する罪深い行為だったのでした。

2012年10月8日月曜日

アブラハムの生涯・信仰の旅立ち

昨日は、創世記12章より「信仰の旅立ち」と題して、アブラハムの生涯を学び始めました。11章の後半も少し読んでみました。約束の地へ行けとの命令は、アブラハムの父、テラの存命中に、創造主なる神から与えられ、テラもカナンを目指したのですが、中途のハランに住み着くこととなる。アブラハムの旅立ちはこの父の死後のことでした。神の言葉に従う生涯を全うするものとなるか、挫折するか。ヘブル人への手紙より、信仰によるものが、神の言葉に従う生涯を全うできるのだと学びました。しかし、信仰による生涯とはどのようなものなのか。12章1節から3節の神様の言葉を通して、私たちに要求されるもの、神のことばを信じて従うこと、そして、それを圧倒してあまりある神ご自身のなされるわざ、信仰は、何を信じるかということがとても大切です。そしてアブラハムはカナンの地に入りますが、そこでしたことが印象的でした。約束の地を得て、土台を築き、御殿を建てたのかと思いきや、礼拝のための祭壇は築きましたが、彼自身はテント生活です。アブラハムは羊飼い、そのことを改めて教えられました。イスラエル王国の最盛期を準備したダビデも、神殿建設の準備を為し終えようという時、自分は父祖たちのように地上では旅人でしたと告白しています。これこそ信仰の生涯です。わたしたちは地上では旅人。旅人だから地上の生活がどうでもいいというのではありません。旅には旅の目的があり、また目指すべきゴールがあります。これからアブラハムの生涯を学ぶことになります。旅人人生をどう送るか。そして天の故郷がやがてこの私をどのように迎えてくれるのか、見据えて今日を生きるものとさせていただきたいと思います。

2012年10月3日水曜日

ダビデによる哀歌

今日はサムエル記第二の1章を学びました。初めにツィケラグにいるダビデの元に一人のアマレク人がサウルとヨナタンの訃報を知らせます。彼の語ることはサムエル記第一の31章に記されたサウルの最期の様子と、微妙に異なっているのですが、おそらくは偽りを語り、自分がサウルを殺したことを手柄として、ダビデから報償を受け取ろうと考えたのではないでしょうか。ところが彼が想像していなかったことが起きます。ダビデ以下家来たちまでもが、激しい悲しみに陥ったのです。サウルから命を付け狙われていたダビデ。第三者から見ればサウル憎しの心情をダビデが抱いていてもおかしくない。しかし、ダビデは油注がれた王であるサウルを真心から敬い、慕っていたのです。少なくとも、聖書にあらわれているのは、ダビデのサウルに対する敬いの心情です。上辺だけの悲しみで、衣を引き裂くでしょうか。一日のこととは言え、断食をするでしょうか。そして俺はサウルを殺してやったと自慢げに話すアマレク人は、油注がれた方に手をかけて恐れなかったことのゆえに処刑されていくのです。
この章の後半は、サウルのため、ヨナタンのために作られたダビデの哀歌です。詩篇などの信仰の詩に比較すると、この歌には宗教的な要素はほとんど見られません。しかし、それだけにダビデが文才、詩人としての賜物に溢れていて、その力を非常な悲しみの中で遺憾なく発揮したことがわかります。至るところに並行法が用いられて、ダビデの感情が、技巧によって深く表現されようとしていることが読み取れます。情景の移り変わり、主題の順序も深く考察されています。23節、サウルとヨナタンの業績をたたえるダビデは、やはり王と王子を深く敬っていたのでした。またとりわけダビデに対して誠実な友情を示し続けたヨナタンの死は、彼にとって最大な悲しみとなったことでした。
ダビデは決して、サウルを憎み彼と戦って、彼を王位から追い落としたのではありませんでした。油注がれた王を敬い、しかるべき時に、神が彼を王とするのです。