2014年4月23日水曜日

神は神々の真ん中でさばきを下す。

 詩篇82篇には神様が沢山出て来るので、一回読んだだけでは何が何だかわからないかもしれません。しかし、単数の神が、天地万物の創造主なる唯一の真の神であって、他の神々は地上の権力者たちのことであると言えば、実に、分かり易くなるでしょう。
 地上の権力者のしわざは、不正なさばきを行うこと、悪者の顔を立てること、他方、弱い者、みなしご、悩む者、乏しい者をないがしろにする。
 彼らは、己を神のごとく人々に崇めさせるけれど、その実、暗やみの中を歩んでいるに過ぎない。彼らの土台はことごとく揺らいでいる。決定的なのは、神と自称しながら、人のように死ぬ。君主たちのように倒れるという言葉は滑稽ですらあります。彼らはまさに君主であっても、人に過ぎないのですから、寿命が来たら死ぬのは当然のことです。
 しかし、この詩篇は決して滑稽でない、人間の歴史に繰り返される、深刻な過ちについて物語、その中で、真の神の歴史に介入されることを切実に願う祈りの詩篇なのです。権力者の神格化は古代の遺物ではなく現代にも繰り返しあらわれるのです。今日も世界には神々がひしめきあっているのではないでしょうか。
 人の世はいつもパワーゲームの繰り返しのように見えます。しかし、真の神を信じる者は、目に見えぬ真の神こそ真の支配者であることを信じることができます。
 「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。」と祈りつつ、歩んでいきましょう。

 なお、教会は先日の日曜日からイエス様の御復活を祝う復活節に入りました。弟子たちが復活されたイエス様に出会ったときの衝撃はいかばかりのものであったか。そのことを詩篇の82篇の言葉を借りて表現するなら、

 イエスこそ 真の神
 イエス様こそ いと高き方の子
 それゆえイエス様は 人のように死んで終わらず
 君主たちのひとりのように 倒れたままでいることがない

 死に打ち勝ったイエス様こそ 神々にまさる真の神であったということに弟子たちは気付き驚き、真に崇むべきお方を世界に知らせるものとなったのでしょう。

2014年4月21日月曜日

祝御復活

 昨日はイエス様の御復活をお祝いするイースターでした。聖書はルカの福音書からエマオの途上の物語を取り上げました。
 第一のポイントは、イエス様の弟子たちも、復活のイエス様にお会いするまでは、死者の復活など到底信じられない、わたしたちと変わらない常識的な人間だったということです。
 第二のポイントは、しかし、イエス様が事実死からよみがえられ、弟子たちはその姿を目の当たりにしたので、信じるようになり、彼らの生き様が変わったのだということです。
 第三のポイントは、イエス様が、私たちの気付く前から、近づいてくださる方であり、心を燃やしてくださる方だということです。

 地上の死は私たちの命の終わりではない、このことを真剣に受け止めるなら私たちの生き様は変わって来るのではないでしょうか。

 最近創世記の4章を読み直す機会が与えられましたが、長年疑問を持っていた見方に変化が与えられました。正しい人アベルはそうそうに殺されて、殺人者カインは生きのびる。不公平ではないですか、そう思っていました。
 しかし、神様の視点でみるなら、正しい人アベルは神のそば近くで永遠に生きるものとされたのです。それに比較したら、罪人として地上で生き続けなければならなかったカインはどれほど大変だったことか。しかし、カインにも悔い改めのチャンスが与えられたのでしょう。
 神様は、恵み深い方であり、公平なお方。神様の視点にたって、また一つ、疑問が少し溶けるような思いがしました。

2014年4月16日水曜日

希望に立って喜び歌う

 今日は詩篇81篇を学びました。前回前々回の79篇、80篇は捕囚期の試練の中での祈り。今回の81篇も状況変わらないようですが、しかし、音調は、1節「喜び歌え」「喜び叫べ」と聴衆を喜びの讃美に誘っています。民がどのようであろうと力の神は変わらない。必ず助けてくださる、必ず救ってくださる、だから試練の中でも「喜び歌え」「喜び叫べ」なのです。信じる者はどのような時にも神に向かって喜び歌う理由があるのです。
 低い声ではなく「声高らかに」。「タンバリン」「六弦の琴」「立琴」などの楽器も動員して。つま弾くのではなく、「かき鳴らせ。ギターならばアルペジオではなくストロークで力強くといったところでしょうか。
 さらに「角笛を吹き鳴らせ」と。角笛はイスラエルの大集団の招集、出発の合図、祭りの合図として用いられました。新月と満月の祭りの日に。奇しくも教会の暦は今週、受難週。昨日はイスラエルの過越の祭りの初日で、美しい満月を見ることができました。米国では皆既月食も見られたといいます。イエス様が十字架に架けられる前、捕らえられたのも満月の煌煌と煌煌と輝く夜だったのでしょうか。
 そして過越の祭りを喜ばしく祝うのは、それが神様によるイスラエル救済の喜ばしい記憶だったからです。5節以降、救いの歴史が回顧され、にもかかわらず神に背信の罪を犯して現状を招いた自分たちの罪も思い出されます。
 しかし約束の神は、心から悔い改め神に立ち返るなら祝福を戻してくださる。16節、最良の小麦を再び食べさせてくださる神様、蜜で満ちたらせてくださる神様を覚えて、詩人は喜びの歌を終えたのでした。恵み深い神様は、必ず回復の時を備えてくださる。だから信じる者は、落胆し失望するのではなく、希望に立って喜びの歌を歌うのです。

2014年4月14日月曜日

棕櫚の主日

 昨日は棕櫚の主日。教会はイエス様の十字架を覚える受難週に入りました。メッセージの聖書箇所も、ルカの福音書からエルサレム入城を学びました。
 今回学んでいて、子ロバの調達に二つの解釈があることを知りました。一つはイエス様があらかじめ手はずを整え、いつか子ロバを借りに来るということを持ち主に伝えていたということ。もう一つの解釈は、イエス様の超自然的な予知能力や、不思議な主権によって、子ロバを借りてくることが何の問題もなく行われたとする解釈。どちらなのかと考えているうちに、聖書の記事そのものが浮き上がってきました。私たちに伝えられているのは、弟子たちがイエス様の言う通りに行動したら、そのように出来たということです。
 もしかしたら、弟子たちも驚いたかもしれないし、いや、あらかじめ準備があったのだと納得したかもしれない。それが奇蹟であってもなくても、イエス様の言う通りにして間違いが無かったという事実は、聖書に記されていることなのです。
 そして棕櫚の主日で最も重要なことは、イエス様がゼカリヤ書9章9節の預言を成就されたということです。軍馬に乗ってではなく、戦いには役に立たない、重い荷物を運ぶロバの子に乗って。イエス様は軍事力によってイスラエルを再興する王でないことを人々に示されたのでした。地上の王国でない、しかし、真の心の王国の真の王様であるということ。
 しかしエルサレムは神の訪れの時を悟りませんでした。平和への道を選びとることができませんでした。エルサレムを見て泣いたイエス様の預言の言葉は40年後に実現します。武装蜂起したイスラエルは、初めはローマの支配を圧倒したものの、最終的にはエルサレムは火を放たれ、残党はマサダの要塞で全滅。女子供までも殺戮される惨劇が起こったのでした。
 国が国に敵対して立ち上がり、民族が民族に敵対する今の時代、私たちも、滅びに至る道、平和に至る道を選び間違えることのないように、子ロバの背中に乗られたイエス様についていくものとさせていただきましょう。

2014年4月9日水曜日

敗北の後の祈り

今日は詩篇80篇を学びました。イスラエルの石垣が破られ、国土が蹂躙されている、そのような時に、信仰者はどう祈るのか。4節には、主なる神様が、民の祈りに怒りを燃やしておられるという状況すら、歌われています。真心からの悔い改めをもたない、中途半端な態度での祈り、ただ自己中心的な願いばかりの祈りは、むしろ神様の怒りを買うこと。しかしそれでも詩人は祈ります。自分たちの救いにとって肝心なことは、神様が状況を「もとに返して」くださること。「御顔を照り輝かせて」くださること。17節では真の王が到来し、神様がこの王様を祝福してくださって、民の救いの実現することが願われています。この詩人の祈りは確かに聴かれ、やがて神様は真の王である主イエス・キリストを地上に送り、心の王国である神の国を堅く打ち建ててくださったのでした。
 「万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、
  御顔を照り輝かせてください。
  そうすれば、私たちは救われます。」詩篇80篇19節