2012年1月23日月曜日

躓かないように

昨日はヨハネの福音書16章前半を学んだ。ご自身の去られる前に、弟子たちのことを心から思いやって語るイエス様の愛が伝わってくる箇所だ。そして、すべてのことはあらかじめわかっていたこと。イエス様の語る未来の出来事はことごとく実現した。何も知らずに未来に遭遇したとしたら、弟子たちはまさに「つまずいた」ことだろう。しかし彼らの師なるイエス様がつまずかないようにと語った言葉によって、彼らは使命をやりとげる人々となったのだろう。私達も力あるイエスの言葉によって生かされていきたい。またご自身の不在は益、悲しむのではなく、もう一人の助け主を喜べという言葉も、即、私達にあてはまる知恵の言葉だった。

2012年1月18日水曜日

主は私の羊飼い

今日は詩篇23篇を学んだ。主は私の羊飼い。ダビデの賛歌とあるが、6節最後の「いつまでも主の家に住まいましょう。」という言葉が、ダビデの頃には神殿が建設されていなかったことからすると、著作性の疑われる理由として挙げられる。しかしダビデは晩年地上では寄留者である、と告白していた。そして神殿建設をとどめられたが、準備万端整えることにいささかも力を削ぐことはなかった。地上で後世のために主の家を建設する準備を整えることに力を注いだダビデは、天上の神の家、永遠の住まいを憧れつつ世を去ったのではないかと思う。

2012年1月16日月曜日

イエスは憎まれた

昨日の説教から。人間は誰しも人に憎まれるより好かれたいと願うだろう。しかしイエス様は弟子たちにご自分が憎まれたということを話した。そして弟子たちも憎まれることがあるだろう、驚いてはならない、恐れてはならないとあらかじめ教えられた。人の評価を気にして、好かれたい、ということで進む道の判断を誤ってはならないことを教えられた。

2012年1月12日木曜日

モーセの死

今日は家庭集会。申命記の終わりからモーセの死について学びました。たった一度、神を聖としなかったことで約束の地に入ることをゆるされない、生涯を終えていくモーセ。その意味はなに?と新約聖書ヘブル人への手紙11章以下も参考にして学びました。新年早々あの世のことを考える集会となりましたが、それは現実を生き抜く力強い信仰につながっていることを確認することができました。

2012年1月11日水曜日

町の再建、廃墟の復興

イザヤ書44章は続けて偽りの神を作ることの愚かさを詳細に記述します。そしてイスラエル(※)に呼びかける神のみがまことの神とご自分を示し、あなたは造られたもの、わたしが造った。と創造者と被造物の違いを明らかにします。神様はそのことで何を言おうとしているのでしょう。測り知れない所がありますが、この神が、「町々を再建し、廃墟を復興させる」と言っています。この預言は成就したのでしょうか。ペルシャ王クロスの時代に、成就しました。しかしまた町々は廃墟となりました。今日はどうでしょう。再建されたとはいえない状態だと思います。復興できるのか。私たちは失望することがあります。しかし創造者なる神は「わたしが成し遂げる」と言われる神なのです。(※新約聖書は信仰によるものが真のイスラエルだと言っています。)

2012年1月10日火曜日

一神教は排他的か。

今日の聖書はイザヤ書41章42章でした。42章にこのような言葉があります。「彫像に拠り頼み、鋳像に、『あなたがたこそ、私達の神々』と言う者は、退けられて、恥を見る。」このように、ユダヤ、キリスト教は、偶像礼拝を忌み嫌いますが、その本質は神ではないものを神のごとく崇めるということと言えるでしょう。だから何が神なのか、あるいは、何が神の言葉なのか、このことに徹底的にこだわるわけです。他宗教を批判することをよしとしているのではないと思います。私は最近佐藤優氏の著作を拝見させていただいていますが、氏の入信の動機を知って興味深く思いました。キリスト教の外の人々よりも一層厳しくキリスト教会を批判する真実な声をキリスト教会の中に発見したので、自分はクリスチャンになったとのことです。理解に間違いがありましたらご容赦ください。誰が神か、何が神の声なのか、このことに対するこだわり、大切にしたいと思いました。

たっくん

昨日は近隣五教会の新年聖会でした。馬込沢の山本進先生が共に取り組んでいるEEに関連して説教してくださいました。ちょうど新船橋キリスト教会で日曜の礼拝の時に読んだのと同じ聖書箇所が重なっていましたので、やはり神様が導いてくださって私たちに一致を与えておられるのだと思いました。コリント人への手紙第一の1章でした。また午後はJJによるパペット、腹話術。伝える中身は変わらない。でもどのように伝えるのかというのは、本当に工夫のしがいのあることであることを、改めて教えられました。私が大好きになったのは、たっくんです。ちょっと不恰好なたっくん。でもJJのお二人がなんとか使えるように工夫したということと、たっくんのけなげな生き様、それを支える信仰の力強さに、人間はどのような状況でも尊厳を持って生きることができるのだと改めて教えられました。感謝します。JJがこれからも豊かに用いられますように!

わたしがあなたを選んだ

おとといの礼拝では「わたしがあなたがたを選んだ」と弟子たちに語るイエス様の言葉を学びました。聖書を通して神の声を聴くというのは何の不思議もない、私たちの人生で起こってくる出来事の背後にある神様の御心を知ることです。このわたしがどうしてここまで生きてきて、今日ここにいるのか、そのことに神様のご計画があり、イエス様の御思いがある、そう語っておられるイエス様の言葉を信じることなのです。聖書の言葉は、私たちの知らない方角からやってきて、私たちの今を支えてくれるのです。

2012年1月7日土曜日

国家存亡の危機

イザヤ書は35章で預言の言葉が中断し、36章はヒゼキヤ王の時代の国家存亡の危機の記事です。多くの国々を滅ぼしたアッシリア帝国、その王セナケリブが将軍ラブ・シャケに大軍をつけて、エルサレムを包囲させた。ラブ・シャケの罵りの言葉に何もかえすことができない人々のなんと非力なことでしょう。しかし物語の最後、撃退されるのはアッシリアの大軍。退却した王セナケリブもその息子たちに殺されるという結末に至ります。歴史の行く末は必ずしも人の思うようには進まない、その中でどのように生きるべきか、考えさせられることです。

2012年1月6日金曜日

夏草や

「夏草や兵どもが夢の跡」とは芭蕉が奥州高館を訪れた時の句ですが、夏草の生い茂る姿に悲劇の歴史、弁慶、義経らの死を思っています。聖書通読マナはイザヤ書34章35章。ここで預言者イザヤも諸国の滅亡の姿を見つめています。「そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルのすみか、だちょうの住む所となる。」権威を礼賛する歴史観ではなく、失敗を見つめること。そこに何があったのか、なぜそこは廃墟となったのか、この視点に立つことが大切なことではないでしょうか。

2012年1月5日木曜日

平和をつくり出すもの

イザヤ書32章17、18節にこんな言葉があります。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」2012年、私たちの暮らしはどのようになっていくのでしょうか。安心して暮らすことのできる年となるといいですね。

2012年1月4日水曜日

手おけの一しずく

新船橋キリスト教会はディボーションテキスト「マナ」を使っています。新年はイザヤ書が続き、古代オリエントのイスラエルを取り囲む諸国の行く末が、預言者イザヤの言葉によって予告されていきます。古代国際情勢と行ってもよいでしょう。そして創造主なる神の視点から、小国も大国も、神の正しいさばきを免れるものではないことを教えられます。イザヤ書40章15節に次のような言葉があります。「見よ。国々は、手おけの一しずく。はかりの上のごみのようにみなされる。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」一人の人間にとって自分の属する国家というものはとても大きなものです。しかし天地万物の創造主なる神からみたら、それも小さなちりにすぎない。しかしそれを見つめる視点は重要ではないかと思いました。

2012年1月2日月曜日

元旦礼拝

昨日は元旦礼拝でした。2011年度はクリスマスも日曜日、元旦も日曜日、主の日に皆で共に集まり、神のみ旨に心を傾け、共に歩んでいける幸いを、いつもの年以上に体験することができまして、感謝しています。次週主日は昨日来れなかった方々も共に集まり、2012年の最初の聖餐式を行います。神の御言葉は、新しい年も、どんなにか私たちを導き、力づけ、押し出してくださることでしょうか。主にある希望と喜びを持って歩む年とさせていただきたいと思います。