2012年7月30日月曜日
罪の結果
昨日は「罪の結果」と題して、創世記3章の後半のメッセージをしました。神様の判決がくだります。人は自由を与えられた生き物。その行動の責任を負ったものであることがわかります。そして今日の人間も世界もその影響の下にあることは否定できないでしょう。神の前に罪を犯した人間は、必ず死ななければならない存在となったのです。しかし神様は罪に対する解決も備えていてくださいました。一度失敗した人間を諦める事無く、この不完全な存在が、もう一度永遠のいのちにあずかる道を用意してくださったのです。神様は、忍耐し、私たちを信じていてくださる方。この神様の前に立ち返る歩みをしたいものです。
2012年7月25日水曜日
エドム人ドエグ
祈祷会では詩篇の学びをお休みして、詩篇の背景となっているサムエル記を学んでいます。今日は第一サムエル記22章、ノブの祭司アヒメレクがダビデを匿ったことをサウルに密告するエドム人ドエグの言葉によって祭司たち85人が虐殺されるという惨劇が起こります。私たちはこのような不条理、悪の跋扈する世界を見つめたとき、何を信じ、どう生きるべきか、暗澹たる気持ちにさせられます。しかしダビデはこのような悲劇の中でも詩篇52のような信仰の祈りをささげていました。到底祈れない、そのような時こそ、詩篇の祈りは、私たちに信仰のあり方を教えてくれているようです。
2012年7月2日月曜日
息を吹き込まれて
昨日は神様からいのちの息を吹き込まれて生きるものとなった人間の創造を学びました。からだは地のちりから、しかし、たましい、いのちは神様からのもの。祈りや賛美、みことばに聴くことは霊的な呼吸。今日も神様からのいのちの息をいただいて、歩んでいきたいことと思わされました。
2012年6月28日木曜日
あらゆる違いを越えて
今日はガラテヤ人への手紙の学び。これまでユダヤ人と異邦人(その他の外国人)ということで語られて来た問題は、実は、すべての民族の対立を越えることであるという初めての言葉を学んだことでした。そんなおおげさなことでなくとも、私たちは日々、自分と異なる他者と出会い、関わり、様々な思いを抱き、生きている存在です。そして異なる他者とどのようにして共に生きることが可能なのか。イエス様はそのことを私たちに教えてくれる最高にして唯一の教師なのだと教えられた次第でした。
2012年6月25日月曜日
やすみの日
日曜日にのんびりすることもなく朝から礼拝にでかけるクリスチャン。休めばいいのに大変ですね、などと声をかけられることもなくはありません。ところが、クリスチャンは礼拝に出席して、心から休んでいるのです。こんなすばらしいリフレッシュの方法はありません。唯一人のまことの神に向き合うとき、わたしたちはあらゆることから、いったん解き放たれるのです。自分自身すら、忘れることができるのです。忘我の境地といった恍惚状態ではありません。あくまで意識的に。自分の関心事をひとまずわきにおいて。そしてそれはまことの神様がどのようなお方であるかを知れば知るほど、深いレベルにおいて可能になっていきます。日曜日を、主日、主の日ともいったりしますが、私たちは私たちを愛しておられる神様にお会いして、新しい命の力を注いでいただいているのです。
2012年6月13日水曜日
ダビデの生涯
祈祷会ではずっと詩篇を学んできましたが、第一巻が終わりましたので、ちょっと詩篇をお休みして、今日からダビデの生涯を学びはじめました。第一サムエル記15章16章から。聖書の記述の見かけ上の矛盾とその伝えんとしていることなど学びながら、少年時代に聖霊の豊かに注がれたダビデの恵みを憶えたことでした。
2012年6月4日月曜日
初めに神が
昨日から私たちは創世記を学び始めました。説教題は「初めに神が」。創世記1章は「天地創造」が記されていると思っていましたが、改めて読みなおして自分のズレに気づきました。創世記1章の主題は「天地創造」ではなく、「天地万物を造られた神」です。この主題の取り違えは、微妙に理解を歪めます。聖書は世界について語ろうとしているのではなく、世界を造られた神について私たちに教えているのです。これからも聖書が教えようとしていることに謙虚に耳を傾けていきたいと思います。
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