2013年11月27日水曜日
荒野を聖所とする
詩篇63篇は、ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに、と記されています。それだというのに、2節では「聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」と歌われています。ダビデは荒野にいるのか?聖所にいるのか?そう問いかけると、ダビデは荒野を聖所に変えたのだ。それは彼の神を求める切なる思いがもたらしたものなのだと教えられます。多くの注解者がこの詩篇を高く評価するのもうなづける所です。詩篇63篇は神との交わりをこそ求める詩人の美しい信仰の思いに溢れているからです。エルサレムに神殿の建設される前のこと。おそらくダビデ試練の中の逃亡生活が背景にあると思われますが、彼は荒野に祈りの宮を築いたのでした。私たちも、神を求める思いさえあれば、どのような場所をも聖所とすることができるのです。詩篇に教えられ、神との豊かな交わりの中を生きるものとさせていただきましょう。
2013年11月20日水曜日
王となってからのダビデ
ダビデの前半生はサウル王に命を狙われる危険という試練がありましたが、後半生は、姦淫の罪を犯した後、罪は赦されますけれど、家庭内の問題が子どもたちの王位継承権争いにつながり、またまた大変な試練を経験します。最終的にはソロモンに王位を渡し、神殿建設準備を成し遂げて、地上を去るダビデは、一人の罪人でありながら、神様と共に歩み続けた、やはりイスラエル最高の王様、詩篇62篇はそのダビデの祈りの世界を伝えているのでしょう。
3節、命の危険がある。4節、彼を王位から突き落とそうとする人々がいる、この困難な時を、彼は祈りで乗り切りました。
1節、私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
彼は試練の時もまた神様の支配の中にあることを信じていましたから、やがて神様の御心の時には、救いが訪れるだろうと信じる信仰に立つことを選び、黙したのです。人につぶやかない。自分で策をろうしない。アブシャロムと戦わずに逃げたダビデは、賢明な信仰の道を選んだと言えるでしょう。
2節、神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。やぐらと訳されている言葉は、要塞です。古代イスラエルの要塞の遺跡は、石造りの堅固な城とも言えるようなもの。これならば敵との戦いに役立つだろう。しかし、ダビデは今、その要塞で敵を迎え撃つことが勝利につながるとは考えていませんでした。サウルから逃亡した時に、どこに逃げても、目に見えない神ご自身より頼りになるお方はいないと確信したダビデは、人生の後半で、もう一度、その信仰に立つ祈りをささげ、確信を深めたのでした。11節、神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。という言葉は、神の教訓が昔から変わらないこと、しかし、人はその教訓を、経験のごとに、確かな信仰へと変えていくものなのだと教えられます。
王であるダビデが10節、圧制にたよらなかったこと、略奪をも繰り返さなかったこと、富にもより頼まなかったことは、大変、知恵深い道と言えるでしょう。この世の多くの権力者が、おのれの力に頼り、富に頼り、滅んでいくことと、実に対照的なのです。
3節、命の危険がある。4節、彼を王位から突き落とそうとする人々がいる、この困難な時を、彼は祈りで乗り切りました。
1節、私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
彼は試練の時もまた神様の支配の中にあることを信じていましたから、やがて神様の御心の時には、救いが訪れるだろうと信じる信仰に立つことを選び、黙したのです。人につぶやかない。自分で策をろうしない。アブシャロムと戦わずに逃げたダビデは、賢明な信仰の道を選んだと言えるでしょう。
2節、神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。やぐらと訳されている言葉は、要塞です。古代イスラエルの要塞の遺跡は、石造りの堅固な城とも言えるようなもの。これならば敵との戦いに役立つだろう。しかし、ダビデは今、その要塞で敵を迎え撃つことが勝利につながるとは考えていませんでした。サウルから逃亡した時に、どこに逃げても、目に見えない神ご自身より頼りになるお方はいないと確信したダビデは、人生の後半で、もう一度、その信仰に立つ祈りをささげ、確信を深めたのでした。11節、神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。という言葉は、神の教訓が昔から変わらないこと、しかし、人はその教訓を、経験のごとに、確かな信仰へと変えていくものなのだと教えられます。
王であるダビデが10節、圧制にたよらなかったこと、略奪をも繰り返さなかったこと、富にもより頼まなかったことは、大変、知恵深い道と言えるでしょう。この世の多くの権力者が、おのれの力に頼り、富に頼り、滅んでいくことと、実に対照的なのです。
2013年11月6日水曜日
ダビデ北方遠征中に
今日は詩篇60篇を学びました。この詩篇は、ダビデの王権が確立する直前、エドムに勝利する戦の少し前の状況を背景としているようです。サムエル記第二を見ますと、勝利のみ記されていますが、困難な状況を経ての勝利だったようです。1〜3節では、神に拒絶されている様子、大地が揺らぎ、主の癒しを必要としているような、地震でもあったのでしょうか。そして3節、苦難をなめさせられている。よろめかす酒を飲まされた、とは、足がふらついて立つこともままならないような、試練、恐怖が彼らを襲っていたことを推測させます。
しかし、4節、主は主を恐れる者のために旗を残された。本丸はまだ落ちていない。振り仰げば力を得られる助けがある。
その希望通りに、5節、詩人が助けを求めると、6節、聖所から主の勝利の約束の言葉が与えられます。
9節から、しかしイスラエルは辛酸をなめました。おそるおそる戦いに主が同行されるのかと問いかけます。しかしこれは不信仰、疑いではありません。主が共にいてくださらなければ、戦うことはできない、主よ共にいてくださいという祈りです。
だから結論、11節、人の救いはむなしい。12節、神によって、私たちは力ある働きをします。と信仰を告白するのです。
イスラエルは勝利に酔いしれて、神によりたのまなくなっていたのでしょうか。成功の時に、それを自分の力のゆえであるかのように過信することが、私達にはあるのです。しかし、多くの状況が神様によって整えられることなしには、私たちの成功は存在しないのです。
神によって、力ある働きをする、人生の秘訣をこころえたいものです。
しかし、4節、主は主を恐れる者のために旗を残された。本丸はまだ落ちていない。振り仰げば力を得られる助けがある。
その希望通りに、5節、詩人が助けを求めると、6節、聖所から主の勝利の約束の言葉が与えられます。
9節から、しかしイスラエルは辛酸をなめました。おそるおそる戦いに主が同行されるのかと問いかけます。しかしこれは不信仰、疑いではありません。主が共にいてくださらなければ、戦うことはできない、主よ共にいてくださいという祈りです。
だから結論、11節、人の救いはむなしい。12節、神によって、私たちは力ある働きをします。と信仰を告白するのです。
イスラエルは勝利に酔いしれて、神によりたのまなくなっていたのでしょうか。成功の時に、それを自分の力のゆえであるかのように過信することが、私達にはあるのです。しかし、多くの状況が神様によって整えられることなしには、私たちの成功は存在しないのです。
神によって、力ある働きをする、人生の秘訣をこころえたいものです。
2013年10月30日水曜日
サウルが人々を遣わして、ダビデの家の見張りをさせた時
今日は詩篇59篇を学びました。表題にある出来事はサムエル記第一の19章に記されています。ダビデへの殺意を隠そうともしないサウルは、ダビデの家に刺客を送り、朝にはダビデを殺害しようとしたところ、妻ミカルがダビデを窓から逃がし、事無きを得たことですが、王に命をつけ狙われたダビデの心境、その不安や恐怖はいかばかりのことであったでしょうか。しかしそのような時にダビデは、逃げ出す手はずを考えるだけでなく祈って主の助けを確信し逃げおおせたということが重要です。危険や試練が襲って来たとき、私たちは人間的な救済手段を思いめぐらすだけでなく、すべてを支配しておられる神様の助けに信頼するため祈りを深める必要があります。
ダビデはゆえなく命を狙われていることを神様に訴えています。訴えもまた祈りです。神様はまどろむこともなく眠ることもない方ですが、しかし、目を覚ましてください、とダビデは祈ります。祈りの中で敵の姿が次第に変化して行き、誰をも恐れないように見える敵が、神によってさばかれる姿が見えてくるようになります。
救い出される前に、10節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。」とダビデは救いを確信しました。確信するまで祈る。そして、ダビデは最後、神をほめ歌うまでに変えられました。ダビデの生涯はこのような祈りが無意味でなかったことを私たちに教えているのです。
ダビデはゆえなく命を狙われていることを神様に訴えています。訴えもまた祈りです。神様はまどろむこともなく眠ることもない方ですが、しかし、目を覚ましてください、とダビデは祈ります。祈りの中で敵の姿が次第に変化して行き、誰をも恐れないように見える敵が、神によってさばかれる姿が見えてくるようになります。
救い出される前に、10節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。」とダビデは救いを確信しました。確信するまで祈る。そして、ダビデは最後、神をほめ歌うまでに変えられました。ダビデの生涯はこのような祈りが無意味でなかったことを私たちに教えているのです。
2013年8月14日水曜日
神の民こそさばかれる
今日は詩篇50篇を学びました。
1節、神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。6節には、天は神の義を告げ知らせるとあり、まことに神こそは審判者であるとあります。詩篇50篇のテーマは「神の審判」。人間を取り囲む、地と天が証人となって、その人の生き様を陳述するのですが、さばかれるのは誰か。
4節、神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せる。
神を崇めないものがさばかれるのではありません。神の民こそがさばかれる、信じていると言っている者が、神を礼拝していると言っている者が、その偽善をさばかれるというのです。
それゆえ偽善的な宗教行為ではなく、14節、真心からの感謝、神に対する誓いを果たす実践を伴った行動、そして、15節、神に対する信頼、これこそが必要だと読者を教えるのです。
いけにえをささげるということは旧約時代、神の民にとって重要な礼拝でした。しかし、それが真心からの感謝を伴ってささげられなければ、そして、神を礼拝して神の言葉に従う生活がなければ、責められさばかれる偽善に陥る危険性があったのです。
16節以降で批判される悪者も、主のおきてを語り、主の契約を口にのせる、見かけは神の民でした。ところが実質は聖書の命令を憎んでいる。それを投げ捨てて拾おうともしない。
最大の悪は、神を自分と等しい者だと思っている。創世記3章、人間の最初の罪も神のごとくなろうとする罪でした。自由を与えてくださった神様からのたった一つの戒めを破る、これによって創造主なる神、被造物なる人間のあるべき秩序を人は自ら破ったのです。
詩篇の表題にはアサフという名前があります。ダビデ時代の神殿礼拝、楽器演奏を担った人物であり、彼が手にしていたのはシンバルでした。シンバルは音楽の決定的な場面を演出する楽器です。神のさばきも、のべつまくなし表されるのではなく、神様は人間の歩みを忍耐深く見守っておられる。しかしその時代は永遠につづくものでなく、審判の時が来るのです。時代の流れにもクライマックスがあるのです。
聖書の言葉が真実であったことは歴史が証明しています。古代イスラエル王国は、神への反逆によって南北に分裂し、そのどちらもが帝国によって滅亡させられます。イエスの時代も、イエスの死後、ユダヤ戦争の時に、壊滅的に滅亡させられました。神の言葉に従わない、中身のない信仰は、滅びにつながったことを神の民イスラエルは身をもって証明したのでした。
すべてのことが明らかにされ、神の審判にさらされるとき、神の救いを見るものとさせていただきたいのですが、聖書を読むわたしこそまずその座に立たせられるということを覚えて歩みたいものです。
1節、神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。6節には、天は神の義を告げ知らせるとあり、まことに神こそは審判者であるとあります。詩篇50篇のテーマは「神の審判」。人間を取り囲む、地と天が証人となって、その人の生き様を陳述するのですが、さばかれるのは誰か。
4節、神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せる。
神を崇めないものがさばかれるのではありません。神の民こそがさばかれる、信じていると言っている者が、神を礼拝していると言っている者が、その偽善をさばかれるというのです。
それゆえ偽善的な宗教行為ではなく、14節、真心からの感謝、神に対する誓いを果たす実践を伴った行動、そして、15節、神に対する信頼、これこそが必要だと読者を教えるのです。
いけにえをささげるということは旧約時代、神の民にとって重要な礼拝でした。しかし、それが真心からの感謝を伴ってささげられなければ、そして、神を礼拝して神の言葉に従う生活がなければ、責められさばかれる偽善に陥る危険性があったのです。
16節以降で批判される悪者も、主のおきてを語り、主の契約を口にのせる、見かけは神の民でした。ところが実質は聖書の命令を憎んでいる。それを投げ捨てて拾おうともしない。
最大の悪は、神を自分と等しい者だと思っている。創世記3章、人間の最初の罪も神のごとくなろうとする罪でした。自由を与えてくださった神様からのたった一つの戒めを破る、これによって創造主なる神、被造物なる人間のあるべき秩序を人は自ら破ったのです。
詩篇の表題にはアサフという名前があります。ダビデ時代の神殿礼拝、楽器演奏を担った人物であり、彼が手にしていたのはシンバルでした。シンバルは音楽の決定的な場面を演出する楽器です。神のさばきも、のべつまくなし表されるのではなく、神様は人間の歩みを忍耐深く見守っておられる。しかしその時代は永遠につづくものでなく、審判の時が来るのです。時代の流れにもクライマックスがあるのです。
聖書の言葉が真実であったことは歴史が証明しています。古代イスラエル王国は、神への反逆によって南北に分裂し、そのどちらもが帝国によって滅亡させられます。イエスの時代も、イエスの死後、ユダヤ戦争の時に、壊滅的に滅亡させられました。神の言葉に従わない、中身のない信仰は、滅びにつながったことを神の民イスラエルは身をもって証明したのでした。
すべてのことが明らかにされ、神の審判にさらされるとき、神の救いを見るものとさせていただきたいのですが、聖書を読むわたしこそまずその座に立たせられるということを覚えて歩みたいものです。
2013年8月7日水曜日
恐れ
どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。
今日は詩篇49篇を学びました。詩篇の詩人は「恐れなければならないのか」と問いかけているようでいて、かなりの恐れを覚えているようです。わざわいに会っており、また彼のことを悪意をもって中傷しようとする人がいる。しかも彼らの方が財産や富を誇りにして、不幸な私をあざけっているようにみえる。
動揺することです。そんな現実の中に身をおいてしまったならば。しかし詩人は言葉を紡ぎ続けます。神のくださる教訓に耳を傾けるのです。
12節「しかし人は栄華のうちにとどまれない。」
15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」
20節「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」
移ろい行くものに心奪われ、不安にさいなまれるものではなく、「悟り」を得て、恐れないものとされたいと願わされました。
今日は詩篇49篇を学びました。詩篇の詩人は「恐れなければならないのか」と問いかけているようでいて、かなりの恐れを覚えているようです。わざわいに会っており、また彼のことを悪意をもって中傷しようとする人がいる。しかも彼らの方が財産や富を誇りにして、不幸な私をあざけっているようにみえる。
動揺することです。そんな現実の中に身をおいてしまったならば。しかし詩人は言葉を紡ぎ続けます。神のくださる教訓に耳を傾けるのです。
12節「しかし人は栄華のうちにとどまれない。」
15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」
20節「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」
移ろい行くものに心奪われ、不安にさいなまれるものではなく、「悟り」を得て、恐れないものとされたいと願わされました。
2013年8月1日木曜日
大王の都
昨日は詩篇48篇を学びました。ソロモンの神殿が存在していた時の情景、しかし讃うべきは宮ではなく、そこにいます神。2節に不思議な言葉が登場します。北の端なるシオンの山は大王の都。古代オリエントの神話では、神々が北の山に住まうという、その神話を逆手にとって、天地万物の創造主なる唯一の神が住むシオンこそ、その「北の山」なのだ、神々ではなく、諸王でもなく、全宇宙に唯一の「大王の都」なのだと歌うのです。
しかし今やエルサレムの都はかつての姿を失っています。ユダヤの民はこの詩篇と現状を見比べた時に何を思うのでしょう。
イエスを信じる者には、マタイの6章の言葉が響いてきます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」神が装わせた野の百合の方が美しいと。まして人間は野の草よりも神に愛されていると。
またパウロは言います。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていると。
他ならぬわたしが神の霊を宿す事のできる尊い存在であること、忘れずに生きるものとさせていただきましょう。
しかし今やエルサレムの都はかつての姿を失っています。ユダヤの民はこの詩篇と現状を見比べた時に何を思うのでしょう。
イエスを信じる者には、マタイの6章の言葉が響いてきます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」神が装わせた野の百合の方が美しいと。まして人間は野の草よりも神に愛されていると。
またパウロは言います。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていると。
他ならぬわたしが神の霊を宿す事のできる尊い存在であること、忘れずに生きるものとさせていただきましょう。
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