2012年4月16日月曜日
名前を呼ぶイエス
昨日は復活のイエス様にお会いしたマグダラのマリヤの箇所を学びました。名前を呼ばれるまでイエス様の存在に気づかないマリヤ。信仰とは人間の心の中に湧き上がるものですが、神様がおられるのでなければ、イエス様がよみがえられたのでなければ、与えられなかったものなのですね。そして天に昇られるイエス様は、あの世の希望であるだけでなく、この世での使命も教えられるお方と覚えました。また礼拝の中で先週に続いて洗礼式が行われたことも、ますますの喜びでした。幼い頃からキリスト教に触れておられた方ですが、いつまでもこのままではいけない、と最近になって気づきが与えられたとのこと。これもまた不思議ですが確かな神様の導きのゆえ、でした。みなで心から喜んだことでした。初めて礼拝に集われた方と、昼食の会話もはずみ、幸いな日曜日でした。
2012年4月11日水曜日
主はそのしもべのたましいを贖い出される
今日は詩篇34篇を学びました。神賛美への誘い。なぜなら主は悩む者の声を聞いてくださるお方だから。主を求めよう、主を恐れよう。締めくくりは主がしもべのたましいを贖い出してくださるという信仰告白となっています。教会は復活節に入りました。十字架のイエス様が信じるすべての人の贖いとなってくださったこと、それがこの詩篇の神賛美こそ私達にふさわしいことを裏付けているのではないでしょうか。
2012年4月10日火曜日
イースター 洗礼式
おとといの日曜日はイエス様の復活をお祝いするイースター、聖書では敢えて復活のイエス様の登場前までで終わりとしました。本当にただただ悲しみに沈むだけの女性たち、恐れおののいて隠れている男性たち、復活の事実がなければ、キリスト教なんて生まれなかったんだとつくづく思いました。そしてこの日は洗礼式もありました。幼少の頃からキリスト教に触れる機会があり、いちどは洗礼を受けてみないかと誘われたこともあった、けれど、おとといようやくその恵みにあずかることができた姉妹は、本当に喜びに満ちていました。そしてこれからもずっと共に歩んでいきたいものと思いました。感謝。
2012年4月2日月曜日
棕櫚の主日
昨日は棕櫚の主日、ヨハネの福音書からイエスの死と葬りを学びました。イエス様の「完了した」という言葉が、何よりも心に残ります。人の罪の罰の支払いを完了した。罪のない神の御子が私達のために命をささげてくださったのです。なんという恐れ多いことでしょうか。次週はイースターです。死んでよみがえられたイエス様のご復活をお祝いします。
2012年3月28日水曜日
詩篇32
本日の聖書の学びでは詩篇32を学びました。ダビデのマスキールとサブタイトルがついています。マスキールとは一説によると教訓、それも失敗から学んだ教訓との意味が考えられるそうです。確かに詩人が罪を犯して、神の赦しを経験したこと、そのたましいの真実が描かれています。罪を犯した人、過ちを犯した人は、その罪を償わなくてはなりません。それが地上の世界の現実です。しかし、聖書はそれだけが人間の全てであるとは言わないのです。人間がたましいを持った存在であり、罪を犯して汚れたたましいは、しかるべき浄めを必要としている。自分が赦すのでない、人が赦すのでもない、神が赦してくださる、そのために必要なこと、プロセスを教えています。罪過ちがあるのに、それを認めないことは、自分を欺くことになります。浄めに到達することはありません。神様は人間が自分を欺くことのないように、罪を犯せば痛みを感じる良心をすべての人に与えておられます。そして良心は体をむしばむほどに、私たちの心に訴えるのです。それで詩人は耐えかねるように神の前に認罪する過程へと進みました。すると全く不思議なことに神の赦しが詩人のたましいに訪れるのです。いや不思議ではないでしょう。聖書は一貫して真心から罪を悔い改めて告白する人を、神は赦すと伝えているのです。「それゆえ聖徒はみなあなたに祈ります。」クリスチャンは、罪を犯さないから聖徒なのではありません。罪を犯すけれども、神に赦され清めていただくことを知っているから祈り続ける信仰者なのです。私たちが注意しなくてはならないのは、悟りのないもののようになってはならないこと。過ちを指摘されたのに、私には罪はないと硬い心になってしまわないこと。清い神との心の交わりを保ち、神に教えられる時、やわらかな心で従っていくことなのです。心が痛む時、素直に神様の前に出ていく祈りを捧げ続けていきたいものです。
2012年3月8日木曜日
強く立たせてくださる神
詩篇30篇7節にはこう記されています。「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたがみ顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」神に信頼する者を強く立たせてくださる神への感謝がうたわれています。しかし、神によらなければ弱々しい詩人の姿も描かれていることが印象的です。信仰の詩人ダビデは文武両道、イスラエルの歴史の中でも最も愛されている王でありますが、彼は自分の力、自分の知恵によって国を繁栄に導き、祝福を受けたのでないことを告白します。すべては神の恩寵である。神のあわれみを必要とする人間である。そう祈りつつ、いつも自分を神の前に置いたダビデに信仰に今日も習っていきたいと思います。
2012年3月5日月曜日
それはわたしです。
昨日はヨハネの福音書18章を学びました。イエス・キリスト捕縛の場面で、力強いイエス様の姿が印象的です。捜しに来た人々に自ら名乗りを上げるヨハネの福音書のイエス様は、ユダの裏切りを必要としていないかのようです。ユダはただつったっているだけ。そして不思議なことが起こります。イエス様が「それはわたしです。」と言われると、人々はあとずさりし、地に倒れる。それはイエス様が口にした言葉が、ユダヤ人たちの口にすることもはばかってきた神の名だったからです。かつて神はモーセに「われはありてあるもの」と名を明かし、この名をイエス様が口にした時、人々はイエス様の言葉だけで、倒されたのでした。捕縛される場面で、600人以上の敵を圧倒するイエス様。しかし、イエス様は自ら十字架で死なれるために、弟子たちを逃し、ご自分で囚われの身となられたのでした。すべての人の罪を贖う代価としてご自分の清い命をささげるためでした。
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